Day 8『金木犀』
「土曜日はクリスマスデートなんです」
そう言う彼女の笑顔がすごく可愛らしくて、僕は一瞬見惚れてしまった。恋なんてしたって何もいいことなんてありゃしないのに…。
部活のない水曜日の放課後。
僕はファミレスでアルバイトをしている。土日と水曜の週三日。学校と自宅の中間にある店なので、交通費がかからずちょうどいい。ただ…。ただ、最近ちょっと嫌になってきている…。
お客様の帰った後の机を片付けながら、こっそりため息を吐くと、視界の端でポニーテールが愉しげに揺れた。明るい笑顔でお客様を席に案内しているあの彼女が、僕のため息の理由だ。
…あぁ、もう土曜日なんて来なければいいのに。
僕は彼氏のいる女の子を好きになってしまった。
どうして好きになってしまったのかは、もう分からない。でも、好きになってしまったのだ。
少し明るい茶色の柔らかな髪、じっとこちらを見つめる黒い瞳…。鈴の音のような可憐な声は聴こえるだけで心が弾んだ。
でも、彼女いない歴=年齢の僕には略奪愛なんてできるわけもなく、どんなに彼女が愛おしくても僕の気持ちは秘めておくしかなかった。
「お疲れ様でーす」
シフトが終わり、帰る準備をしていると、休憩室の扉から彼女が顔を出した。
「…あ、先輩。もう帰られますよね?
ちょっと相談があるんですけど、このあと時間ありますか?」
そう言って長い睫をパチパチさせ、小首を傾げる彼女。ポニテを解いて肩に垂らした髪型は、バイト中とは違う可愛さがあった。
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「土曜に彼氏とデートがあるって、私言ってたじゃないですか?」
目を伏せて、もじもじと恥ずかしそうにする彼女。頬がほんのり赤いのが可愛らしい。
「…実は彼氏へのクリスマスプレゼント、何が良いか迷っていて…。そのぉ…男の人の意見を参考にしたいので、一緒に選んでくれません?」
好きな女の子の彼氏へのプレゼント選び…。
僕には全くメリットのないお願いの筈なのに、悔しいことに心が弾む。…ただ彼女と一緒に過ごせるだけで、こんなにも嬉しい。
「…いいよ、僕でよかったら」
あぁ、この台詞は告白されたときに言いたかったな…。
自分のチョロさに情けなく思いながら、にっこり笑ってみせる。休憩室には換気扇の音が低く響いていた。
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木曜日の放課後。
駅前のショッピングモール。
「おまたせしましたー!」
「…うぅん、僕も今来たところ」
小走りで駆け寄ってきた可愛い彼女に、デート定番の台詞を吐く僕。心が踊る虚しさは気づかれないように飲み込んだ。
「で、どんなモノを考えてるの?」
「小物かアクセサリーか、お菓子が良いかなって思うんですけど…」
長い睫をパチパチ差せながら、嬉しそうに話す彼女は、いつもより可愛く見えた。
手を伸ばせば触れられるこの距離が、とても嬉しくて、とても切ない…。今、ピョコピョコ跳ねているポニーテールはデートの時はもっと愉しげに弾むのだろうか。
「…先輩?」
こちらをじっと心配そうに覗きこむ黒く大きな彼女の瞳。つい見つめ返すと、何だか吸い込まれそうな気がして…。
「……っ!!」
彼女は顔が真っ赤に染まって、パッと顔をそらした。何だか僕もそれにつられて、頬がカーッと熱くなる。別に何をしたわけでもないのに、見つめ合ってしまっただけなのに…。僕らの間に妙な空気がじんわり広がった。
「…え、えっと、あ!
あのぬいぐるみ可愛くないですか?」
…と、急に彼女はクレーンゲームの方へ駆けていく。
そこには抱きまくらみたいに大きなサイのぬいぐるみ。ビー玉の目が優しくこちらを見つめている。
「いーなー…!私が欲しー!」
「…プレゼントのお金なくなっちゃうよ」
「えー?じゃあ、先輩が取ってくださいよー」
クスクス笑って返す彼女の耳はまだほんのり赤いままだった。そして、それはきっと僕の耳も…。
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「…実は、最近彼氏の様子が変なんですよね」
影の長く伸びた住宅街。
あのあと、何事もなく買い物を済ませた僕たちは帰路に着いていた。少し不自然な雰囲気になったことに蓋をするように、僕たちは自然な態度を装っていた。
そんな中で、ぽろっと漏れた彼女のひと言。
「なんか…浮気されてる…気がして…」
側を原付バイクが通り過ぎる。空気がぬるくなった気がした。
「…最近、返事が少し遅いし…。
デートもやたらとドタキャンされるし…。今度の土曜だって、ホントは昼から動物園に行くはずだったのに、夕方からに変更で、カラオケと晩御飯だけになっちゃったし…。バイトが急にシフト変更になったとか言ってたんですけどね…」
いつの間にか、空は黄色くなっていた。ぬるい風がそよいで、彼女の髪がふわっと揺れる。どこかで嗅いだよく知っている甘い香り。とろけるようなその香りに僕の口が思わず緩み、こぼれかけたその瞬間。
「まぁ、しょうがないんです。私は彼が好きだから」
パッと彼女が振り向いた。僕の言葉を遮るように。
気づけば空は藍色で西の空だけ赤かった。
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その日の夜。
布団の中で、僕はぼんやり考えていた。何か彼女に言うべきだったのか。言えば何か変わっていたのか。それで彼女と付き合えてたのか。それは彼女に幸せなのか。僕は彼女を好きでいいのか。僕は今のままでいいのか。
ぐるぐるぐるぐる思考が巡る。
涙に濡れた彼女の瞳と
大きなサイのぬいぐるみ。
黄色い空に漂う香りは、
可憐に咲いた秋の花。
ぐるぐる気持ちが溶けるみたいで、僕は小さく呟いた。寝言じゃないといえないけれど。
僕は何度も呟いた。吐きそうに甘い夢の中で。
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朝。
まぶたは開かないくらいに腫れていた。溺れる夢を見ていたくて、祈るように日付を見る。
どうか水曜日でありますように。
だけど、今日は金曜日。土曜日の前日で、水曜日の二日
妬む自分も甘い自分も不愉快で、力いっぱいに鼻をかんだ。とろける香りを忘れるために。
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