第32話


部屋に戻って、着替えて顔を洗って、ふたたび一階の食堂へ。

山河はケガしたことがバレずに、ほっとしているようだった。


いつものように朝めしを食べていると、バタンと宿屋のドアが開けられた。


いつものおっさん連中のひとりだ。


やけに慌てた様子でぐるりと食堂を見回し、中に入ってくる。


「リューイ! 頼む、助けてくれっ」


「おお? どうした」


おっさんは、真っ直ぐにオヤジに駆けよって、必死に身振りする。


「娘が……ッ、娘が」


ん?

このおっさんの娘って……確か。

尋常じゃない動揺ぶりに、オヤジがおっさんの肩を叩き言い聞かせる。


「何があった、はじめから話せ」


おっさんはごくんとつばを呑み込み、うなずく。

宿屋のおばあさんも心配顔でそばにくる。


「朝起きたら、いなくなってて、近所を探したんだがどこにもいねえ……ッ、もしかしたら、余所者連中に……ッ」


「ハナンがいないって?」


おばあさんが青ざめる。

前掛けの服をはずし、さっと厨房に戻り、何かを手に俺たちを見回す。


「お客さんがた、悪いね、ちょっと出掛けてくるよ」


「ニアさん!」


おっさんがすがるようにおばあさんを見た。

いますぐに出ていこうとするおばあさんを、オヤジが止める。


「いや、ちょっと待ってくれ、余所者連中なら……」


確認するようにオヤジは山河と目を合わせ、山河がうなずく。

そしてみんなで食堂の壁際に寝そべる、灰色のデブ猫を確認。


「あの猫が、その余所者連中の頭目だったヤツで、もう悪さはできないはずだが」


「は……? 」


おっさんとおばあさんは、疑うように猫を見た。


「リューイ! こんなときに冗談はやめてくれ」


「この猫が……?」


おばあさんは猫に歩みより、じっと鋭く観察する。

頭を撫でて、逃げない猫から離れる。


「ちょっと宿屋を空けるよ。お客さんたちはゆっくりしといてくれね」


信じられてない。


まあ、無理もないか。


「ニアさん、悪い」


「いや、ハナンに何かあったら……」


おばあさんとおっさんは二人で、急いで宿屋から出ていく。


どうするんだろう。

肩をすくめるオヤジに、母さんが手招きする。


「あとで、私たちも捜しましょう」


「そうだな……」


気になりながら、俺も口をはさむ。


「ゆうべ、ちゃんと送っていったよ」


「ええ。そうね。……いなくなったのはそのあとかしら?」


隣で、まだ食事の終わらない山河の背中を、ちらりと確認する。


上着を着てるから、わからないけど。


昨夜の出来事が、頭によみがえって。


手の中からフォークもどきが、滑り落ちた。

コツンと床に落ちる。


いまごろ……手が震えてる?


「リュウキ?」


山河が気にして小声で聞いてきたが、俺は頭を横に振って、言葉が出てこない。

胸のあたりが気持ち悪い。


なんで、いまごろ思い出すんだ。


もし。あの時。


ミューレイがあいつをやっつけられなかったら……。


どうなってた?



その時音もなく、宿屋のドアが開いた。

するりと入ってきたのは、全身真っ黒のアイツだ。


ひやりと、冷たい空気が一緒に流れてきて、俺は息を止めた。


「ノル?」


母さんが気付く。

みんなほとんど食事は終わっていて、ヤツはゆるくうなずきを返した。


「……どうやら、香炉が使われたようだ」


「!」


「いつだ」


オヤジが鋭く尋ねる。


「……昨夜」


「昨夜!? 夜中か」


「明け方近くに」


明け方……。

俺たちが宿屋に戻ってきたくらい?


香炉が使われると。

どうなるんだっけ。


急に心臓がドキドキしはじめる。

母さんもオヤジも、厳しい顔つきになった。


ノルがすぐに宿屋を出て、オヤジ達も後を追う。

俺も慌ててついていく。


路地を抜け、奥の階段を降り、そんな予感はしてたけど、昨日送っていったハナンの家の前で全員止まった。


俺たちだけでなく、近所の住人も何人か家の前で集まり、心配顔で話し込んでいた。


おっさん連中の数人が、オヤジに気づいて声をかけてくる。


「いま、れいの余所者連中のとこに、様子見にいかせてるんだが…」


「朝起きたら、ハナンが消えてたって」


いっても、たぶん収穫はないだろう。


オヤジはうんうんと話を聞いて、その間にノルが勝手にドアを開け、続いて母さんも家の中に踏み込む。


居間らしき部屋で、宿屋のおばあさんと、ハナンの母親らしきおばさんが立っていた。


断りなく入ってきたので、さすがにびっくりしたようだ。


「おはよう、お邪魔するわ。娘さんのお部屋を見せてもらえる?」


にっこりと母さんが言うと、おばさんはこくこくうなずいて、部屋を案内してくれる。

母さんが笑顔で何か言うとき、断られる場面をみたことがない。


ぞろぞろとついていき、短い廊下の先の小さな部屋に案内される。

ベッドがひとつと、小さな机と、物入れらしき木箱がある、狭い部屋。


窓はないからよけいに狭く感じた。


誰もいない──その小さな机の上に、ぽつんと。


黒い香炉があった。


「!」


あった!


狭い入り口でみんな立ち止まり、それに注目する。


ハナンの母親だけ室内にはいり、誰もいないベッドを眺めまわす。


「昨夜、ふつうに寝たのに、いったいどこに…」


おろおろと、誰もいない部屋を不安いっぱいに眺めまわすが、もしかして机の上のそれに、気づいてない……?


母さんも気配をさがすように、部屋を見回した。


母さんの横から、俺は黒い香炉だけを見ていた。


だから、足元を何かがすり抜けたのに、気付くのが遅れた。


トン、と床から飛び上がって机の上に乗ったのは──。


「あ」


灰色デブ猫!

ついてきたのか?


あっ、と誰かが叫んだ気がした。


とめる間もなく、猫の手で香炉をつかもうとする。まるで、これは自分のだというように。


いや無理だろ!


思った通り、香炉はころんと猫の手から滑り落ち。


反射的に俺は、手をのばしてしまった。


「リュ…」


みんなに呼ばれた。


そっか、触っちゃまずいんだっけ?


けど、もう出した手は引っ込められなかった。


さしのばした手のひらに、冷たい陶器のかたさがことんと乗っかる。


猫の怒った鳴き声を聴きながら、一瞬で世界が真っ暗闇に。


音もなにもかも消えた──。








──強制的に眠りに落とされたみたいに、意識が遠退き。


最初に音がよみがえる。


誰かが、俺を呼んでる。



森のなか。

ひとりぼっちで、俺は、草むらをうかがっていた。


かさこそと草が動く。


草の間から、長い耳がピョンとたち、あたりの音をひろっている。


「……」


そーっと、そーっと。


ぴょんぴょんは耳がいいから、ちょっとでも音をたてると逃げられる。


俺は、ものすごく慎重に草むらに近づいていく。


どこかで、俺を呼ぶ声がしてる。


でも俺はぴょんぴょんに夢中で、聞いてるけれど聞いてない。


もうちょっと…。


草を夢中で食べているぴょんぴょんは、俺に気づいていない。


もうちょっとで、手が届く。


「……っ!」


ガバッと抱きつくと、びっくりしてぴょんぴょんは、腕からすり抜けた。


「……って」


あわてて俺は追いかける。


白い毛並みの耳の長い小動物は、あわてふためいて逃げていく。

俺を探して呼ぶ声が、どんどん遠くなる。

──気がつくと。


見知らぬ場所に出た。


木々が開けて、小さな空き地のように、背の低い草だけが生えている。


まるいうす黄色い小さな花の群生が、そこを占領している。


新しい遊び場所の発見に、俺はごろごろとねっころがった。


きれいな青空がひろがって、しばらくじっと空を眺める。


風にながれて、キラキラと金色の粒が輝く。


それがなにか、教えられなくとも知っていた。


無造作に手をのばせば、光の粒たちが集まってくる。


くるくると渦を巻き、不思議な光の輪っかができた。


手をひっこめれば、またバラバラになって空中に戻っていく。


この世界は、その粒たちで満ちていた。


土にも木々にも、風にも雨にも──いきものたちにも、その粒があり、命そのもの。


とても大事なもの。


……俺も、……だから。


草を踏みしめる気配が、後ろでした。


なにげなく振り向き、小さな俺は目を丸くする。


知らない存在が、木々の間から、俺を観察していた。


目があったとたん、ぞっと心臓が冷えた。


明るい森にふさわしくない、闇のかたまりの存在。


自分達とは真逆で、正反対のもの。


本能的に、逃げないと、と思う。


でも、まったく身体は動かない。


木々の影から歩み出てきても、日の光を浴びても、それは闇の輝きを放っていた。


踏みつけられた草が、地面が沈黙し深く眠りこむ。


なにもしなくても、そばに近づいてくるだけで眠気が襲ってくる……奴が手を伸ばしてくるのを、小さな俺は恐怖心いっぱいで見ていることしか。


けれど、あいつは違った。


何かが脇から飛び込み、俺にかぶさる。

ぎゅうと抱きしめられ、怒った叫びをきく。


「リュウキにさわるな!」


……だ。

来てくれた。


奴は不思議そうに、子供二人を眺める。


「……せぬ」


静かすぎて冷たい声が、耳に入るだけで心臓が冷えた。


「解せぬ。まるでこれでは……ヒトの真似だ。こんな森に隠れて……」


奴の全身から、黒い輝きがこぼれておちる。

光と真逆の闇の光。


「我々は、……だ」



な、に?


「リュウキ!」



黒い霧が覆ってきて、全身でかばわれる。氷に包まれるような恐怖のあと、すぐに暖かい腕に引っ張られた。


「──なんの真似だ」


オヤジが俺を抱き上げて、奴を睨み付けていた。


スッと後ろに下がって、奴は曖昧に笑った。


「つくづく……気に入らぬ」


「なんの真似だと聞いてるんだが?」


オヤジは怒っていた。


安堵するのと一緒に、本気で怒るオヤジが怖かった。抱き上げられて、俺をかばったあいつがどうなったか見えないのが不安だった。


ぎゅっとしがみつくと、頭をなでられる。

こちらを苦い顔で眺め、奴は言い捨てて去っていく。


「所詮…一時の気の迷い……時が経てば終わるというのに──人真似とは」


ザワザワと木々が揺れた。


あざけりのようにも、あわれみのようにも聞こえた声が、遠のいていく。


やっと、森に普段の明るさが戻った。


まだしがみつく俺を、よしよしと撫でて、下を見たオヤジが厳しい顔つきになる。


「……ンは……?」


「リュウキ、見るな」


オヤジが慌てて俺の目を覆うようにしたが、指のすきまから俺は見た。


草地に仰向けに倒れたあいつが。


全身、真っ黒な輝きに浸食されているのを。





「過去の記憶ですな」


突然耳元で誰かがつぶやく。


ぎょっとしてみれば、羽根のついた小人みたいなやつが、すぐ横に飛んでいた。




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