小さい頃から読んでいた本の数々が物語の種となって僕に蒔かれたようです。
大人になってそれらの思い出の本を再び読みたいと思っても絶版というケースが多く、オークションでは目の玉が飛び出すくらいの高値が付いていたりします。
高額のお金を払ってでももう一度読みたいか?
そう自分に問うと、それほどまでには読みたくない、と答える自分がいます。
ご縁があればまた読めるし、思い出の本は僕に蒔かれているのだから大丈夫、と強がる自分もいました。
作者からの返信
なみさとさん、コメントありがとうございます!
きっとそれらの物語はなみさとさんに受け継がれ、新たな萌芽となっているのでしょう。
メイソンもまた物語の創作者でありながら、媒介者ですから(^^)
「いつの間にか物語職人メイソンとして振る舞っていること」
「物語職人」になるのではなく「振舞う」という表現が素敵ですね。
自分を振りかえった時、なんというか、許された感じを受けます。
作者からの返信
小烏さん、「振舞う」にご注目いただけて、とっても嬉しいです。
例えば、教員免許がなくても誰かの先生には成り得ますし、血の繋がりがなくとも家族として振る舞えば、それは家族だと思います。
本来、何者かに認定される必要のないことって結構ある気がして。
「物語職人」というのも肩書ではなく、物語も紡ぐ姿や、その姿勢のことかなと考えました。( ´ ▽ ` )ノ