第3話 芸能禁止領域


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 午前7時45分、金山かなやまチクサは枕元のアラームと窓から差し込むの光で目を覚ました。まどろみの中にあった意識がゆっくりと覚醒し、彼女はベッドから身を起こそうとして――目覚まし時計のデジタル表示をふと見て、ぱちぱちと目をしばたかせる。

 ……7時45分?


「――遅れちゃう!」


 喉から心臓が飛び出しそうな驚きと焦りに襲われ、チクサは思わず叫んでいた。このままだと朝のレッスンには確実に遅刻だ。普段は寝過ごすことなんてないのに、どうして。自分の不覚もさることながら、ルームメイトのカスガとミクニは自分を起こしてくれなかったのだろうか――。

 慌ててベッドから跳ね起き、スリッパに足を下ろそうとして――あれ、とチクサは気付く。

 いつもベッドの下に綺麗に揃えて置いていたはずのルームスリッパが、見当たらない。

 いや。それだけではなく。よくよく見れば、部屋の様子すべてが彼女の記憶と食い違っていた。アイドル居住区ドミトリーのマンションと比べると随分狭い部屋。今朝はなぜか傾斜で自分を起こしてくれなかった、というか、傾斜する機能が付いていそうにも見えない簡素なベッド。今時珍しく、本物のガラスがめ込まれているように見える窓。チクサが見たことのない形をした天井の照明器具。


「ここ……どこ?」


 ふわふわした浮遊感がチクサの全身を襲っていた。なんだったっけ、この部屋は。知っているような、知らないような――。

 ドミトリーの自室でもない。もちろん壁外都市の実家でもない。芸能活動おしごとで外に泊まりに来ているのだっけ、と記憶を辿るが、そんなことはなかったはずだ。一昨日は定例握手会。昨日は通常レッスン。今日もレッスンとドラマの撮影。明日は昼夜2回の劇場公演。ドミトリーの外に出る予定なんてしばらくなかったはず――。

 チクサの記憶が間違っていなければ、今日は2458年9月3日の火曜日だった。枕元の目覚まし時計にも確かに「9月3日(TUE)」の表示が出ている。それを見て一人で頷いてから――あれ、とチクサは首をひねった。

 。何だっけ、それは……?

 自分はこれまで、実家でもドミトリーでもずっと、部屋のアラーム機能とスマートベッドの傾斜で目を覚ましていたはずだ。電池バッテリーで動く置き時計だなんて、資料館に行かなければ見られないような大昔の機械が、どうして自分の部屋にあるのだろう。なぜ自分は一瞬、それを普通と思いかけたのだろう。


 頬をつねってこれが夢ではないことを確認し、チクサは部屋の窓から外を覗いてみた。だが、そこには隣の建物の壁しか見えなかった。随分と汚れた建物だった。

 とにかく誰かと連絡を取ってみようと思い、チクサは自分の携帯端末を探して辺りを見回したが、なぜだかそれはどこにも見当たらなかった。端末を手放して出歩くことなんて普段ないのに。

 あまりの心細さにチクサは泣きそうな気持ちになっていた。知っているものが何もなくて、知らないものが沢山あるこの部屋。一体自分はどうなってしまったのか。まさか、誘拐……?

 と、その時、部屋のドアを無造作にノックする音が、チクサの身体をびくんと震わせた。


「チクサ、起きてるのか?」


 それは父の声だった。それだけは確かに分かった。はい、と無意識に返事をして、チクサは扉のノブに手をかける。――ノブ? 自律スマート開閉オープンではなく?

 かちゃりと音を立てて開いた扉の外には、見紛うはずもない厳格な父の顔があった。


「お父さん……!」


 普段は決して自分に癒しを与えてくれる父親ではなかったが。それでも、この訳の分からない状況の中で、とにかく肉親に――知った顔に会えたことが嬉しくて、チクサは気付けばその場にへたり込んでしまっていた。涙で歪んだ視界の中に、父の戸惑った顔が揺れている。


「おい、どうしたんだ、急に」

「なんでもない……なんでもないの」


 なんでもないことはない。嗚咽おえつの混じった声で、ただ一人の実親に言葉を返しながらも、彼女の心は今も違和感を訴え続けていた。なぜ、昨日までドミトリーの中で生活していたはずの自分が、父と同じところにいるのだろう?


「お父さん、わたし――」

「何があったか知らないが、早く準備をしなさい。今日はの見学なんだぞ」

「……学校?」


 チクサが思わずその単語をオウム返しすると、父は呆れ顔で彼女を見下ろし、「いつまで寝惚けているんだ」と言った。


「お前も分かってると思うが、こんな時代で学校に上がれる子供なんて一握りだ。私の娘だというだけで選んでもらえる保証はないんだぞ。身だしなみと態度に気を付けて、見学の時点から少しでも印象を良くしておかんとな」


 淡々と告げられる父の言葉が、バーナーのようにチクサの凍り付いた記憶をじわじわと溶かしていく。いつも険しい父の顔、「学校」の話、そしてこの狭い部屋……。頭の中で記憶がぜになり、チクサは思わず両手で頭を抱えていた。

 そうだ、何もおかしなことなどない。生まれてから17年を過ごしてきたこの家。「学校」への入学を目指して勉学に励んできた日々。自分は一体、何と混同しようとしていたのだろう?

 そう――自分は、この家で父と二人暮らしをしていて――今日は、念願の「学校」に上がるための最初の一歩、見学会に行く予定だったのだ。父は、貧しくても立派なをしていて、自分も将来は父のような政治家になることを期待されていて――。


「……違うよ」

「ん?」


 チクサが無意識の内にこぼした一言に、父が眉をひそめてくる。


「何が違うんだ?」

「わたし……わたしは……」


 両手で強く押さえ込んだ頭の中で、が叫びを上げている。この家で父と過ごしてきた人生の記録よりも遥かに鮮明に。可愛らしい衣装に身を包み、色とりどりの光の下、マイクを手にして歌い続けてきた日々の記憶が。


「わたしは、アイドル……じゃないの?」


 そう、はっきりと覚えている。自分は、東海ミリオン・チーム13の金山チクサ。13歳でドミトリー入りして以来、親友のカスガと一緒にトップアイドルを目指して頑張ってきた。去年は辛い出来事もあったが、幼馴染と頼れる人達の力を借りてアイドルに復帰し、今は再び夢を追っている――。


「チクサ。お前、悪い夢でも見たのか。いいから、早く準備を――」


 父の言葉の後半はもうチクサの耳には入っていなかった。気付けば彼女は父の身体を押しのけ、玄関の靴をつっかけて家から飛び出していた。「チクサ!」と彼女の名を呼ぶ険しい声を、全力で振り切って。



 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ☆



 家の外にはいつもの空があった。重々しい金属の雲で光を遮られた暗い空。チクサ達が暮らすナゴヤ地上都市の全体を覆う透明なドーム。闇に閉ざされた地上を無理やりに照らす人工太陽の毒々しい光。

 あの雲の向こうには青空というものがあり、かつての人類は富める者も貧しい者も平等にその青さを享有きょうゆうしていたという。そのくらいのことはチクサも図鑑やを通じて知っていた。だが――それ以上に、彼女の心の奥底から訴えかけてくるものがある。

 は、空の青さをこの目で見て知っていたはずだ。一日の始まりを告げる朝日の清々しさも、沈む夕陽の切なさも、夜空にまたたく満天の星の輝きも。

 その記憶のすべてが夢や妄想だなんて、とても思えない。


 ――あの人なら。あの人ならきっと、助けてくれる。


 心細さで張り裂けそうになる胸に一縷いちるの望みを抱いて、チクサは知らないようで知っている道を辿っていた。アスファルトの舗装が剥がれた車道を渡り、古い電灯がちかちかと明滅する商店街の跡地を通って、幼い頃から何度も通ったその場所を目指す。ふと、自分が部屋着のまま家を飛び出してしまったことに気付いたが、今の彼女にはそれを恥ずかしがるほどの余裕もなかった。

 何百年も前に廃線になったらしい地下鉄駅の入口を降り、薄暗い地下道を歩く。居並ぶ商店のおじさん、おばさん達がチクサをじろじろと見てきたが、チクサはそれに気付かないふりをして歩を早めた。この先の居住区に、の――お兄さんの住んでいる一室がある。



 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ☆



「お兄さん。……助けてください」


 チクサがノックも早々に部屋に飛び込み、涙交じりの声で叫ぶと――

 前津まえづヒサヤは、から顔を上げ、ゆったりした動作でこちらへ振り向いてきた。


「チクサちゃん。どうした、また親父さんに怒られでもしたのか」


 いつもと変わらない優しさをたたえた声色。チクサが後ろ手でぱたんと部屋の扉を閉めると、ヒサヤは、「座りなよ」と傍らの椅子を手で示してくれた。チクサが部屋着姿であることに彼は少し驚いたような顔になっていたが、それを一言も口に出さないのが、この人の優しさなのだとチクサは思った。

 見慣れた室内ではテレビジョンが朝のニュースを伝えている。チクサが袖で涙を拭いながら椅子に腰を下ろすと、ヒサヤはキッチンからからのマグカップを持ってきて、「コーヒーでいい?」と聞いてくれた。チクサがこくりと頷いてから十秒も経たない内に、のお湯で作られた粉コーヒーのカップが彼女の前の机にそっと置かれる。


「それで、今日はどうしたんだよ」

「……お兄さん。わたし……なんだか、頭がヘンになっちゃったみたいで」


 今日までの自分が、こことは全然違う世界に生きてたような気がするんです――と。

 チクサは漏れ出る嗚咽を押さえながら、起床の瞬間から自分が感じてきた違和感のすべてをヒサヤに打ち明けた。

 この町で生まれ育ち、「学校」を目指して勉強していた自分が、本当の自分ではないように思えて仕方がないこと。本当の自分は、青空の見える世界で、ドミトリーと呼ばれる芸能居住区に13歳から住み、仲間と一緒にアイドルとして活動していたに違いないこと――。

 ヒサヤは真剣にチクサの話に耳を傾けてくれていた。チクサのしどろもどろになりながらの説明が一段落したところで、ふう、と彼は小さく息を吐いた。


「参ったな。俺、医者じゃないんだけど」


 そう言いながら、彼はコーヒーのカップを手で示し、「まあ飲んで」と促してくれる。チクサに向けられる柔らかな眼差しには、彼女の話を信じていないという雰囲気はなかったが、いつも自信満々で天才を自称している彼には似つかわしくない戸惑いの色が宿っているように見えた。

 カップの温かさを両の手のひらに感じつつ、チクサは落ち着かない気持ちのままコーヒーに口をつけた。やはり――この人の頭脳をもってしても、自分の身に起きていることの真相を見抜いてくれるのは不可能なのだろうか。


「考えられる可能性としては……その記憶は、君の深層心理が見せた夢なのかもしれない。のこの町に生まれて、歌や演劇に触れられず育ったフラストレーションが、芸能人として活躍するもう一人の自分の幻覚を生み出した――」

「……夢じゃないんです」


 チクサはふるふると首を振った。そうせざるを得なかった。ヒサヤの言うことが実は正しいのかもしれないが、それでもチクサには、自分の中にはっきりと残るこの記憶が夢や幻だとは思えないのだ。


「夢って言うなら、こっちの世界の方が夢です。……わたしの本当の世界は、こんなふうに雲にも覆われてなくて……芸能禁止のエリアもなくて、逆に女の子はみんなアイドルになる社会だったんです。わたし、お兄さんにも沢山助けてもらいました。あれが全部夢だなんて、そんなこと――」

「……ちょっと、待って」


 チクサが必死に訴える声を、ヒサヤはそっと手をかざして遮ってきた。


「女の子が全員アイドルになる社会……。間違いないのか」


 ヒサヤの聞き返しに、チクサはすぐさま頷く。部屋着を纏った膝の上にぽたりと自分の涙が落ちた。

 ヒサヤは口元に手を当てて少し考え込む素振りを見せてから、机の上のコンピュータに向かい、小さなマイクに向かって何かを呼びかけた。


美音ミオン、検索してくれ」


 彼の口から出た「ミオン」という名前に、チクサは確かに聞き覚えがあった。だが、それはの記憶でのことだ。本当の――国民総アイドル社会に生きていた方の自分の記憶には、そんな存在はなかったはず。


『はぁーい、マスター・ヒサヤ。何を調べますか?』


 機械合成の声で答えながらコンピュータの画面に現れたのは、緑色の瞳と髪を持つ女の子の映像だった。実写の人間ではなく、アニメーションのようなものが画面の中から笑いかけている。こういう動画を何と呼ぶのだったか――そう、確か、コンピュータ・グラフィックスとかいうやつだ。を知るチクサの目には、それは随分と古臭い描画システムに見えたが、ヒサヤは満足そうな顔で画面の中の「美音ミオン」に向かって答えている。


「昔の政治ニュースだ。国民の全員を芸能人に取り立てる政策のアイデア、確か無かったかな」

『もう、マスターの検索ワードは相変わらずテキトーなんですから。歌唱AIにそんな高度な調べ物ができると思ってます?』

「いいから仕事しろ、ポンコツ」


 ヒサヤは口を尖らせ、ぽん、とコンピュータの画面を指で弾く。彼とAI少女のやりとりが可笑おかしくて、こんな状況なのにチクサは思わずくすりと笑ってしまった。


『……検索、出ましたよー。どうですか、マスター、読み物のBGM代わりに美音ミオンの歌を――あっ、このエリアでは歌えないんでした。もう、なんでこんな不親切な場所に住んでるんですか』

「うるさいな。誰がこんなふうに改造したんだか」

『あなたです、マスター。歌を歌うために生まれた美音ミオンをこんなエリアに連れてきて、自分の手篭てごめに……もとい、手駒にするなんて、本当にひどい人ですよ』


 延々と喋り続けるAIを適当にあしらいつつ、ヒサヤは画面に映し出された百科事典の記事をチクサの付いていけない速さでスクロールしていた。ややあって、彼はくるりとこちらに振り返り、真剣な目で話し始める。


「22世紀の初め頃、震災頻発期って時代があったのは知ってるよな」


 チクサがこくんと頷くと、彼は説明を続けた。


「相次ぐ震災でボロボロになった国家を再建するため、当時の政府はいくつかの政策プランを検討してたんだ。まずは疲弊経済から立ち直り、先進各国と同等のレベルまで国力を再生しないと話にならないってね。その時、検討のテーブルに乗ってたのが、この国の技術力を活かしたモータリゼーション国家構想、月面開発で覇権を取る宇宙進出構想……そして、国内の若年層を一律芸能人に取り立てることで経済の循環を促す、国民皆芸かいげい構想」

「そ、それです!」


 ヒサヤの話を聞いて、チクサの頭にピンと来るものがあった。そう、確か……の芸能史の授業で聞いたことがあったのだ。この国が国民総アイドル社会に変貌を遂げた背景には、震災で疲弊した国家の復興という事情があったことを。最初は社会福祉の意味合いで始まったアイドル一律登用の波が、やがて全国を包み込み、この国の常識を塗り替えていった――。


「お兄さん……それで、どうなったんですか!? 当時の人達は、どの案を――」


 チクサが身を乗り出して問いかけると、ヒサヤは残念そうに首を振った。


「どの政策も選ばれなかった。結局、どれ一つとして実現ローンチできる余力がこの国には残っていなかったんだ」

「そんな……」

「それに、その後ののことを考えると……結局、どれかの政策が実行に移されてたとしても、無駄だった気がするぜ。君も知っての通り――俺達人類は、最初の隕石で永遠に空を奪われた。もう、この国の経済を立て直すとか、そういう次元の話じゃなくなっちまったんだ」


 嘆息たんそくするようなヒサヤの語りを聞き、チクサもまた絶望に胸を締め付けられた。自分が生きていたはずの世界の記憶と、この世界の現実との途方もない落差に。

 確かに、には厳しいことも辛いことも沢山あった。あの社会をディストピアだなんて言う人もいた。だけど――少なくとも、あの世界には夢があった。大好きなアイドルを誰もが目指せる環境があり、大好きな歌を思う存分歌える自由があった。そして……大好きな人に、歌を通じて思いを届けられる希望があった。

 ……そこでチクサはハッと気付いた。幼馴染の彼は――ツルマは、では何をしているんだっけ?


「お兄さん。ツルマくんは……ツルマくんはどうしたんですか?」

「……チクサちゃん」


 ツルマがその名を口に出すと、ヒサヤは――

 本当に……本当に、残念そうな表情で。

 チクサを心の底からあわれむような目をして――言った。


「落ち着いて聞いてくれ、チクサちゃん」


 どくん、とチクサの心臓が不穏に脈打つ。お兄さんは、一体何を――。


「……弟は……アイツは、五年前ののときに……」


 皆まで言わないその一言が――

 チクサの記憶を、感情を、精神を、天地を揺るがす大地震の如く掻き回す。


「あ……ああぁっ!」


 の記憶に確かに残るその事実が――せきを切ったように、彼女の脳裏に溢れ出した。

 五年前、この国を中心にアジア一帯を襲った隕石被害。地球の衛星軌道上に設置された自律防衛システムが巨大隕石をち漏らし、炎のつぶてと化した無数の隕石群が地上に甚大な被害をもたらしたあの日。

 父に手を引かれ、命からがら辿り着いた避難所で――自分は確かに、亡骸なきがらを見た。

 だけど――。

 葬儀にも出た。墓にも何度も手を合わせた。だけど……だけど。


「違うよ……こんなの違うよ!」


 自分の絶叫が狭い部屋いっぱいに響き渡るのを、チクサは吹き飛びそうな意識の片隅で聞いた。

 違う。絶対に違う。こんな世界が――のいない世界が、現実であるはずがない。

 チクサは気付けば椅子から立ち上がり、ヒサヤの襟首を両手で掴んで揺さぶっていた。


「お兄さん! お願い、わたしを帰して! 元の世界に帰してっ!!」


 溢れる涙が彼女の視界をぐしゃぐしゃに歪ませる。ややあって、ヒサヤはその温かな手でそっとチクサの頭を撫で、彼女の震える両手を優しく振りほどいてくれた。


「……分かった、チクサちゃん。ここは君のいるべき世界じゃない」


 ヒサヤの言葉に続けて、『エヴェレットの多世界たせかい解釈かいしゃく……』と、コンピュータの中の「美音ミオン」が控えめな声で呟くのが聞こえた。

 部屋着の袖にしたたるほどの涙を染み込ませたチクサに向かって、ヒサヤは話し続ける。


「パラレルワールド……無限に枝分かれした未来の一つ。本当の君は、こことは全く違う世界に生きていたのかもしれない。宇宙から星が降らず……人類が空を失っておらず……俺達が高度な未来文明を謳歌している世界。君の言う通り、君がアイドルとして活躍していて、弟は生きてそれを見守っている……そんな世界に」


 パラレルワールド。多世界解釈。難しい話はチクサにはわからなかったが、ただ、確かに彼が自分の境遇を理解してくれた――そのことになぜだかとても安心して、はらりとまた涙がチクサの目から溢れる。

 だが、ヒサヤの優しい瞳は、同時に――自分にできることは何もない、とも語っていた。


「お兄さん……。わたし、どうしたら……」


 ヒサヤの身体にすがりつく形でチクサは立ち尽くしていた。ヒサヤは今にも崩れ落ちそうになる彼女の身体を支えてくれていたが、いかな天才といえど、チクサを元の世界に帰す手段を彼が教えてくれることはなかった。

 自分はこのまま、この世界で生きていくしかないのだろうか――。

 チクサが絶望に気を失いかけた、まさにその時。

 一筋の福音ふくいんを示すかのように、テレビジョンからの声が響いた。


『トーキョー・シティの認可芸能人として活躍するさかえクリスさんが、このたび、えある国家救済機関の特使に選ばれ、月面居住区への慰問いもんに飛び立つことになりました。月面世界への慰問は、我が国の芸能人としては実に半世紀ぶりのことであり――』


 よく知った名前に無意識に反応し、チクサの滲んだ視界がテレビジョンのぼやけた画面を捉える。その瞬間、チクサの脳裏に電撃が走った。


「クリスさん!」


 画面に映し出されていたのは――紛れもなく、で東海ミリオンのトップアイドルだった栄クリス。きらびやかなドレスを纏い、カメラに向かって手を振るその姿は、生まれた世界が違っていても、チクサの記憶に残る彼女と寸分違わぬ太陽の輝きを湛えていた。


「栄クリスがどうかしたのか?」

「クリスさんも……ちゃんと居るんだ。この世界に」


 何の根拠も確証もなく、だが確かにチクサは思った。彼女の存在だけが最後の希望かもしれないと。

 宿命のライバルであり、頼れる先輩であり、かけがえのない同志。のクリスは自分のことなんて知らないかもしれないが――それでも。


「お兄さん。わたし、クリスさんに会いに行きます!」

「行きます、って、そんな簡単に――」


 ヒサヤは面食らった顔をしていたが、チクサは自分の思い付きをもう止められなかった。

 絶望に満ちた世界にただ一つ残ったパンドラの光。諦めることのできない思いが彼女の心を突き動かす。

 理屈も理由もどうだっていい。ただ彼女に、会いたかった。

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