第12話 坂道
「待て!怪異め!」
夜の街に現れた怪異を追って、雛菊は闇の中を駆ける。
怪異は強くはないが逃げ足が速く、一緒にいた退魔師数人は途中で標的を見失ってしまい、追い付いたのは雛菊だけになってしまった。しかしこの程度の怪異ならば、仕留めるのには雛菊ひとりで十分だ。被害が出る前に、逃がさず確実に捕らえるのだ。
怪異が、坂道を転がり落ちるように逃げていく。
「逃がすか!!」
雛菊は地面を蹴って飛び上がり、上空から勢いをつけて怪異に飛びかかろうとした。
しかし――。
一本道だと思っていた坂道の脇から、いきなり一般人の男性がぬっと飛び出してきたのだった。
「危ない!!」
「え? あ!?」
雛菊が叫んだが時すでに遅し。そのまま雛菊は上から男性に激突する形になってしまい、二人は縺れ合いながら坂道をごろごろと転がっていった。
「痛たたた……すみません、お怪我はありませんか?」
雛菊は一般人の無事を確かめるために声をかけた。……だが、自分の喉から出ている声がおかしい。男の声のようにガラガラしている。喉に手をやってみて、手にも違和感があることに気がついた。見てみれば、いつも白く細いはずの雛菊の手は、ゴツゴツした男性のものに変わっている。
「イテテテテテ……そっちこそ大丈夫か?」
自分の声が、隣から聞こえる。
振り返ると、自分の体が隣で頭をかきながら起き上がって、こちらを見つけて一瞬じっと見つめた。
「……俺?」
「私……!?」
雛菊と男性は互いに状況を理解した。どういうわけか、二人の心と体が入れ替わってしまったのだ!
「ええええええ!? あんた雛菊だよな!?」
「あっ、はい。私のことご存知なんですか?」
「俺だよ、清掃の川下テツオ」
「なんですってー!?」
よりによって自分が毛嫌いしている男と入れ替わったことがわかり、雛菊は生理的嫌悪から肌がぞわりと粟立った。
「嫌っ! 早く元に戻しなさいよ!」
「俺がやったんじゃねーよ落ち着けって」
「だいたいあなたがノコノコとタイミング悪く出てくるから悪いのよ!怪異も逃がしてしまったし本当に最悪だわ……!」
「あのー、俺の姿と声でその言葉遣いやめてもらっても良いかな……」
ふと、雛菊の身体になったテツオは肌寒さを覚えた。雛菊は薄手のコートを着ているが妙にスースーと風が入り込んでくる感じがする。何を着てるんだと何気なくコートを首元からめくってみたテツオは、視界にマイクロビキニをつけた女子高生の胸元が飛び込んできて「ウワアアアアア!!」と絶叫した。
「ちょっと勝手に見ないでちょうだい!」
「ちがっ、妙にスースーするから何着てんだと思って……いやお前なんつーもん着てんだ!? 前はもっとかっちりした服着てだろ!」
「それは破魔の力を高める新しい装備なんです。侮辱するなら許しませんよ」
「ぜってー騙されてるだろ!!別の服にしろ!」
二人が騒いでいる間に、スーツを着た青年が通りかかり、二人に気がついた。
少女の方が有栖川の退魔師であることに気がつき、身を潜める。迂闊には近づけない。このまま今日は立ち去るか……と思っていた矢先、青年のわきを、退魔師数人がすっと通りすぎていった。彼等は雛菊を見つけると安心したように、ほっとため息をつき、テツオに一礼すると彼女を連れて行ってしまった。
青年はホッとして坂を下り、一人残されたテツオに近づいた。
「あの子と何があったんですか?」と声をかける。
テツオはこちらを振り返り、「あっ……」と小さく声をあげ、口を手で抑え、慌てて目を伏せてしまった。青年は凄まじい違和感を覚えたが、とりあえずいつも通りに話を続けてみる。
「お嬢さん相手に何をムキになっていたんです? テツオさんらしくもない」
「あの人……じゃない、あの子とぶつかったので、怪我をして……」
「えっ、怪我したんですか!? 頭打ちました!?救急車呼びましょうか!?」
もしやその時に頭でも打ったせいで今の挙動がおかしいのだろうか。人間は頭を打っただけで死ぬこともあると聞いた青年は慌てて救急車を呼ぼうとしたが、テツオに止められた。
「そこまでは大丈夫です、本当に……もしご迷惑でなければ家まで連れていっていただきたいのですが……」
「本当に変ですよ、大丈夫ですか? 家まで送るのはもちろん構いませんが……」
心配しながら、青年はテツオのとなりを歩き始める。テツオは妙に無口でうつむいてなかなか青年の顔を見ようとしなかった。
「しかしあの子もまだ子どもなのにこんな時間に駆り出されるなんて。退魔師ってよほど人手が足りないんでしょうかね」
「彼女は有栖川雛菊。退魔師として将来を期待される非常に優秀な人材ですが白薔薇女子高で生徒会長もつとめています。誕生日は6月2日、血液型はAB、趣味はお菓子作りです」
「急にどうしたんですかテツオさん!?」
有栖川邸に戻った雛菊(中身はテツオだ)は、急いで紫園の所在を使用人に尋ねた。いわく、紫園もまだ帰っていないとの事なので玄関先で待つことにした。風呂に入って部屋で休むのを勧められたが、本家の人間が暮らす邸内の間取りがわからないし、勝手に雛菊の身体で風呂に入るわけにもいかなかった。
幸いにして10分後に紫園が帰ってきたが、テツオはその10分が永遠のように感じられた。
「えっ、ひな!?」
「紫園、悪りい、雛菊の部屋に連れていってくれねえか。お前の部屋でも良いから。二人になれるところで説明する」
「何?どしたの?」
言われるまま、雛菊の先に立って紫園は部屋に向かう。どうも変だなとずっと思っていたが、部屋に着いたとたんに「俺、テツオなんだよ」と告白されてひっくり返りそうになった。
「ええええええ!?テッちゃん!? なんでそんなことに!?」
とりあえず呪いの類いかどうか見てみるね、と紫園は雛菊の身体をあれこれ調べ始める。紫園はお茶らけているようでこういう非常時には冷静に対応ができる退魔師だ。
「坂道で雛菊とぶつかったらこの有り様でよ……あ、怪異追ってたとか言ってたからそのせいか!?」
「うーん、怪異というか……ぶつかった坂道と時刻の問題だわこれ。」
「坂のせい?」
「ひなが追ってた怪異いなくなっちゃったんでしょ?じゃあそこ異界との境目ちょっと綻んじゃってるっぽいね」
「マジかよ早く直してくれ……」
「うん、連絡しとくー……でもたいした呪いじゃないな。寝ている間に朝になったら元に戻ると思うよ!」
「よかったー!」
テツオは安心して手足を投げ出してばたりとその場に寝転がった。
「……悪いんだけど、便所のとき俺目ぇつぶってるから手伝ってくんね?」
「あーいいよいいよ。お風呂も手伝うから入っちゃお。戻ったときお風呂入ってなかったことに気がついたらひなブチギレそうだし」
紫園のおかげで、とりあえずテツオは事なきを得た。
一方、テツオの身体に入った雛菊は、青年に連れられてボロボロのアパートにたどり着き、彼の勧めで布団に横になった。
「大丈夫ですか? 少しでもおかしなところがあったら救急車呼びましょうね」
彼は本気でテツオを心配しているのだと、雛菊はひしひしと感じた。
「………ありがとう」
「ふふ、いえいえ」
そう言って微笑む彼の表情に、雛菊は驚いていた。彼はいつも紳士的で柔和な笑みを絶やさない人であるが、こんな風に優しい顔を自分は向けられたことがない。
「あ、お腹すいてません?何か買ってきましょうか」
「いや……大丈夫……」
ボロボロのアパートの二畳半のワンルームは、タバコやらカップ麺やらの臭いがする。それでも、自分の恋する人が、決して有栖川雛菊には向けてこない優しい笑顔でこちらを見つめている。
怪異相手のラブホテルの清掃員をしているテツオは、怪異たちの悪行を見て見ぬふりをして暮らしている。それを無責任で許せないと雛菊はずっと思っていた。
でも、もしもこのまま元に戻らなかったとしたら。無責任な立場に逃げることができたのなら。彼はこのまま自分を好いてくれるのだろうか。そんな想いが胸に募る。
……私はなんて馬鹿なことを。
雛菊は自分の浅はかな考えを一蹴した。
自分は有栖川家の次期頭主だ。人々を怪異から守る誇り高き退魔師だ。
逃げることなど許されるはずがない。
「じゃあ僕はそろそろ……」腰をあげた青年に、雛菊は「待って」と思わず声をあげた。
「……今日は、ずっと一緒に、いてほしい」
テツオの口から発せられた言葉に青年は驚いて目を見開いた。
「どうしたんですか、いつも絶対に泊めてくれないのに」
「……怪我して、不安だから」
嘘をついた。本当は、一晩だけでも恋する人に側にいてほしいだけだ。雛菊の身体に戻ったら、恐らく二度と叶わない夢だから。
「……しょうがないな。じゃあ、朝まで一緒にいてあげますよ」
狭い部屋で好きな人と二人きりの夜。
彼の息づかいが聞こえる。匂いが感じられる。
とても眠れそうにないと思ったが、テツオの身体は疲れていたのか、いつの間にかすっと眠りに落ちてしまい………
翌朝。寝ている間に持ち主の元に帰った魂は、それぞれの身体で目が覚めた。
雛菊は目覚めた瞬間、紫園に「中身ひな!?よかったーーー!!」と苦しいほどに抱き締められ、テツオは傍らで寝ていた青年に驚き「ウオオオオオオなんでいるんだてめええええ!!」と飛び上がったら「なんで!?」と青年に驚かれた。
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