#11 新生活はたくましく
すっかり日が暮れて、街灯に明かりが灯っている。その光に照らされた石畳の道を、シュウトが新居へ向けて足を進めていた。日雇いの清掃員の仕事を終え、わずかばかりのバイト代をもらった帰りだった。
「これでひとまずは安心だな。でも──」
シュウトは立ち止まって、封筒から取り出した紙幣をあらためてじっくりと見てみる。見たことのない紙幣には見たことのない肖像画が描かれていた。しかし、貨幣の単位には見覚えがあった。
「千円ね……」
紙幣にはたしかに千円と印字されていた。ほかの数枚の札も確認するが、やはり千円札に間違いなかった。なぜか日本語の通じるこの世界で貨幣の単位に円が使われているのは、はたして偶然の一致なのだろうか。ニッポンという名前の国で日本円が使われているのは、むしろ自然なことだと言えるだろうか。
どうせ考えたって答えは出ないとすでに割り切っているシュウトは、それ以上の思案をやめてふたたび家路についた。
目指す新居は、数時間前に越してきたばかりにもかかわらず、迷う心配はいっさい必要なかった。一目でそれとわかるおんぼろアパートなど、近所には他に一軒も見当たらなかったからだ。
シュウトはアパートに到着し、先ほどと同様に慎重に階段をのぼる。カギをあけて家に入ると、奥からジュージューという音が聞こえてきた。
「料理でもしてるのかな?」
金もないのに食材や調味料はどうしたのだろうか。疑問に思いつつ廊下から部屋につづく引き戸をあけると、食欲をそそるいい香りが漂う。
「あ、シュウトさん! おかえりなさい!」
部屋の一角に設けられたキッチンで料理をしていたアイレンが、バイト帰りのシュウトを元気に出迎えた。ワンピースの上にエプロンを着けてキッチンに立つ姿は、なかなか様になっている。顔をシュウトのほうに向けつつも手ではフライパンで野菜を炒めていて、かなり手慣れているようだった。
「ああ。た、ただいま……」とシュウトはぎこちなく返事を返す。「なあ、アイレン。どうしたんだ、それ?」
「それ?」
アイレンは塩が入った小瓶を振りながら首をかしげた。
「服とかエプロンとか、食材や調味料もそうだし──」
「そんなことより、もうすぐできますから、手を洗ったら座ってまっててくださいね」
シュウトは言われたとおり洗面所で手を洗ってから部屋にもどった。部屋の中央にはちゃぶ台のような低いテーブルが置かれてあり、そのまわりに敷かれたふたつの座布団の一方に腰をおろす。
手持ぶさたになったシュウトは、室内の様子をじっくり観察してみることにした。
内装はボロボロの外観とは合わないこぎれいなもので、一度はリフォームされたのだと思われた。六畳よりも明らかに広いワンルームは、ひとり暮らしではもてあましそうだ。もともと寮だったとのことだから、ふたり部屋だったのかもしれない。ちゃぶ台のほかに家具はなく、シュウトもアイレンもほとんど手荷物を持っていなかったため、よけいに広々と感じられるのだろう。
「できましたよー」と言って、アイレンが完成した料理を皿に盛りつけて運んできた。「あまり食材がなかったので一品しかありませんが、どうぞ召し上がれ」
シュウトのまえに置かれた皿には、たっぷりの野菜炒めが盛られていて、三種類ほどの野菜が入っているのが見てとれた。
「それじゃあ、ありがたくいただきます」と手を合わせてから、箸を手に取ってまずはひと口食べてみる。「うん、うまいな」
「ほんとうですか? お口にあってよかったです!」
シュウトの反応を見て安堵したアイレンも食べはじめた。
「さっきの話の続きだけど、お金もないのにどうやって色々と手に入れたんだ? きみの服もかわってるし、料理に使うものもそうだし──」
と、シュウトは箸で野菜をつつきながら言った。
「お野菜以外のものは、おとなりのおばさまからいただいたものです。引越しのあいさつにうかがったときに、いろいろと分けてくださいました。このワンピースは娘さんのお古だそうですよ」
「となりだって? このおんぼろアパート、ほかに住んでる人がいたのか」
「いえ、おとなりの一軒家のことです。一部屋ずつまわってみましたけど、ここにはだれも住んでいないようでした」
「やっぱりな」
「それにしても、初対面のわたしにこんなにも親切にしてくださって、ありがたいことです。おとなりのおばさまは、まるで聖女さまのようなお方ですね!」
「お、おう。そうかもしれないな──」
シュウトは言葉を濁した。そのおばさまとやらがどういう人なのか知らないが、なんとなく想像はできた。となりのボロアパートに引っ越してきたみすぼらしい身なりの少女を、みじめに思ったのではないだろうか。親切心というより、憐みや同情によるものだったのではないだろうか。
「それで、この野菜はどうしたんだ? そこらへんに生えてたものじゃなかろうな」
と言って、シュウトは笑った。
「よくわかりましたね! そのとおりです。このお野菜はさっきそこで収穫したばかりの、とれたて新鮮なものです」
「え……ほんとに?」シュウトは自分の耳を疑った。「冗談のつもりだったんだけど──どこで?」
「はい、ほんとうです。うちの庭で」
「うちの庭……まさか、この数時間で家庭菜園を?」
「さすがにムリですよ」と言って、アイレンはくすくす笑った。「もともとなっていたものをとってきたのです」
「この無人アパートの庭に野菜が? そんなバカな──」
「見てみればわかりますよ────ほら」
アイレンは窓に近寄ってカーテンをあけ、手招きした。シュウトは疑いながらも窓から外をのぞいてみる。
窓からはアパートの裏手が見えた。正面からは見えなかったが、ちょっとした畑になっている。もっとも、長いこと放置されて雑草が伸びほうだいの荒れほうだいで、畑と呼べるしろものではなかった。
「……雑草ばっかりなんだが」
「もっとよく見てください」と、アイレンが茂みのなかを指さす。「ほら、あそこにありますよ」
シュウトはアイレンが指さす先に目を凝らしてみる。すると、雑草の生い茂るなかに、ナスやトマトのような実がなっているのが見えた。
「ほ、ほんとだ……よく気がついたもんだ。しかし、いったいだれが?」
「きっと、以前に住んでらした方たちが育てていたのだと思います。住人がいなくなったあとも種を落とし、生長して、また新しい命をつくる。それがいままで続いてきたのでしょうね」
「なるほどな。でも、こんなに荒れほうだいの畑で、しかも勝手に育つとは、とても信じられんな──」
「お野菜だって、もともとは野生の植物だったのですよ。お世話をしなくても、ちゃんと育つはずでしょう? もちろん、味や栄養は落ちてしまいますが」
「もともとは野生だった……そうか、そうだよな。水をやったり肥料をやったり、人が手をかけてやらないと育たないなんて、勝手な思い込みだったよ」
シュウトは納得してうなずいた。捨てられたペットが野生化して大繁殖した、なんて話も聞いたことがあるし、人が思う以上に動植物とは強いものだ。
「それにしても、きみには驚かされてばかりだ」
「はい? どうしてですか?」
「意外とたくましいな、って思ってさ」
「たくましい、ですか……こういうことですね!」
アイレンは細腕にめいっぱい力をこめ、力こぶをつくろうと奮闘する。
「いや、そういう意味じゃなくてだな……物怖じしないというか、行動力があるというか。もしおれひとりだったら、今日は晩飯抜きになってただろうし、最悪の場合は野宿する羽目になってたかもしれない」
「うーん……そうですか?」
いまひとつピンときていないアイレンは、メトロノームのように頭を左右に揺らしながら考え込んだ。
「まあいいさ。それより、冷めないうちに食べてしまおう」
ふたりは夕食を食べ終え、食器を台所に運んだ。食器洗い用のスポンジや洗剤が置かれており、おそらくこれも隣人からのいただきものだろう。
「洗いものはおれがやるよ」
「いえ、わたしが──」
アイレンが言い切るよりはやく、シュウトはてきぱきと食器を洗いはじめる。たいした量ではなかったが、瞬く間に洗い終えてしまった。
「うわあ、すごいです! あっというまにピカピカになっちゃいました!」
「料理はできないけど、きれいにするのだけは得意なんだ」
洗いものでも美化委員としての力量を発揮したシュウト。アイレンは、磨かれた食器のように目をキラキラと輝かせ、シュウトに羨望のまなざしを送った。
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