第36話


道のない木々の間を、獣の脚が高速で駆ける。


枝や葉っぱや、雪や水滴が、流れる景色とともに手足や顔にぶつかった。


獣の足はめちゃくちゃ速い。あっという間に背後の、追いかけてくる気配が遠ざかる。


ようやく獣が止まった。


止まるというより、倒れるように前方に身体を投げ出し、転がった。


首に回っていた腕がゆるんだ隙に、俺は巻き込まれないよう、慌てて抜け出した。


ドサリ、と灰色猫が仰向けに。


荒い呼吸を繰り返す身体は、傷だらけだった。


「……」


黒いモヤッとしたものが、生きたヘビのように灰色の巨体に巻き付き、ずるりと這い回るさまはおぞましい。


灰色猫が、死んだ子供から奪ったもの。


死んだ子供が、あの香炉から持ち出した?もの──たぶん、闇の。


よくないもの。


これが何なのか、俺にはわからない。


わからないけど、このまま放置はよくない。


きっと。


灰色猫の身体だけでなく、精神的にも影響とかダメージとか、ある。


空を、なんとなく見上げる。


昼間のはずなのに、暗すぎる森。


光が、足りないから。


(……光?)


夢のなかでみた、光輝く森の光景がふと、心をよぎる。


目の前にひろがる枯れた木々や、生命力のない大地とは、あまりにも──。



「違って当然だ」


「…っ!」


いつの間に!


斜め後ろに、ヤツが佇んでいた。オヤジと母さんの知人だという、男が。


なんでだ?


香炉は見つかって。だから帰ったはずじゃ。


反射的に警戒すると、ノルはうっすらと笑った。


「……何も知らぬのに、わかるのだな」


「───なにが」


まだ、山河達は追いついてない。獣の脚と人間の脚じゃ稼げる距離が違う。


灰色猫に捕まっても危機感なんてなかったのに。


冷然と佇むノルの気配が、俺には不快で仕方ない。あまりにも大きな、底知れない存在感は、香炉の闇の世界で出会ったものと全く同じ──闇の。




「竜……?」





ついポロリと、口からこぼれた。


途端、ノルは笑った。


バサりと羽ばたく音がたち、一瞬漆黒のドラゴンが見えた。瞬きする間に人の姿から、巨大な体躯と巨大な翼の竜に変わる。


風がうずまくごとく、息のつまるほどの濃密な熱がノルからあふれ、思わず顔をかばう。


数歩下がって、頭上に巨大な影が浮いているのに気づいて、顔をあげた。


その大きさと姿に驚く。


漆黒の体躯は鱗のようなものに覆われ、銀色と黒の光の粒が全身にまとわり、ただただ偉大で、美しい。


紫紺の瞳が見下ろして、俺の様子を眺めてくる。


ホントに竜だ──瞬きしても、消えない。


信じられない光景だけど、実際に目の前に存在してる──しかも、視覚だけでなく存在感のプレッシャーが半端ない。


空をまるごと覆うような。


ビリビリと肌に突き刺さる威圧。


息が止まりそうだ。


ただ圧倒されていると、遠くから俺を呼ぶ声がした。


山河だ。


ようやく追いついた、というより、空に現れた竜を見て、俺の居場所がわかったんだろう。


背後の木々の隙間から、山河の姿が確認できた。ミューレイもその後ろにいる。


竜は──ノルは、バサりと翼をはためかせた。


突風に体が浮きそうになって、踏ん張る。


『……ワズラワシイ……イッソ……』


声でなくたぶん思考が直接、聴こえた。

俺を邪魔に想う感情も。


なんで。


脳裏に浮かぶ子供の時の記憶。


俺をかばって代わりに闇の魔法にのまれて、山河は──。



「リューキ!」



心臓が痛い。


もう、あんなのはごめんだ。


「……来るなっ」


「リューキ!?」


あと数歩の距離で、ぐらりと地面が揺れた。


銀色の粒の混じった闇色の波が、頭上から雨のように降り注ぐ──。


胸がぶわりと熱くなって、何かが俺の身体から発光する。


まぶしさと熱に、目を開けていられない!




来るなって言ったのに、俺の背中に山河の腕とミューレイの指先が触れて。


いっさいの音が消えた。





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