第16話 水の
水の底で、彼は長い長い時を生きていた。
彼の一族も、代々水の中を住み処にしており、そこから出ようなどと考えたことがなかった。
――しかし、彼は水の上に光る、日の光に憧れた。
彼らの一族は、それぞれの個体が何をしようと干渉しあうことが無かった。実の親兄弟だろうとそれは変わりなかった。そもそも誰が自分の親兄弟なのかも互いによくわかっていなかった。
だから、誰かに止められることもなく、彼はある日、ついに決心して、日の光が射す水面へと泳いだ。上へ上へとのぼっていくうちに、世界は明るくなっていく。
水から顔を出せば、太陽のあまりの眩しさに目がくらんだ。水辺にあがって、改めて目を凝らしてみれば、水の中には無かった緑、青空、花、土……どれもこれもが美しくて新鮮で、彼ははしゃいでピーピー鳴いた。
それが仇となり、彼は突如空から舞い降りた巨大な鳥に捕まって、一気に地上から空中に舞い上がった。
鳥の足に捕らえられた彼は、そのまま空を飛ぶ。故郷の沼はすっかり小さく、遠くなってしまった。郷里をしのぶ心は無かったけれど、このままだとどうなるのかだけが心配になった。
しばらく鳥と一緒に飛んでいた彼だったが、やがて向かい側から別の鳥がこちらに向かって飛んできた。
鳥同士は威嚇しあい、程なくして戦いあいを始めた。激しい攻防のなかで、彼は鳥に振り落とされてしまい、繁みのなかにまっ逆さまに落ちてしまった。
ひどい目にあった、早くどこか安全なところを探そう、そう思って歩みだした時。
バチン、と大きな音がして、同時に激しい痛みが彼を襲った。彼のしっぽが罠にかかり、取れなくなってしまったのだ。
とれない どうしよう
どうなる? しぬ?
焦ってじたばた動いても、罠はぴくりとも動かない。こんなことなら水から出なければ良かった、と後悔したその時に。
ぱさ、と軽い音がして、何か白くて大きいものが側に落ちた。続いてガサガサと音がして、誰かがこちらにやってくるのがわかった。
自分を見下ろしてきたのは、ニンゲンのこどもだ。こいつが自分をつかまえたのだろうか? つかまったらどうなるのだろう?
彼は必死にこどもを見つめた。なんとか助かりたい、しかし自分を助けてもこのこどもに得は……
などと考えている間に、罠がはずれていた。こどもが、小声で何か言いながらしっしっと手を払っている。
これ幸いと、彼はその場を一目散に逃げ出した。近くの小川に飛び込んだ。
彼はほっとして、小川の流れに身を任せながら、さっきのこどものことを考えた。
逃がしてくれたというのか。なんの見返りも求めずに。ニンゲンのこどもに借りができてしまった。借りは返さねば……。
小川はやがて大きな川になった。川には、一人のニンゲンの大人の死体が流れ着いていた。……そういえば、腹がすいていることに彼は改めて気がついた。
彼は、生まれて初めて食べるニンゲンの肉に食らいつき、そして――
その後、彼は自分を助けてくれたこどもを探しながら、川や池や沼を転々とした。
そして、しばらくして、その子どもは彼が住み着き始めた池に飛び込んできた。
溺れていたこどもを、彼は助けてやった。以前助けてもらった借りを返すためだ。
元々はそこでおしまいの筈だったが、その時にはもう人肉の旨さを覚えてしまった彼は、これでもう貸し借りは無くなったのだから、次に会ったらお前を食うぞと子どもに告げた。
彼は人間の擬態が上手くなった。
水のなかに帰ることもなくなった。
彼は、地上には自分の想像していた以上に多くの人間が生息していることを知った。そして人に紛れて暮らす怪異も想像以上に多いことを知った。
名前も聞かなかったあの子どもと、もう会うことは無いのかもしれない……彼の新鮮だった地上での生活はやがて日常となり、騒がしい街にも慣れてしまった。人間に擬態した彼は、人間とほぼ同じ食事が摂れるようになった。しかし、時たま食う人肉の甘美さだけが、彼の人生に真に彩りを与えてくれていた。
彼が擬態した姿で女を誘うのは容易かった。怪異たちが利用するラブホテルで、女を食い散らかした朝、彼は気だるい体を動かして、人間としての家に帰ろうとしたのだが。
「オラァァ!!てめえか、部屋汚していったクソ客は!!」
突然の罵声に飛び蹴り。油断していた彼は不覚をとり思いっきり吹っ飛んだ。
誰だこいつは、腹一杯だが食い殺してやろうかと声の主を見上げると。
朝焼けの中に立って自分を見下ろすその人間を見て、彼は自分が昔、罠から助けられた時のことを思い出した。
記憶にある彼と比べて肌のつやは失われ、すっかり老け込んでしまったが。
「え……おじさん……!?」
「そうだよ悪いかクソ客が。好き勝手散らかすだけ散らかしやがって……!!あんまり腹が立ったから追いかけて来ちまった」
老け込んでしまったが、間違いない。あのときの子だ。
かつて、水の中から初めて顔をだした時のことを思い出した。
世界が、色を取り戻したように感じた。
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