アルファズル戦記

たつみ暁

第一部:白竜の王女エステル

序章:紅と赤の日

 紅蓮の炎。

 青年の目に映り込んだ景色は、その一色だった。

 城が燃えている。三百年、このシャングリア大陸の中心として君臨し続けてきた盟主国グランディアの王城アガートラムが、反逆者の手によってちようとしている。

 行かねば。その一念が青年の心を支配する。彼女のもとへ。誰よりも敬愛する主君のもとへ。

 迫りくる敵を、「邪魔だ」の一言と共に、銀の刃を振るって斬り倒す。紅の中に血の赤がしぶいて、視界がおかしくなりそうだ。

 だが、怯んでいる暇など無い。歩みを止めれば、その時間分、彼女に危険が迫る可能性が高まってゆくのだから。

 拳で頬の返り血を拭い、廊下を駆ける。やがて、がんがんと、何か硬い物を打ち壊そうとする激しい音が耳に届いた。

 嫌な予感がする。焦燥に駆られるまま廊下の角を曲がった時、その予感が幻想では済まなかった事を、彼は思い知らされた。

 敵は、二人。足元には、無惨に斬り捨てられて血の海を床に広げる正規兵の死体が、ふたつ。反逆者はそれぞれ大剣を手に、木製の扉に打ちかかっている。いくら扉が頑丈といえど、いつかは壊れる。そうすれば、彼女を守る物は最早何も無い。

 咄嗟に青年は床を蹴り、一息で無頼漢達との距離を詰めると、驚きを顔に満たしてこちらを向く連中に、容赦無く剣を振るった。銀の輝きが舞い、一人の頸動脈を断ち切り、一人の心臓を一突きに。

 その場に崩れ落ちる敵には目もくれず、血染めの己を顧みる事も無いまま、青年は扉に取りつき、大きく叩きながら、中にいるだろう人物に向けて声を張り上げる。

「――――様! ご無事ですか、――――……っ!」

 だが、その叫びは、背後から襲いきた鋭い痛みに中断させられる事となった。

 歯を食いしばって振り向けば、倒したはずの敵が、最期の力で立ち上がり、剣を振り抜いた体勢のまま、にやりと唇を歪めている。そして、ゆっくりと前のめりに倒れ込み、二度と動かなくなった。

 だが、青年も起き上がっている事がかなわなくなった。扉に爪を立てるが、虚しく滑り落ち、床に這いつくばるように、かろうじて肘と膝をついて、全体重を支える。

 斬りつけられた背中が熱い。生命が血液となって身体から溢れ落ち、今にも意識が遠のきそうだ。

 死ぬのか。彼女を守りきれないまま。

 絶望が黒い死神の姿をとって覆いかぶさってくる幻覚を見た時。

 不意に、白く温かい光が青年に降り注いだ。背中の流血が止まって痛みが霧散してゆく。

 回復魔法。魔力を帯びた選ばれし者のみに使える奇跡の業。そして、これだけ強力な回復の術を使える人間を、彼は一人しか知らない。

 果たして、顔を上げた時、青年が思い描いた通りの人物が、そこに立っていた。

 艶やかな、水色がかった銀の髪。よくできた人形に命を吹き込んだかのような端正な顔。春の若草を思わせる翠の瞳は今、憂いに揺れている。

「――――――」

 青年が慕ってやまない、誰よりも愛しい女性が、彼の傍らに膝をつき、薄い唇から彼の名を紡ぎ出す。こちらがどきりと心臓を大きく脈打たせているのを知ってか知らずか、彼女は、その腕に抱いていたものを、そっと差し出した。

 産着に包まれた、彼女と同じ髪色を持つ、赤子を。

「――――を、この子を連れて逃げてください」

 その言葉に、青年の心臓は先程とは違う意味で跳ね、褐色の瞳が限界まで見開かれる。

「――――様は」

「私は、ここに残ります」

 翠眼に、凛とした決意が宿った。

「反逆者達が私を狙っているのは明らかです。私は女王として、この事態をみすみす招いた責任を取らねばなりません。ここに残り、彼らの目的を聞き届けねばなりません」

「駄目です!」

 ようやっと力の入るようになった身体を起こして、すがりつくように、懇願するように、彼女の両肩を強くつかむ。

「どうか――――様もお逃げください! 貴女が失われたら、この国はどうなるのですか!?」

「貴方こそ、考えなさい」

 ぴしゃりと水を打つように、冷静な言葉が青年の耳朶を打った。『争い無き世界を望む優女王』の二つ名が嘘のような鋭さを込めて、彼女は言うのだ。

「私が貴方と共にこの場から逃れれば、彼らは諦める事無く、地の果てまで私達を追ってくるでしょう。私一人が残る事でこの場が収まるのならば、貴方はこの子を連れて身を隠し、そして、再起をはかりなさい」

 それは、願いでも、祈りでもなく、命令だった。そして彼女の命令に背く事は、青年にはかなわない事であった。

 ばたばたと。新たな足音が近づいてくる。

「行きなさい!」

 彼女が強引に、赤子をこちらの腕に押しつけてくる。母親の手を離れた途端、何かを感じ取ったのか、赤子がむずがり、火のついたように泣き出した。

 きっとこれが、今生の別れになる。それを、頭では理解しつつも、心が認める事を拒んだ。

「迎えに、まいります」

 立ち上がり、曇り無き翠の瞳を真正面から見つめる。この光に、惹かれたのだ。この輝きに、何度も救われたのだ。だから、今度は自分が彼女の心を支える番だ。大切に、大切に、言の葉を爪弾く。

「必ずお助けにあがります。ですから、必ず生き延びてください」

 彼女が軽い驚きに目をみはった後、きっと唇を引き結んで、こくりと頷く。それが虚しい口約束である事は、もうお互いが認められる歳になっていた。

 泣きわめく赤子を抱いたまま、踵を返す。振り返る事の無いまま駆け出す。手近な窓を剣で叩き割り、城外へと飛び出して、器用に屋根を伝いながら、青年は雨の中へと駆け出した。

 冬の雨はやがて、雪に変わる。

 逃げ切らねばならなかった。足跡が残ってしまう前に。


 聖王暦二八二年二月。

 大陸の中心国であったグランディア王国は、宰相ヴォルツ・グレイマーの反逆に遭い、女王は囚われ、心ある家臣は全て、処刑されるか散り散りに国外へ逃亡して、国としての機能を停止させた。

 ヴォルツは自らを『神に選ばれし真の王者』と名乗り、女王を妻とすると、グランディア帝国の発足を宣言、大陸各地へ兵を送り始めた。

 友好国、中立国。女王が築いてきた絆を嘲笑うがごとく叩き潰し、立場も地方も関係無く侵略された各国は、あるいは主君を失って瓦解し、あるいは帝国に恭順の意を示して何とか生き永らえた。

『争い無き世界を望む優女王』と称えられていた女王はやがて、一人の皇子を遺して他界する。

 その後、帝国の暴虐は更に度を増し、人々は圧政に苦しんで、女王の評価は簡単に裏返った。

『平和を守れなかった史上最悪の魔女』

『シャングリアに戦乱をもたらした悪女』

 彼らは口々に、自分達を守ってくれた女王を非難し、怨嗟の声は大陸中に満ちた。


 彼らはまだ、知らない。

 死して尚、誹りという屈辱を甘んじて受ける彼女が、この世界に残した、希望の種を。

 その種は、辺境の地で、静かに芽吹きつつある事を。

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