第3話 エメラルドムーンの夜に【part: PRESENT】

 高揚と陶酔に満ちた一夜が明け、準備に追われる半日が過ぎて、遂に迎えたチャリティーイベント当夜。十九時の開幕を前に、ロイヤル・ホールは幾千人の観客の熱気に揺れていた。

 十九世紀の落成以来、絶えず最新設備への改装を繰り返し、百五十年の時を経てなおロンドンっ子に愛され続ける栄光の殿堂。

 架橋かばしエメルは本番の衣装に身を包み、その楽屋のバルコニーから雲間の月を見上げていた。

 イギリスを代表する多くのスターが一堂に会する今夜のイベント。並み居る星々の輝きに先駆けて、エメルはコンサートの幕開けと共に観客の前に立つことになる。だが、不思議と緊張はしなかった。

 準備は万端だ。エメルにとっての思い出の一着、銀ラメを縫い込んだ漆黒のドレス風の衣装も完璧なら、青バラをあしらった髪のセットも完璧。そして何より、彼女の隣には心強い共演者がいる。


「リアン。私、よかった。あなたと一緒にここに来られて」


 エメルが深い感慨を込めて微笑みかけると、盟友、リアンゼル・コールフィールドは、バルコニーの手すりに華奢な背中を預けたまま、それ以上の微笑みで応えてくる。


「私もよ、エメル。初めて出会った時は思いもしなかったわ。あなたとこんな大舞台に立つ日が来るなんて」


 リアンゼルの蒼玉サファイアの瞳がエメルの姿を映していた。その背の向こう、テムズ川を挟んで立つ時計塔ビッグベンの荘厳な勇姿を、雲の間から覗く月の光が照らしている。

 その光を見て、エメルははっと目を見張った。気紛れな雲が道を開け、漆黒の夜空に全貌を現した今夜の満月。それは白でも黄色でもなく――。


「リアン……見て」


 エメルは無意識にリアンゼルの服の裾を指でつついていた。リアンゼルが「なあに?」と身体の向きを変えたとき、彼女の美しい金髪ブロンドの光が天上から照らす。

 おとぎ話の挿絵を切り取ったような幻想的な光景だった。エメル達を天から見守る月の光は、確かに翠玉エメラルドの色に輝いているように見えた。

 昨夜、ヴィヴィアンが教えてくれた話が、目の前の光景と重なる。数百年に一度、緑色の輝きを見せる月――エメラルドムーン。時を超えた奇跡を呼ぶと言われる不思議な光。


「……きれい」


 その声を自分が呟いたのか、リアンゼルが発したのか、二人揃って口にしたのか、エメルにはわからなかった。

 どうして月の光が緑色に見えるのか――それは現代の学者をもってしても上手い説明が見つかっていないという。空気中の塵の関係で月の光が青く見えることはあるというが、緑色に遷移するのはそれでは説明がつかない――と、昨夜スマートフォンで調べた記事には書いてあった。

 だけど。学者が理由を見つけられようと見つけられまいと、その光は確かにエメルの目の前で親友の頬を照らしている。


「同じね、エメル」


 ふいに、その親友がしっとりした声で言った。


「何が同じ?」

「あなたの瞳の色と。……きっと、この夜、あなたがここに立つことは、神様が決めた運命なのよ」


 リアンゼルの言葉に、とくん、と自分の心臓が脈打つのをエメルは感じる。

 運命。神様。そんなものが本当にあるのなら。

 時を超えた奇跡が本当に起こるのなら、私は――。


 この歌声を未来に届けたい、とエメルは思った。

 ずっとずっと先の未来にまで、自分達の歌を伝えたい。

 果てない迷宮に囚われたようなこの時代にも、希望を持って歌声を紡ぐ者がいたことを。


「……エメル?」


 隣からリアンゼルの呼ぶ声がする。だが、エメルはなぜか、ビッグベンと月の光から目を離せなかった。

 時計の針は、動いていた。

 十九時少し前を指していたはずの、ビッグベンの巨大な二本の針が――

 動いている。廻っている。ぐるぐる、ぐるぐると。見る見る内に、目にも留まらぬ速さで。

 幻のような光景を前に、エメルが思わず目をしばたいたとき――



 *


  *


 *


  *

 *

  *



 リン、ゴーン……リン、ゴーン……と、


 ビッグベンが奏でるウェストミンスターの鐘の音が、彼女の意識を揺り動かすように鳴り響いて――。



 *

  *

 *

 


  *



 *



  *



「……あれ? リアン?」

 

 エメルがふと気付いたとき、今の今まで隣にいた筈のリアンゼルの姿は見えなくなっていた。


「リアン、行っちゃったの?」


 おかしいな、と思いながら、エメルはバルコニーから楽屋裏の廊下へと小走りで躍り出る。自分が月の光に見惚れていた間に、彼女は先にステージへ向かってしまったのだろうか?

 エメルがきょろきょろと辺りを見回してみても、どこにもリアンゼルの姿はない。そのかわり、劇場のスタッフらしき黒スーツ姿の男性が、エメルの姿を認めるやいなや、その前に歩み出てうやうやしく礼をしてきた。


「お待ちしておりました。海を越えてやってきた歌姫」


 その言葉遣いは、どこかエメルの知る英語とは違った響きをまとっていた。


「あの、リアンゼルは先に……?」

「? さあ、歌姫、あなたのステージはこちらです」


 スタッフはエメルの質問に構わず彼女を促してくる。開幕の時間がギリギリに迫っていたことを思い出し、しょうがないか、と思ってエメルは彼に従った。どのみち、一曲目は自分のソロパフォーマンスなのだ。

 スタッフに案内されるがまま、エメルはドレスの裾をつまんで、舞台へと続く長い階段を上がる。

 階段を上がりきった先に待っていたのは、広いステージを眼下に見下ろすバルコニー。そして、視界いっぱいに広がるのは――。


「……すごい」


 ホールの高い天井から無人のステージまでを埋め尽くす、色とりどりの光の海。

 それはエメルの知るどんな照明効果イルミネーションとも違っていた。ライトの向けられた先を照らすというより、光そのものが宙に浮いているかのよう。どこに光源があって、どんな原理で光っているのかもまるでわからない。大きさも色合いも様々に、美しく輝きを放つ光の粒が、三次元のさざなみと化して宙に揺蕩たゆたっている。

 まるで、この空間をキャンバスにして、神様の筆が光を散りばめたみたいに――。


「あなたほどのアイドルともなれば、この程度の演出は見慣れたものでしょう?」


 スタッフの男性が穏やかな声でそう言ってくるので、エメルは思わずふるふると首を振った。


「い、いえっ。こんなキレイな演出、初めてで……」

「?」


 男性が頭の上にクエスチョンマークを浮かべたような顔になったので、エメルは少し恥ずかしくなった。

 そうだ、舞台の演出がどんなに美しいものであっても、自分はそれにも勝る輝きを放たなければならない。ステージを楕円形に取り巻く観客席では、暗闇に覆われて見えないが、幾千の観客の目が歌姫の来臨を今か今かと待っているのに違いないのだ。

 と、そこでエメルは気付く。自分が立つバルコニーの上から、遥か眼下のステージまでの間に、その光の海以外のものがことに。


「……あの、ここから降りるんですか?」

「はい、そうですよ?」


 男性は当たり前のように頷いてくるが、エメルにはどうすればいいのかわからなかった。こんな演出はリハーサルの時点では聞かされていなかったのだ。ワイヤーも足場もなく、どうやってここからステージに降りるというのか?


「あの、でも、スタッフさん。足場が――」

「大丈夫です。magnetic inductionのlevitating fieldになってますから」

「えぇ?」


 確かに英語を喋っているはずなのに、エメルにはスタッフの言葉の意味がわからなかった。磁石マグネットが何だって……?

 戸惑っている内に、ホールには男声のアナウンスが大音響で響き始める。


『さあ、皆様お待ちかね、今宵のゲストは――遥か海を越え、アイドルの国から我がイングランドに降り立った東洋の刺客。一度は夢のステージを追われながらも、絶望を希望に変え、不死鳥の如くスターダムに再臨を果たした奇跡の歌姫! 皆様、拍手でお迎え下さい!』


 瞬間、信じられないことが起こった。自分の身体が、まるで見えない手に背中を押されたかのように、ふわりと宙に舞い上がったのだ。

 エメルは不思議な力に導かれるまま、バルコニーから宙へと飛び出し、ゆっくりと光の海の中を降下していく。それはまるで、前に何かのテレビで見た、無重力空間で遊泳する宇宙飛行士のように――。

 観客達のオオッと叫ぶ声がエメルの鼓膜を叩いていた。空間にさざなみを描いていた光の粒は、今やエメルを取り巻くように渦を巻き、きらきらと瞬きながら彼女の全身を煌めかせている。銀河の輝きそのものを映し取ったかのように。

 柔らかく吸い付けられるようにエメルの両足がステージに降り立ったとき、一本のマイクが、まるで意思を持つかのように宙を舞い、独りでにエメルの手元に収まっていた。まるで羽根でも生えているのか、そのマイクの軽さたるや、本当に機械が入っているのか疑ってしまうほどだった。

 エメルの心臓はあまりのことにバクバクと暴れていたが、さりとて、歓喜の声を挙げる観客達の前で戸惑いの失態を演じるわけにもいかない。どんな舞台でも練習通りに歌うだけだ、と、エメルはマイクを握りしめて前を向く。

 だが、その瞬間、ホールの全域を塗り潰すように流れ始めた曲のイントロは、彼女がソロで歌うことになっていた曲とは似ても似つかぬメロディーだった。


 ――待って。この曲、知らない!


 エメルにはさすがに戸惑いを隠せている自信がなかった。

 ソロの一曲目は無伴奏ア・カペラの筈だったのに。急なセットリスト変更? スタッフの手違い? いや……。

 どうあれ、ステージに立ってしまった以上は歌うしかない。

 暗闇の中から無数の観客の目が自分に寄せられているのがわかる。エメルはまだ微かに震える身体で、たっ、と曲調に合わせてステップを踏み出す。


 デイブが。リアンゼルが。ヴィヴィアンが。

 皆が教えてくれた。皆が信じてくれた。

 自分は――誰の心にも光を届けられる歌姫になるのだ。


「I cannot measure how bright the Milky Way is」

(この銀河の明るさは、私には測りきれない)


 エメルは意を決して歌い始めた。心の奥底から溢れ出す思いを乗せて、この場で思いついた即興の歌詞を。

 満員の観客が何を聴きたがっているのか――それは、なぜか完璧にわかったような気がしたから。


「The lights of millions of stars fill up the night sky」

(幾百万の星の光が夜空を埋め尽くしている)


 どんな時代でも。どんな世相でも。夜空を見上げれば、そこには銀河の輝きがある。

 地上の人間がどれほど愚かな戦いに明け暮れようとも、天は同じ顔をして私達を見下ろしていてくれるのだ。


「Even billions of deep darkness cannot depress me」

(深い暗闇がどんなにあっても、私を落ち込ませることはできない)


「The only thing that comes into my eyes is the brilliance」

(この目に映るものは、輝きだけだから)


 ――エメルがメロディに合わせて歌詞を紡ぎ終え、天を仰ぐように見得を切ったとき、満員の客席から割れんばかりの拍手が彼女を包み込んだ。

 イギリス全土を揺らすかのような凄まじい喝采の波。エメルがマイクを胸の前に構えて、ぺこりとお辞儀をしたとき――。


「あなたはだれ? チクサはどうしたの?」


 突如、たまのように美しい声が、マイクを通してステージに響き渡った。

 エメルはその声の主を探して視線を回し――、ステージの端からこちらへ向かって歩いてくる一人の女の子の姿を認める。

 歳はエメルより少し上だろうか。オレンジを基調にしたジャパニーズ・アイドル風のミニスカートの衣装。光沢を放つ黒髪と、端正な顔立ち。見る者全てをとりこにするような黒い瞳。あれは、日本人……?


「……あの、わたし」

「identity confirmationがestablishできないのはどうして? あなたは一体、どこから来たの?」


 相手の発音の問題なのか、よくわからない言葉で畳み掛けるように問われ、エメルは思わず一歩後ずさってしまう。

 目の前に立つ美しい女の子の瞳は、敵意というより好奇の色に染まっているように見えた。客席はしいんと静まり返り、二人の様子を見守っているようだった。

 エメルの姿を映した黒い瞳が言っている。あなたの正体を教えて、と。


「……わたしは」


 エメルにはもう、自分の身に起きている不思議な体験が現実なのか夢なのかわからなくなっていた。

 まるで視界全体に薄くもやがかかっているかのよう。それでも、彼女は口を開いた。伝えなければならない気がしたからだ。自分が何と呼ばれる存在だったのか。どんな想いを背負って自分が歌っているのか。


「『追慕の歌姫』――アルティメット・エメル」


 自分の唇がそう紡ぐのを感じた瞬間、エメルの意識はふいに遠くなった。


 ふわり、と身体が浮くような感覚がして。

 緑の光に覆い尽くされたような意識の中に響くのは、この場に聴こえるはずのない、ビッグベンの鐘の音だけ――。

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