第7話:彼の友人として

 僕は自分が不登校だった頃を思い返した。あの時、僕は家から出ようとするだけで過呼吸になっていた。だけど、一度だけ家を出られた日があった。母に一緒に行こうと手を引いてもらった時だ。

 僕はその日、いつもより早めに家を出て柴崎の家に向かった。インターフォンを押すと、背の高い方の父親が出てきた。


「三輪くん……」


「おはようございます。……迎えに来ました。学校に行く気はあるんだって、本人から聞いていたので」


「……ありがとう。賢人! 三輪くんが迎えに来てくれたよ!」


 彼の父親が声をかけると、荒い呼吸音と足音が近づいて来た。制服姿の彼が、苦しそうに胸を押さえて息を吐きながら、玄関から顔を出す。


「柴崎。過呼吸になった時は息を止めると良いんだよ」


「……知ってる。……お前の顔見たら、ちょっと落ち着いてきた。……来てくれてありがとう」


「……うん。行けそう?」


「……」


 恐る恐る、彼は玄関から足を一歩踏み出した。震える足取りで一歩ずつ、僕に近づいてくる。父親二人が頑張れと彼を応援する。僕も心の中で応援する。しかし、彼は足を止めて俯いてしまった。


「ごめん……三輪……やっぱり怖い……」


 僕は彼に近づき、手を取る。


「僕がついてるから。一緒に行こう」


「三輪……」


 彼の手を引いて、学校に向かって歩く。同じ制服を着た生徒とすれ違うたびに彼は足を止めた。だけど僕は構わず彼を引きずった。彼も抵抗せず、大人しく引き摺られた。

 何度も足を止めたけれど、それでも引き返さずに進み続ける。途中にあった公園で時計を確認すると、始業時間はもうとっくに過ぎていた。

 やがて、校門が見えて来た。前に誰か立っている。その人は僕らの姿を見つけると、大きく手を振った。二階堂先生だ。僕は思わず彼の手を引いて先生に駆け寄った。


「おはよう。三輪。それと……柴崎」


「おはようございます」


「おはよう……ございます」


「学校で会うのは久しぶりだな。柴崎」


 先生はそう言って、心の底から嬉しそうに笑った。僕の好きな先生の笑顔が見れて嬉しくなる。


「さ、二人とも。教室に行こうか。みんな待ってるよ」


 差し伸べられた先生の手を取る。だけど柴崎は今までにないほどの強い力で踏ん張り、首を振った。


「む、無理、無理、無理です。教室は、無理です」


「そうか。分かった。じゃあ三輪、一人で教室に行っててくれ」


「……はい」


 柴崎の手を離す。


「あ……三輪……」


「大丈夫。先行ってるからね」


 柴崎はこくりと頷いた。頷き返して、教室に向かう。中に入ると視線が集中した。気まずい空気の中、挨拶をして席に向かう。


「珍しいね。遅刻なんて」


「……ちょっとね」


 授業は淡々と進み、全く頭に入らずに終わった。柴崎はまだ来ない。保健室に居るのだろうか。それとも相談室だろうか。様子を見に行こうと立ち上がると、教室のドアが開いた。扉を開けたのは柴崎だった。ざわついていた教室から、ざわめきが少しずつ消えていく。柴崎は固まってしまって動かない。動けないのかもしれないと思い、迎えに行こうとすると、一人の女子生徒が立ち上がり彼の元へ向かった。そして教室に響き渡る声で「ごめん」と謝った。彼女は僕の世界で柴崎と付き合っていた女の子だ。どうやら柴崎の好きな女の子というのは、彼女のことらしい。

 彼女は泣きながら何度も柴崎に謝った。彼のことを悪く言っていたクラスメイト達も、彼の元に謝りに行った。彼は自分をいじめたクラスメイト達のことを許し、ぎこちなく笑った。




 翌日。僕は昨日と同じく柴崎の家に向かおうと、昨日と同じ時間に家を出た。

 家の前につき、インターフォンを押そうとすると玄関が開いた。彼が出て来て「おはよう」と笑う。そして少し恥ずかしそうに「正義」と僕の名前を続けた。


「おはよう。……賢人」


 僕がそう返すと、彼はパッと顔を輝かせて嬉しそうに頷いた。あぁ、やっぱり僕の世界にいた彼とは全然違うなと思ったけれど、不覚にもその笑顔にときめいてしまった。


「……賢人って、女の人しか好きになれないの?」


 僕がそう問うと、彼は複雑そうに「同性に対して恋愛感情を抱く気持ちは理解出来ない」と語った。


「……そっか。そうだよね」


「……正義は、向こうの世界の俺が好きだったんだっけ」


「うん。……初恋だった」


「……そっか」


「けど、君のことは好きにならないよ。僕、今好きな人居るから」


 僕はそう言って強がってみせる。すると彼は「二階堂先生のこと?」とニヤニヤしながら言った。


「う……なんでわかったの……」


「バレバレ」


「……そんなにわかりやすい?」


「わかりやすい。……分かりやすすぎるよ」


 複雑そうな顔をする彼。僕の強がりは見破られているのだろうと察する。無理もない。自分でも誤魔化せてるとは思って居なかったから。


「……付き合いたいとは望まない。ただ、幸せになってほしい。……僕の好きは、そういう好きだよ」


 幸せになってほしい。それは本当だ。二階堂先生にも、それから、この世界の柴崎賢人にも。あれだけ人の不幸を願っていた僕はもうどこにも居ない。二階堂先生に言われて、僕は決めたんだ。誰かの不幸を望むのではなく、幸せを望もうと。僕はもう、誰も呪わないと。悪いことをすると自分に悪いことが起きるって、二階堂先生が言っていたから。


「……俺も同じ。彼女には幸せになってほしい。……なんて、言葉ではそう言えるけど……本当は凄く悔しい。……三輪の居た世界なら俺の恋は叶ったかもしれないのに」


「……そうだね」


 前の世界では僕と彼の立場は逆だった。逆になれば良いと思っていた。けれど、いざ逆転したところで、虚しいだけだった。

 因果応報。僕にはまだそれを身をもって実感したことはないけれど、実際にこの世界の賢人が苦しんでいるところを見た時、良い気はしなかった。ざまあみろなんて、言えなかった。二階堂先生に説教されて、自分のしたことは彼らが僕にしたことだと気付けたら、途端に自分が嫌になった。あんな奴らと同じになりたくない。僕は、二階堂先生みたいに優しい人になりたい。これ以上、二階堂先生や賢人が悲しむ必要のない世界になってほしい。今の僕は、心からそう思える。だから……。


「賢人。僕は、一生君の味方になると誓うよ。たとえこの先、何があっても」


 僕がそう言うと彼は目を丸くして「なんかそれ、プロポーズみたいだな」とくすくす笑った。


「う……ちょっと、キザだった?」


「ちょっとというか、かなり」


「……なんか恥ずかしくなってきた……忘れて」


「はははっ。やだ。忘れない。あとでもう一回言って。録音するから」


「やだよ! 二度と言わないから!」


「えー」


 くすくすと笑う彼。彼は初めて会った時とは見違えるほど明るくなった。だけど、根本的な問題は何も解決していない。僕は異性愛者である彼の友人として、差別される辛さを知っている人間として、この世界に蔓延る異性愛者差別をなくしたい。そのために僕は何が出来るのだろう。今の僕には分からない。それがなんだか歯痒くて仕方なかった。

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