#62 お仕置きと即落ち

「お、おらをどうするつもりだ……」


 ずたろうは身構えてじりじりとあとずさる。


「とって食おうってんじゃねえよ。まちがいなく腹を下すからな。そんなことより、おい、シムジー」


 と、レンジはシムジーの弁慶の泣き所を軽く蹴とばした。ふつうに声をかけるだけでは意味がないとよくわかっているからだ。


 自分の思考世界に深く沈み込んでいたシムジーは、レンジに蹴られたことでわれを取りもどした。


「おや、レンジ氏。どうかしたかね?」


「おまえにいい知らせがあるんだ」


「すまないが、いま忙しいのだよ。なぜか急に痛みだしたすねの謎を解明せねばならなくなったのでね」


 そう言って、シムジーはすねをさすりながらふたたび自分だけの世界に入り込もうとする。


「まあまてよ。それはおれが蹴ったからだ。ほら、謎は解けたろ?」


「なんだ、そうだったのか。これで研究の必要はなくなった。では、よい知らせとやらを聞くとしようか」


 切り替えの早い男である。蹴られたことは気にしなくてもよいのだろうか。


「じつはな、そこのずたろうがぜひともおまえの研究に協力したいと申し出てくれたんだ」


 レンジがずたろうを指さした。


「な、な、な、なんだってぇ! 願ったり叶ったり! ありがたき幸せ!」


 シムジーはくどい驚き方をし、困惑するずたろうのちいさな前足をがっしりにぎってぶんぶんと上下に振った。


「えっ? おら?」


「まず手始めに解剖──はいかんな。せっかくの希少な生きたサンプルだ。では、観察からはじめさせてもらおうか。そうだな……一日二十時間だけでいいからいっしょにいさせてくれるかね?」


「に、にじゅうじかん?」


「ぼくが睡眠や食事をとる以外の時間はつねに目を離さないつもりだ。なあに、きみはきみの好きなように生活してくれればいい」


 シムジーはとんでもない爆弾発言をして手をわきわきさせた。だれが見ても完全に犯罪者の手つきである。その異様な姿はシュウトたち──とくにアイレン──の背筋をぞわぞわさせた。


「いやだぁ! シュウト、なんとかしてくれぇ! 助けて、アイレン!」


 ずたろうが捨てられた子犬のようなうるうるとした瞳で救援要請を出した。


 だが、いまこの場にずたろうの味方をしてくれる者はひとりもいない。やらかした者に与えられる正当な罰だ。


「いい薬だ。これにこりたら、すこしは思慮深さというものを覚えることだ」


「そんなぁ……」


 落ち込むずたろうに魔の手が迫りくる。シムジーがいつのまにか背後にまわり込んでいた。


「さあ、ずたろう氏! ぼくとともに楽しい研究ライフを送ろうではないか!」


「いやだ、いやだぁ!」


 逃げるずたろうに追うシムジー。


「どこまでもついていって観察させてもらうからね!」


 純粋な少年のような表情をしたジムジーが高らかにストーカー宣言をする。トンボを追いかけて原っぱを駆けまわっていた幼少時代にもどったかのようだった。もっとも、彼はいまでも頻繁に虫アミをもってフィールドワークに出ているから、昔となにも変わっていないのだが。


 せまい研究室のなかで再び鬼ごっこがはじまってしまった。ずたろうを追いかける鬼がレンジからシムジーにチェンジして。


「それにしても、シュウトさんが治って本当によかったです。あのままもとにもどらなかったらどうしようかと不安だったのですよ」


「そんなにひどかったのか、おれの状態は」


「はい、それはもう。さっきまでのことはまったく覚えていないのですか?」


「そうだな。記憶にない──いや、なんとなくだが、ずっと白昼夢を見ていたような気がしてきたな」


 ううむ、とシュウトは唸りながら記憶の糸をたぐる。そして思い出したのは、ひとつの忌まわしき記憶だった。


「シュウトさん? どうかされましたか?」


 アイレンがシュウトの異変に気がついた。


 シュウトの額には汗がにじみ、顔は青ざめ、手が震えている。はあはあと荒く呼吸をしながら声を絞りだした。


「アイレン……ひ、ひとつ教えてくれ。もしかして、さっきのおれは、目のまえのポイ捨てを……見逃していなかったか?」


「うーん──あっ、そういえばありましたね。レンジさんがシュウトさんの様子をたしかめようとして」


「そのときのおれは、なにか言っていなかったか?」


「えーっと、たしか『なんだ、ただのゴミか』とおっしゃっていたような──」


「やっぱりそうか……ぐはあっ!」


 シュウトが激しく吐血した。


「きゃあっ! 大丈夫ですか、シュウトさん!」


「おいどうしたんだよ、シュウト! 急病か! まさか、またなにかの毒にやられたんじゃねえだろうな!」


 レンジが目を大きく見開いて驚いた。アイレンは何度か経験があるが、彼がこの光景を見るのは初めてなようだ。


「いえ、病気ではありません。シュウトさんはなにかのまちがいで自分がポイ捨てをしてしまうと、このような痛ましいことになってしまうのです」


「そんなのありえねえ! ──と言いたいところだが、シュウトなら納得できるな。ってか、それはもはや病気なんじゃ……」


 それも決して完治することのない厄介極まりない病である。


 病気かどうかはともかくとして、レンジはシムジーに助けを求めようとする。しかし彼はいま、ずたろうとの鬼ごっこに夢中でそれどころではなさそうだった。


「なかなか優れた敏捷性だ。さっきもレンジ氏と楽しそうに追いかけっこをしていたようだが、ずたろう氏はいつもこうして走りまわっているのかな?」


「おめぇが追いかけてくるから逃げてるんだぞ!」


「ふむ、ならば距離をとって双眼鏡で観察しようか」


「それもいやだい!」


 ひとりと一匹はシュウトのことなど眼中にないようだ。


「このおれが、ポイ捨てを、見逃しただと……がはぁ!」


「しっかりしてください、シュウトさん! 傷は浅いです!」


「さあっ! きみのすべてをぼくに見せてくれ!」


「もういやだぁ! おらについてくるなぁ!」


 あちらこちらで起こっている騒ぎはもはや収拾がつかない。


 ひとりぽつんと取り残されたような気がしたレンジは、ふぅと息を吐いて大きく伸びをする。ソヨギとの修行で酷使した筋肉がずきずきと痛み、「いてて」と小さなうめき声をもらした。


「……帰ろう」


 とつぶやき、このしっちゃかめっちゃかな研究室をあとにした。

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