第3話 エメラルドムーンの夜に【part: FUTURE】

 五時間に及ぶ飛行フライトという名の仮眠時間を終え、チクサ達は熱狂のロンドンに降り立った。

 覚醒光パッチで眠気を飛ばし、化粧機メイカーで身だしなみを整え、本番の衣装に袖を通し――。初めて異国の地を踏んだ感慨も早々に、あっという間に迎えた本番直前。

 永劫の歴史を湛えるロイヤル・ホールの楽屋のバルコニーに立ち、チクサは雲間の月を見上げていた。

 中京とロンドンの時差は八時間。パッチのおかげで眠くはないが、なんだか落ち着かない感じは否めない。チクサの身体は今が深夜三時くらいだと訴えているのに対し、テムズ川の向こうにそびえる時計塔ビッグベンの大小の針は、夜七時前だと言って聞かないのだ。


「なんだかヘンな感じ。時間が巻き戻ったみたい」


 チクサが言うと、その隣でバルコニーの手すりに背中を預けていたクリスは、「時差呆けジェットラグなんてすぐに慣れるわよ」とくすくす笑っていた。

 そんなものかな、と思いながら、チクサはロンドンのシンボルたるビッグベンをぼんやりと見やる。

 彼女らの母国と異なり、さしたる大震災の頻発期を経験しなかったイングランド。東京や中京と遜色のない高層都市の街並みに紛れ、何百年も前の建物がそのまま残っているのは、チクサにはどうにも不思議な光景に感じられた。

 今より遥か昔――チクサの国で最初のアイドル組織が産声を上げるよりもさらに昔、この地が連合ユナイテッド王国・キングダムと呼ばれていた時代に建てられ、悠久の時の流れの中に身を置いている「生きた遺産」。今夜の客席を埋め尽くす幾万人の観衆よりも、チクサらを最も緊張させる「観客」はこのビッグベンとロイヤル・ホールかもしれない。

 きらきらと輝くロンドンの街並みを眺めていると、ふいに涙が溢れそうになった。世界中から著名な歌手が集まる大舞台に、この自分が立たせてもらえるということ――自分がこの場所に居られる理由を噛み締めると、やはり、「溢れそう」では済ませられない。


「……クリスさん」


 チクサはクリスに向き直り、涙声になるのを頑張って抑えながらその名を呼んだ。クリスはすかさず「ダメよ、おまじないを忘れちゃ」と人差し指を向けてくるが、チクサは「いいえ」とゆっくり首を振った。


「これだけは、ほんとにマジメに言いたいんです。……あの時、クリスさんが戦ってくれたから、わたし、ここまで来られました。本当に……ありがとうございます」


 チクサが深い感慨を込めて頭を下げると、クリスは彼女の肩にそっと手をかけ、顔を上げさせてくれた。東海ミリオンの不動のエース、絶対女王の瞳が優しくチクサの顔を覗き込んでくる。


「お礼を言うのはわたしよ、チクサちゃん。あの日、初めて一緒にステージに立ったとき……わたし、確信したの。きっと、チクサちゃんとわたしは、今夜みたいな大舞台に、これから何度も何度も一緒に立つことになるんだって。そうなりたいって思える相手に初めて出会えて、本当に嬉しかったんだから」


 ハイ、と頷いて、チクサは衣装の袖を濡らした。黒曜石のようなクリスの瞳がチクサの姿を映している。その背の向こうでは、ビッグベンの荘厳な勇姿を、雲の間から覗く月の光が照らしていた。

 その光を見て、チクサははっと目を見張った。気紛れな雲が道を開け、漆黒の夜空に全貌を現した今夜の満月。それは白でも黄色でもなく――。


「クリスさん……あれ」


 チクサが思わず発した言葉に、クリスが「なあに?」と身体の向きを変えたとき、彼女の光沢のある黒髪をの光が天上から照らす。

 おとぎ話の挿絵を切り取ったような幻想的な光景だった。チクサ達を天から見守る月の光は、確かに翠玉エメラルドの色に輝いているように見えた。

 飛行機の中でクリスと語り合った話が、目の前の光景と重なる。数百年に一度、緑色の輝きを見せる月――エメラルドムーン。時を超えた奇跡を呼ぶと言われる不思議な光。


「……きれい」


 その声を自分が呟いたのか、クリスが発したのか、二人揃って口にしたのか、チクサにはわからなかった。

 携帯端末のAIに言わせれば、月の光が緑色に見えるのは、恒星のスペクトルの拡散と大気中の不純物の関係で簡単に説明がつく現象だという。ただ発生する頻度が極端に低いというだけで、原理自体はとうの昔に解明されている、当たり前の自然現象……。

 だけど。学者がどんな説明をつけようと、その光がはらむ神秘的な輝きまでも吹き飛ばすことはできない。チクサの目の前で盟友の頬を照らす、幻想的な光の輝きは。


「同じね、チクサ」


 ふいに、その盟友がしっとりした声で言った。


「えっ……何が?」

「あなたがずっと追い続けてきた光と。……きっと、この夜、あなたがここに立つことは、神様が決めた運命なのよ」


 クリスの言葉に、とくん、と自分の心臓が脈打つのをチクサは感じる。

 運命。神様。そんなものが本当にあるのなら。

 時を超えた奇跡が本当に起こるのなら、私は――。


 この歌声を古の人達にも聴いてほしい、とチクサは思った。

 ずっとずっと先の未来にまで、あなた達の想いは伝わっているよ、と。

 こちらからも伝えたかった。どんな時代にも、希望を受け継いで歌声を紡ぐ者がいることを。


「……チクサ?」


 隣からクリスの呼ぶ声がする。だが、チクサはなぜか、ビッグベンと月の光から目を離せなかった。

 時計の針は、動いていた。

 十九時少し前を指していたはずの、ビッグベンの巨大な二本の針が――

 動いている。本来とは逆さの向きに。ぐるぐる、ぐるぐると。見る見る内に、目にも留まらぬ速さで。

 幻のような光景を前に、チクサが思わず目をしばたいたとき――



 *


  *


 *


  *

 *

  *



 リン、ゴーン……リン、ゴーン……と、


 ビッグベンが奏でるウェストミンスターの鐘の音が、彼女の意識を揺り動かすように鳴り響いて――。



 *

  *

 *

 


  *



 *



  *



「……あれ? クリスさん?」

 

 チクサがふと気付いたとき、今の今まで隣にいた筈のクリスの姿は見えなくなっていた。


「クリスさん……? 先に行っちゃった?」


 おかしいな、と思いながら、チクサはバルコニーから楽屋裏の廊下へと小走りで躍り出る。自分が月の光に見惚れていた間に、彼女は先にステージへ向かってしまったのだろうか?

 チクサがきょろきょろと辺りを見回してみても、どこにもクリスの姿はない。そのかわり、劇場のスタッフらしき黒スーツ姿の男性が、チクサの姿を認めるやいなや、すいすいと寄って声をかけてきた。


「失礼ですが、お嬢様、こちらは出演者専用のエリアなのですが」


 その言葉遣いは、チクサが勉強してきた英語とは少し違う、格調高い響きを纏っているように聴こえた。


「あの、わたし、今夜のステージに出る者で――」

「これは失礼しました。さあ、ステージがあなたを待っています」


 あれよあれよという間に、チクサは舞台袖へと案内され、そこに居たスタッフから一本のマイクを手渡されていた。中になまりでも入っているのだろうか、そのマイクは、まるでアスリートのトレーニング器具のようにずっしりと重かった。

 そして、舞台の袖から上を見上げたとき、視界いっぱいに広がっていたのは――。


「……すごい」


 古の劇場をそのまま再現したかのような、荘厳な雰囲気を湛えた大ホール。ステージを楕円形に取り巻く観客席では、暗闇に覆われて見えないが、無数の観客の目が歌姫の来臨を今か今かと待っているようだった。

 ホールの高い天上を仰いだ瞬間、チクサは思わず眩しさに顔を覆った。あれは太陽をかたどったのだろうか、光を発する大型の照明装置がいくつも天井に取り付けられている。どうやら、ステージの明るさは、その天井からの照射だけに頼っているようだった。

 そこにはチクサの見慣れたものは何一つなかった。色彩鮮やかな照明効果イルミネーションもなければ、空中でのパフォーマンスを可能にする浮遊磁力場レヴィテーティング・フィールドもない。客席の性別・年齢の分布を教えてくれる仮想ウィンドウも起動アクティベートしないし、それどころか自分の姿を客席全域に映してくれる全方位モニターすら見当たらない。

 だが。幾百年の歴史を湛えたこの劇場には、その方がかえって似合っているようにチクサには思えた。


「時間です、歌姫」


 スタッフの言葉に背を押され、チクサはそっと舞台へ歩み出る。瞬間、拍手と歓声の渦が彼女を飲み込んだ。

 照明の下に出ると、そこは開放暖房オープン・ヒーティングが効いているかのように暑かった。まるで本物の火でも焚いているかのようだ。

 音楽はいつまで経っても流れてこない。だけど、チクサには不思議と、観客が何を求めているのかがわかった気がした。

 すう、と深く息を吸って、チクサは無伴奏ア・カペラで歌い始める。この日のために覚え込んだ英語の歌詞――数百年前の人々がロイヤル・ホールの柱に刻んだという、伝説の一曲を。


「Shall we begin to run once again... toward the place that burns our heart」

(再び走り出そうじゃないか。心をたぎらせるあの場所を目指して)


「When was the time at all... that we've stopped running?」

(一体いつのことだったのだろう、私達が走るのを止めてしまったのは)


 歌いながら、チクサはこの歌に込められた古の人々の思いを噛み締めていた。

 このイベントの出演が決まり、初めてこの曲の歌詞を目にしたとき、彼女はその力強いフレーズに胸を打たれたものだった。そして、同時に確信したのだ。自尊でも自惚れでもなく――この曲は、自分が歌わなければならない一曲なのだと。


「I've just found out that to keep living is to keep running」

(気付いたんだ、生き続けるとは走り続けることだと)


「Right now, we can be forward looking to dream!」

(さあ、前のめりに夢を抱こう!)


 客席の熱狂はたちまち最高潮に達していた。チクサは即興の身振りを交え、曲の続きを紡いでいく。

 チクサの心はいつになく高揚していた。アイドルとして初めてステージに立った時よりも、街角でインディーズライブを始めた時よりも、そしてクリスとの一騎打ちに臨んだあの時よりも――。まるで、今まで自分が走り抜けてきたすべての時間が、この日、この場所で、この歌を歌うためにあったかのような気持ちすらした。


「The bloom of youth is always on a roundabout way」

(青春に回り道はつきものさ)


「Even when we failed we can come back any number of times...」

(たとえ倒れても、何度だって立ち上がれる)


「...as long as our hope will be our strength 」

(希望が力になってくれる限り)


「You showed me that a single‐minded effort will bear fruit」

(あなたが教えてくれた。一途な頑張りが実を結ぶことを)


「Right now, we can be forward looking to dream!」

(さあ、前のめりに夢を抱こう!)


 ――チクサがその美しい歌詞を紡ぎ終え、ふっと息を吐いて微笑んでみせたとき、満員の客席から割れんばかりの拍手が彼女を包み込んだ。

 このイングランド全土を揺らすかのような凄まじい喝采の波。チクサがマイクを胸の前に構えて、ぺこりとお辞儀をしたとき――。


「あなたはだれ? エメルをどこへやったの?」


 突如、気品の高さと勝ち気な物言いをミックスしたようなクイーンズ・イングリッシュが、マイクを通してステージに響き渡った。

 チクサはその声の主を探して視線を回し――、ステージの端からこちらへ向かって歩いてくる一人の女の子の姿を認める。

 令嬢を思わせる上品な衣装を纏った、金髪碧眼の美しい少女。歳はチクサと同じくらいだろうか。


「……あの、わたし」

「ここはアルティメット・エメルのステージよ。突然飛び込んできたあなたは一体誰なの?」


 気品と勢いに満ちた発音で畳み掛けるように問われ、チクサは思わず一歩後ずさってしまう。

 目の前に立つ美しい女の子の瞳は、敵意というより好奇の色に染まっているように見えた。客席はしいんと静まり返り、二人の様子を見守っているようだった。

 チクサの姿を映した蒼玉サファイアの瞳が言っている。あなたの正体を教えて、と。


「……わたしは」


 チクサにはもう、自分の身に起きている不思議な体験が現実なのか夢なのかわからなくなっていた。

 まるで視界全体に薄くもやがかかっているかのよう。名前を告げなければならない、と思いながらも、なぜか口を開くことができず――そして、チクサの意識はふいに遠くなった。


 ふわり、と身体が浮くような感覚がして。

 緑の光に覆い尽くされたような意識の中に響くのは、この場に聴こえるはずのない、ビッグベンの鐘の音だけ――。

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