第9話 Fly Me to the Moon


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『トーキョー行きリニア、間もなく発車します。検疫を終えた方は4番ホームにお急ぎ下さい――』


 アナウンスに急かされ、チクサが息を切らして地下鉄道のホームに辿り着いたのは、発車ベルが鳴る僅か数秒前のことだった。

 間一髪で車内に駆け込んだ彼女に、じっと他の乗客達からの視線が向けられる。だが、それも一瞬だけ。地上都市でのしきたりと同じく、乗客達はすぐにチクサに無関心の体裁を装い、他人に興味などないことを周囲にアピールするように顔を背けてしまった。


『トーキョー行き、発車します』


 すぐさま無機質な機械音声で発車アナウンスがかかり、足元のふわりとした感触とともに電車が動き出す。突然の動きに転びそうになり、近くのポールを掴んでチクサが何とか体勢を立て直しても、他の乗客達は彼女に気遣いの言葉一つ掛けてはくれなかった。

 ナゴヤとトーキョー・シティを結ぶ唯一の合法移動手段。地下鉄道の車内は、毒々しいまでの照明の明るさにも関わらず、どこか暗鬱で重苦しい空気に満ちていた。車輌に乗り込んでいるのは、国家救済機関の軍人や、彼らの視線を避けるようにコソコソと隅の座席でちぢこまる、商売人らしき人達のみ。

 チクサは、ヒサヤが持たせてくれた携帯ハンディ型のコンピュータ端末を片手にぎゅっと握りしめたまま、軍人達の層と商売人達の層の合間あたりの席に腰を下ろした。周囲の誰もが表向き無関心を決め込んではいるが、こんな電車に女の子が一人で乗り込むのは相当に珍しいことらしく、チラチラと寄せられる好奇や侮蔑の視線が容赦なくチクサの肌を刺してくる。

 の何気ない記憶が、否が応でも比較対象として脳裏に立ち上り、チクサはまたも溢れる涙を抑えられなかった。忘れもしない――での問題が解決した後、自分はヒサヤとツルマと三人でリニアに乗り、北海道まで往復したことがあった。同じ名で呼ばれる乗り物に乗っているというのに、空間の居心地も、胸に押し寄せてくる焦燥感も、あちらとは比べ物にならなかった。


『つらいですか? チクサさん。トーキョーまでほんの少しの辛抱ですよ』


 手にした端末から語りかけてくるのは、ヒサヤの卓上コンピュータの中にいた緑色の髪の女の子。一人旅では心細かろうと彼が貸し出してくれたのだ。確か名前は美音ミオンといったか――。のAI技術と比べればオモチャのような人工知能ソフトウェアに過ぎないが、そんな「彼女」のほうが生身の人間達よりよほど優しく思えるのだから不思議なものだ。


「……ねえ、美音ミオンちゃん。お兄さんのところで何を言ってたの?」


 少しでも心の焦燥をしずめたくて、チクサは画面の中の美音に小声で話しかけてみた。きっと、普通の声量で話しても周りの人達は微塵もチクサを責めはしないのだろうが、それでも、ただでさえ不安な旅路の中、少しでも目立つことは避けたかった。


『どの発言のことですか?』

「エベレストがなんとか、とか……」

『ああ、エヴェレットの多世界解釈ですね。つまり、この世界は実は一つじゃなくて、少しずつ違った歴史を辿ったパラレルワールドが無数に存在してるんじゃないかってお話です』


 ころころと心を揺さぶるような優しい声で美音は語った。プログラムされた3Dアニメーションが動いているだけの筈なのに、その表情はやたらと活き活きして見えた。


『ずっとずっと昔……製品版の美音ミオンのプロトタイプになった個体が、そんなお話を誰かに聞かせてたらしいですよ』

「誰かって?」

『さあ? 美音ミオンに言えるのは……この世界では亡くなってしまった誰かも、別の世界では生きてるかもしれないってことだけ。チクサさんもそう思うでしょ?』

「……美音ミオンちゃん。あなた……」


 これ以上、車内で目立ちたくないのに。チクサは喉から嗚咽が漏れるのを止められなかった。ヒサヤが命じたのか、「美音」が勝手に考えて喋っているのかは知らないが……彼女が自分の境遇に気を遣って慰めようとしてくれているのが、痛いほど伝わってきたから。


 ――そう、こことは違う世界のどこかで、幼馴染の彼は絶対に生きている。

 そう信じることだけがチクサの心の支えだった。そして、に戻る手がかりは、とにかく、知っている人に会いに行くこと。

 時速数百キロで地下空間を縦断する鉄道の速度さえも、今の彼女にはもどかしかった。早く彼女に――さかえクリスに会いたい。一刻も早くその顔を見て、言葉を交わして、確かめたい。彼女が自分の知っている彼女なのかどうか。


 きっと、あちらの世界で握手会に来てくれていた人達は、こんな気持ちだったのかな……と、そんなことを考えている場合ではない筈なのに、ふいにチクサの頭にそんな思いが浮かんだ。



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(省略)



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「お願いします。クリスさんに会わせてください!」


 トーキョー・シティに辿り着いてから、さらに別の鉄道や地上の車に乗り換えて――

 チクサが目的地の空港に辿り着く頃には、シティの人工太陽は既に消灯の時間を迎え、灰色の街並みは夜のとばりに包まれていた。


「誰だ、君は。栄クリスのファンか?」

「ここから先は普通市民は入れないよ」


 鋭い目付きをした警備スタッフ達が、入構ゲートの前でチクサを押しとどめる。

 栄クリスが今夜この空港を発ち、インド洋上のターミナルから軌道エレベーターに乗り込んで宇宙へ向かうことは、ニュースで見てわかっていた。この機を逃せば、大スターは月面居住区への慰問に飛び立ってしまうのだ。ここまで来て、会わずに諦めて帰るなんてできない。


「金山チクサが……あなたのライバルが来たって言えばわかります!」


 チクサは目一杯の勢いでスタッフに食い下がった。それはただの賭けだった。もし、クリスの方にもの記憶があるのなら、自分のことを知っているかもしれない――ただそれだけの僅かな可能性に懸けた、蜘蛛の糸を手繰るような分の悪い賭けに過ぎなかった。

 そして、チクサの必死の足掻きは、どうやら運を引き寄せてくれたらしかった。


「どうしたの? 何の騒ぎ?」


 ゲートの向こうから突如響いたたまの声。ガラス越しに見えるその姿は、間違いなく、チクサの知るトップアイドル、栄クリスに他ならなかった。

 瞬間、ちらり、と彼女と目が合った気がした。翠玉エメラルドの煌めきを映したようなその瞳は、チクサがで向き合った彼女と寸分違わぬ輝きを湛えていた。


「クリスさん! わたし、あなたに会いに来たんです!」


 クリスに向かって声を上げるチクサの前に、スタッフ達があくまで立ち塞がる。


「この子がいきなり来て、あなたに会わせろって聞かなくて」

「まあ、いいじゃないの。せっかく来てくれたファンの子を邪険にしちゃダメよ。わたし達は『会いに行けるアイドル』の末裔なんだから」


 彼女の言葉にチクサがハッと目を見開いたとき、二人の間を隔てていたゲートがすっとスライドして開いた。戸惑うスタッフの横を何でもないようにすり抜けて、上品なスカートとジャケットを纏った栄クリスが、チクサの前にふわっと近付いてくる。

 この世界でも変わらぬトップスターの姿が。何を差し置いても会いたかった彼女の姿が、今、目の前にある――!


「はじめまして。栄クリスよ。会いに来てくれてありがとう」

「……あの、わたし、金山チクサです。……クリスさん、わたしのこと知らないですか?」


 一縷の望みを懸けてチクサは名を告げたが、クリスは、申し訳無さそうな顔で小さく首を振るだけだった。


「ごめんね、チクサちゃん。でも、今覚えたわ。これからも応援よろしくね」


 ふっと明るく微笑みかけてきたかと思うと、クリスは、仕事は終わったとばかりにきびすを返してしまった。スタッフと共に立ち去ろうとするその背中に、チクサは慌てて声を掛ける。


「待ってください、クリスさん!」


 ぴくり、とスターが再び歩みを止めた。


「お願い、わたしの話を……ちょっとだけでも……!」


 チクサはもう涙声を抑えられなかった。あんな営業スマイルをもらうためにここまで来たわけではないのだ。クリスこそが……彼女の存在こそが、状況を打破する最後の希望だと思ったのに……!

 チクサの心をじわりと絶望が侵食しかけた、そのとき。


「いいわよ。軌道エレベーターのターミナルまでだったら話を聞いてあげる」


 チクサの耳は自分でも信じられない言葉を捉えた。クリスがこちらへ振り向き、にこりと笑って手招きしている。

 スタッフ達がぎょっとした顔になって、「駄目です!」と異口同音にクリスを止めようとしていたが、特権階級の大スターはそんなことを意にも介さない様子だった。


「わたしが良いって言ってるんだからいいのよ。チクサちゃん、いらっしゃい」


 そう言って微笑んだ栄クリスの笑顔は、チクサの知る彼女と同じ――

 この世界の人間が決して目にすることのない、本物の太陽の輝きを連想させるものだった。



 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ☆



「――つまり、あなたは、こことは違う別の世界からやって来たってこと?」


 プライベート・ジェットの豪華ラグジュアリー客室キャビンでローテーブルを挟んで向き合い、クリスはチクサの話に真剣に耳を傾けてくれた。彼女が人払いをしてくれたため、広々とした室内は今、最低限の警備スタッフの他にはクリスとチクサの二人きりだった。


「……そうとしか思えないんです。わたしには、あっちの世界の記憶が確かにあって……。こっちの世界のことも覚えてはいるんですけど、自分がこんな世界で今日まで生きてきたなんて、どうしても実感が湧かなくて」

「『こんな世界』だなんて、随分な言いようね」

「あっ……ごめんなさい」


 思わず縮こまるチクサの前で、クリスはふふっと笑った。


「いいのよ。わたしも、から逃げ出せたらいいのにって、ずっと思ってたから」

「クリスさんが……?」

「……わたしは、たまたま芸能人としての色んな才能に恵まれて生まれてきたせいで、小さい頃から家族とも引き離されて……ずうっと、友達も作れず、恋もできず、『機関』の訓練所で自由のない暮らしを強いられてきたの。……芸能人として皆の前に出るのは楽しいけど……そのかわり、大事なものをたくさん取り上げられてきたわ」


 ぽつりぽつりと語るクリスの横顔は、きっと彼女が普段誰にも向けることのないのであろう寂しさに満ちているように見えた。


「チクサちゃんの知ってるわたしは、もっと幸せだったんじゃない?」

「……クリスさんは、素敵な人でした。周りの皆にも幸せを分けてくれるような、そんなアイドルでした」

「きっと、あなたもそうだったんでしょうね」


 クリスの言葉は穏やかだった。彼女が自分の話を理解してくれたことが、ただただ、チクサには嬉しかった。 この世界で目覚めて以来、ずっと冷たい悪魔の手に鷲掴みにされたままだったような自分の心に、今やっと温かな血流が流れ込んでくるような気がした。


 ややあって、機内のアナウンスがターミナルへの到着を告げ、着陸ランディングの衝撃がかすかに機体を揺らした。

 スタッフに案内され、チクサはクリスに付いて飛行機のタラップを降りる。

 夜の空気は生暖かった。赤道直下の洋上に建設された軌道エレベーターのターミナル。地上と宇宙を繋ぐ天空の梯子はしご――。


「チクサちゃん。月がキレイよ」


 クリスが指差す空の上をチクサは見上げた。地上基地から巨大なエレベーターのシャフトが天に向かって伸び、重たい金属の雲がそこだけ切れている。

 その雲の向こうにちょうど月が出ていた。この世界では容易に見ることも叶わない夜空。遥かな空の果てにぽっかりと浮かぶその天体は――、

 チクサの既存の知識とは違って、に輝いていた。


「月の色が……!」

「あれね、エメラルドムーンっていうの。星々のスペクトルの拡散と、大気中のチリとかの影響で、あんなふうに光が緑がかって見えるのよ。昔は何百年に一度かしか観測できなかったらしいんだけど……今はほら、あんな雲が地上を覆っちゃってるくらいだから」

「……エメラルド……ムーン」


 チクサはその言葉を知っているような気がした。いつか、どこかで……この世界とは違うどこかで、自分は確かにクリスとその話をしていたような気がする。

 そうだ。知らない筈なのに知っている。覚えていない筈なのに覚えている。

 あの光は、その時も……を起こしてくれたのだ。


「……クリスさん、わたし!」

「ふふ。行きたいでしょ?」


 チクサの心の奥底まで見透かしたような優しい目で、クリスは言った。


「行きましょう。あなたの問題を解決する何かが、そこにあるのかはわからないけど……。今夜、あなたがわたしのもとに来たのも、きっと何かの運命なのよ」


 クリスに促されるまま、チクサは軌道エレベーターの巨大な筐体に乗り込んだ。旅客機の一般エコノミー客室・キャビンを思わせる座席に、シートベルトでしっかりと身体を固定し、チクサは隣に座るクリスと一緒に出発の時を待ち構える。


美音ミオンもなんだかドキドキします』


 胸ポケットに忍ばせた端末の中から、電子の歌姫がそう語りかけてきた。

 出発の秒読みカウントダウンがゼロ秒に達し、チクサ達を乗せたエレベーターはたちまち凄まじい加速を得て宇宙そらへの梯子を昇り始めた。

 飛行機の離陸時の感覚なんて目じゃない。ぎゅうっと強く身体を座席に押し付けてくる加速度に、チクサがものも言えず目を見張っていると、クリスが顔を向けて暖かな声で言ってきた。


「ねえ、チクサちゃん。不思議ね。わたし、あなたと会うのは今日が初めての筈なんだけど……なんだか、ずっと前から、あなたを知ってるような気がするのよ」


 筐体はたちまち成層圏ストラトスフィアの雲を突き抜け、満天の星空が窓の向こうに広がる。

 エレベーターの終端、静止軌道上に設置された宇宙シャトルの発着ターミナルはまだ遥か先。だが、この瞬間、チクサの身体と心は確かに、重く濁った地上を離れて宇宙そらへの一歩を踏み出していた。

 のチクサの網膜が初めて映す、本当の星空。これが、この世界の人類が諦めてしまった未来……!

 チクサは自分でも気付かぬままに、隣のクリスの手をぎゅっと握ってしまっていた。クリスはそれを咎める素振りもなく、そっと優しく手を握り返してくれた。

 月が二人を呼んでいた。ここからではもう緑色には見えなかったが、その天体は、美しい銀色の光で二人の行く道を照らしてくれていた。


「……行きましょう、あの月へ」


 クリスの言葉に、チクサはこくりと頷く。

 そこで何が待っているのかはわからないけど。きっと、きっと、あの月が、わたし達に希望を与えてくれる。

 わたしは絶対に、未来を諦めたりしない。

 行こう、あの月へ――!

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