Day 7『引き潮』

輝く夜に姫を見てる~コアラ☆そい!の顛末~

 これは内緒のお話。


 その日、少し嫌なことがあって、私は海を見ていた。両親のいない私は昔から、嫌なことがあった日は海へ来る。空はもう真っ暗で、辺りには人っ子ひとりいなかった。

 砂浜へ降りる階段に腰かけて、ひとりでぼんやり海の方を見つめていると、不意に肌がゾワゾワとした。髪の毛がフワワーっとはためく。

 それはただの海風にしては少し変だった。風が吹いているというよりも、まるで何かに引っ張られているみたいで…。

 不思議に思いながらも立ち上がると、そのまま、ふらふら~っと海の方へ身体が引っ張られた。しかも、立ち止まろうとしても、止まらず、あっという間に波打ち際へ…。


 このままでは海に入って濡れてしまう…っ!


 冷たい海水を思い浮かべて、ギュっと眼をつぶった私だったが、いつまで経っても、冷たく濡れる気配はない…。

 恐る恐る目を開けると、なんとそこは海の上!

 いつの間にやら、空中に浮かんでいたのだ。見えないエスカレーターにでも乗っているかのように。

 そのまま、どんどん陸から離れる私の身体。

 足をバタバタさせて暴れても、泳ぐみたいに手で宙を掻いてみても、どうにもこうにもならない。


 …そのうち、私は諦めてのんびりを眺めることにした。


 さっきまで私のいた街は遠く彼方。会社も学校もお店も家も、もう見分けがつかない。ただの光の点になっていた。

 視界を埋め尽くすのは大きな海と綺麗な星空。ずっと先まで広がって、360度が水平線。街では見れない黒く広い世界。

 私の心が繋がる気がして、深く息を吸い込むと、胸に冷たい空気が満ちた。


 いつまでも、こうしていたいような気がした。


 …とはいっても、空気がだんだん冷えてきて、そうも言ってられなくなってくる。少しずつとはいえ、どんどん上に進んでいるのだから、当然だ。

 吐く息は真っ白で、腕時計は軽く霜がつき始めた。手足の先もじんじんしてきて、鼻水なんか止まらない。…それから、ほんのちょっとの尿意と。


 どうしたものかと頭を抱えていると、どこかから声が聴こえてきた。


『うんとこしょ、どっこいしょ』


 小さく高い子どものような声。


『姫はウチの子。帰っておいで』


 辺りを見渡していると、進んでいく先の雲の影から、丸い月が顔を出した。


『下界に疲れたお姫様。

 良ければ、故郷に帰りましょう?』


 その声は月の方から聴こえた。

 …あぁ、きっとこれは夢だ。

 ようやく、私はそれに気づいた。そもそも、空を飛ぶなんてあり得ない。…嫌なことはいつものことだけど。どんな世界にもあることだけど。


『いえいえ、月にはございません』


 不思議な声はそう答えた。


 でも、そんなわけない。だって、世界にはいろんな人がいるものだし、私の『嫌』だっていろいろある。

 例えば、私はブロッコリーとハチミツが好きだけど、一緒に食べるのは『嫌』だ。異常に苦くなってしまう。

 あと、運動をするのが『嫌』いだ。でも、走ったあと、アドレナリンが出るのは心地いい。


 そんなことを悶々と考えていて、ふと気づけば、そこは雲の中。まさに夢の中みたいだった。…凍えるような寒ささえなければ。身体の震えは止まらないし、歯もガチガチ鳴ってるし、息もうまく吸えない。そして、膀胱も限界を向かえつつあった。

 いくらなんでも酷い悪夢だ。


 のたうち回っていると、急に視界が晴れた。雲の中から出たらしい。

 見上げるとそこには優しく輝く丸い月。それがだんだん小さくなっていく。

 いや、私が下に落ちてる?!

 そのことに気づくと同時に、どんっと身体に激しい衝撃が走った。…ゆっくり目を開けると、私は暖かい布団の中。窓の外はまだ暗い。

 ぼんやりしながら、トイレへ向かう。…あれは一体何だったのか。

 廊下の窓から覗いた月はいつもより少し優しく見えた。

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