第2話 熱戦前夜【part: FUTURE】

 さかえクリスにとって、それは何の変哲もない現場仕事ルーチンワークの一つの筈だった。いつもと同じように光を浴び、いつもと同じように全力を出し切るだけの――。

 だが、彼女の共演者に金山かなやまチクサが抜擢されたとマネージャーに聞かされた瞬間、彼女の中でそのスケジュールは特別なものへと変わった。チクサと共に歌うのなら、いつも通りの「全力」などではきかない。チクサはきっと、そのステージに「全力」を超えた全てをぶつけてくるはずだから。

 イングランドの首都ロンドンで行われるチャリティーイベント。その本番を翌日に控え、チクサと二人、東海ミリオンのトップメンバーのみが使用を許される特級スタジオで最後のリハーサルに臨む最中さなか――クリスは、自分のその判断が決して間違っていなかったことを知った。


「クリスさんっ。もう一度お願いします!」


 光学着装オプトウェアリングで本番の衣装を映したレッスンウェアに、たっぷりの汗を染み込ませて……チクサは物怖じの欠片もない視線でクリスを見上げてくる。もう三度もパフォーマンスの見直しをしているというのに、チクサは全く疲れを見せる様子もなく、むしろ自分にまだ余力があることを見せつけるかのようにクルリとその場でターンをしてみせるほどだ。

 そんな彼女を前にしては、クリスとて引くわけにはいかない。


「いいわ、チクサちゃん。何度でもやりましょう」


 エースオブエースの誇りを込めてチクサに応え、クリスはマイクを握り直す。

 二人が歌い踊るのは、古都ロンドンに薫り高き劇場のひとつ、ロイヤル・ホールのメインステージ――そのVRシミュレーション。本番の舞台そのままに再現された拡張現実アグメンテッド・リアリティの上で、再び二人は音楽に合わせて躍動に身を投じる。

 チクサとのデュオで歌詞を紡ぎながら、クリスは表に出さない身震いを心の内に噛み締めていた。

 何より恐ろしいのは、チクサはただいたずらに回数を繰り返しているのではなく、リトライを経るたびに現にそのパフォーマンスが進化を遂げていくことだった。歌うたびに深みを増し、踊るたびに輝きを高めるチクサの姿を間近に見て、クリスは戦慄していたのだ。

 、そんなことが出来るアイドルがいたなんて――。


『チクサちゃんはすぐにまたわたしの前に立つ。何度でもわたしを倒しに来る』


 一年前、満場のスタジアムで自身が述べた予言が現実のものになりつつあることを、クリスは今や実感していた。

 脱退騒動の前には全国順位20,000位を超えるのがやっとだったチクサが、今や三ケタ台の常連。注目の切っ掛け自体はだったとしても、それから一年で順位を爆上げしてきたのは純粋にチクサの実力によるものだ。そのことを証明するかのように、明日のステージで、クリスに先立ってソロの歌唱で皮切りを務めるのはチクサだった。

 クリスは誰より知っている。「才能ギフト」と「機会チャンス」、その二つがアイドルの出世を左右する両輪であることを。

 機会だけを与えられても、才能のない者は潰れていくだけだ。逆に、才能があっても機会に恵まれず埋もれている者も無数にいる。中学生の頃の自分が、、天賦の才を世に知らしめる機会チャンスを掴みに行ったのと同じように――チクサにとっては、あの不幸な事件こそが、彼女の秘めたる才能ギフトを世界に向けて開花させる最後のピースだったということだろう。

 そのチクサが名実ともに自分のライバルと呼べる地位まで上がってくるのは、果たして半年後か一年後か。だが、肩を並べることまでは認めても、自分より上に行くことを許すつもりなどクリスには毛頭なかった。

 チクサが居てくれてよかった、とクリスは思う。彼女に負けまいと必死になることで、自分も更に高みを目指してゆける。


「ワン、トゥ、スリー、フォー!」


 クリスが合図を掛け、セットリストの最後の曲が始まる。

 七色の照明効果イルミネーションが二人を照らし出し、大音響のサウンドが身体を揺さぶるが――もはや眼前に見える光景も、聴こえる音も、クリスの意識からは弾き出されていた。それはきっとチクサも同じに違いない。二人の瞳に映るのは、明日のステージの眩しいスポットライトと、ネットワークを通じて全地球から彼女らに喝采を送る、幾千万の観客の姿のみ――。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 リハーサルが終わる頃にはもう日は暮れかけていた。クリスとチクサはそれぞれにシャワーで汗を流し、着替えと簡単な食事を終えて、各々のマネージャーに付き添われてセントラル・ドミトリー内部の空港エアポートへと向かう。

 少しの間、天然の雨が続いていた中京の街も、今は再びの天候規制で綺麗な夕焼けに染まっている。


「チクサちゃん、飛行機は初めて?」


 出国査証ビザの受給とドミトリーの外泊認証を終え、専用旅客機プライベート・プレーンに案内されながら、クリスは隣を歩くチクサに笑顔を向けて尋ねてみた。

 案の定、チクサは「ハイ」と頷き、「ミリオンに入る前にも、海外は行ったことなかったんです」と、まるでそれが後ろめたいことかのように続けてくる。

 そんなチクサの態度を見ていると、思わずクスッと笑みが漏れた。ステージの上ではこの自分をも圧倒する輝きを放ってみせるチクサだが、ひとたび壇上を降りてみれば、まだまだ緊張の抜け切らない十七歳の女の子なのだ。


「チクサちゃん。緊張しない御呪おまじない、掛けておく?」

「おまじない……ですか?」


 チクサと横並びの座席シートに腰掛け、クリスがわざと古臭い言葉で言うと、チクサはきょとんとした目で彼女を見返してきた。


「このイベントが終わって帰るまで、お互いに名前を呼び捨てで呼ぶの。敬語も禁止よ」

「えぇ!? そんな、クリスさんを呼び捨てなんて」

「はい、ダメー」


 クリスは笑ってチクサを指差す真似をするが、チクサは頬を赤く染めて「ちょっと、そんな」とか何とか言っている。


「わたし達、イングランドに行くのよ? 英語では『さん付け』も敬語もないんだから、いいじゃない」

「えぇ……だって、今は英語じゃないし……」

「So shall we start to talk in English from now?」


 クリスが大昔の教科書のような英文で問いかけると、チクサは少し苦笑して、それからやっと観念したように膝の上で拳を握った。


「わかった……がんばる」

「上出来です、チクサさん」

「ちょっと! どうしてそっちが敬語!?」


 そして二人はどちらからともなく笑い合った。後ろの席ではマネージャー達まで吹き出している。伊達にバラエティでも場数を踏んでるわけじゃないのだ、とクリスは内心ふふんと胸を張ってから、緊張のほどけたチクサの笑顔に笑みを返す。

 そんな他愛もないやりとりが、なぜかクリスには楽しかった。自分はひょっとして――誰かとこんな関係になれる日を、ずっと待っていたのかもしれない。


『離陸まで十秒テン・セカンズナイン……エイト……セブン


 無機質な機械音声が客室内に響き渡り、浮力を得た機体が地上を離れようとする振動が彼女らの身体を揺らし始める。


「クリス……? わたし、ちょっと怖いかも」

「怖くないわよ。ライブの空中パフォーマンスの方がよっぽど怖いでしょ」


 それでもチクサが怖そうにしていたので、クリスはすっと片手を伸ばして彼女の手を握ってあげた。チクサは少しびっくりした顔を見せてから、ふと安心したような笑顔に転じる。

 そして、ふわり、と身体が浮く感覚がして、クリス達の乗る旅客機は音もなく茜の空へ舞い上がった。中京第二首都セカンド・キャピタルの彼方まで続く街並みを遥かに見下ろし、窓の外に広がる視界はたちまち雲を突き抜けてゆく。


『当機はこれより水平飛行レヴェル・フライトに移行。ロンドン・キングス空港エアポートへの所要時間はおよそ五時間ファイブ・アワーズです』


 機械音声の案内に次いで、垂直上昇を終えた機体が水平飛行に入る。超音速飛行の衝撃波がたちまち空気中の水分を凝結させ、高度数万キロメートルの空に真っ白な航跡を残すさまは何度見ても美しかった。

 チクサはといえば、残念ながら外を見る余裕までは持てないようで、クリスの手を握り返したままじっと彼女の胸元あたりを見つめている。


「ドラマの中では戦闘機で宇宙を飛んでたくせに」

「あ、あれはだって、ドラマだもん」


 チクサの可愛い反論を聞きながら、クリスはふと、自分が初めて飛行機に乗った時はどうだったかな、と考えていた。「オータム」の早期芸能育成スクールのエリートだった彼女は、正式にアイドルになる以前から国内外のあちこちを飛び回っていたものだが、幼き日の自分が空を飛ぶことを怖がっていたかなどもう思い出せなかった。

 離陸から少し経ち、乗務員アテンダントの運んできたホットココアでやっと一息ついているチクサに、クリスは先日仕入れたばかりの話題を振ってみる。


「チクサ、知ってる? ロイヤル・ホールの『伝説の歌姫』の話」

「伝説の歌姫……?」


 チクサはまた目をきょとんとさせていた。古のアイドルの伝説を語っていた彼女も、さすがに異国の話までは知らないらしい。クリスは得意げになって語り始めた。


「そう。何百年か前のエメラルドムーンの夜に、ロイヤル・ホールのステージに正体不明の歌姫が現れたんだって。当時の人達が懸命にその正体を突き止めようとしたけど、結局、その歌姫が誰だったのかは分からずじまい。……ね、面白くない?」

「ほんとに? ほんとにそんなことがあったの?」


 ココアのカップを両手で包み込んだまま、チクサは身を乗り出すようにしてクリスの話に聴き入ってきた。小癪な、かみ対応か、と思いながらクリスは声を弾ませる。


「ほんとかどうかなんて分からないわよ。でも、チクサがソロで歌う歌、その『伝説の歌姫』がロイヤル・ホールに残した一曲って言われてるらしいわ」

「そうなの!? 素敵な歌だと思ってたけど、わたし、そういうお話大好き」


 チクサはたちまち目をきらきらとさせていた。思った以上の食いつきぶりにクリス自身も驚いてしまう。

 それは、本番の舞台についてリサーチしている内に、ふと目についたおとぎ話に過ぎなかったが……この話を覚えておいてよかった、とクリスは思った。そもそも、チクサが好きそうな話だと思って記憶の隅に留めておいたのだったが、こんなに喜んでくれるのは嬉しい計算外だった。


「Right now, we can be forward looking to dream...」


 チクサの可憐な唇がそっと紡いでいる。前のめりに夢を抱こう、という意味の一節を。

 数百年前、ロイヤル・ホールに現れた謎の歌姫が歌い、当時の人々がその歌詞をホールの柱に刻みつけたと伝わるその一曲。もちろんメロディーは現代二十五世紀になってから作り起こされたものだが、歌詞自体が数百年の時を経ていることは否定しようのない事実だった。


「……ねえ、クリス? エメラルドムーンの夜って、本当に時を超えた奇跡が起きるのかな」


 もうすっかり板についた呼び捨てとタメ口を駆使して、チクサが楽しそうに問うてきた。

 エメラルドムーン。星々のスペクトルと大気中の塵の具合が奇跡的に噛み合ったとき、数百年に一度観測されるという天体現象。明晩のイングランドでそれが起こるかもしれないという話は、もちろんクリスもチクサも既に知っている。


「どうかしらね。昔の人はそういう迷信を本気で信じてたかもね」

「やっぱり迷信なの? 本当だったらいいな」

「本当だったら、どうしたいの?」

「わたし……時を超えて奇跡を起こせるなら、わたし達の歌声を昔の人にも聴かせてあげたい。未来は希望に満ちているんだよ、って」


 自分で言ったことに恥ずかしくなったのか、チクサはカップを置いて両手で顔を覆おうとする。クリスはふっと笑って彼女を促し、窓の外の夜空を一緒に眺めた。

 空にはちょうど月がかかっていた。夜空の遥か彼方に浮かぶその光は、超音速で巡航する飛行機の速度をもってしても抜き去ることは叶わず、ずっと同じ角度からクリス達の横顔を照らし続けている。

 地球から三十八万キロあまりの距離を公転する、この惑星ほしにとってただひとつの天然衛星。軌道エレベーターで地上と結ばれた宙港ステーションからは一日に数本の定期運航便が離発着し、絶えず人と物資が行き来する、人類の第二の活動拠点。

 今や人間にとって遠い場所ではなくなった月を――それでも人は、夢物語を描いて見上げ続けるのだ。竹取物語の昔から変わらない、様々な憧れやおそれを抱いて。


「……がんばりましょう、チクサ」


 クリスとチクサは互いに頷き合い、決意を新たにする。二人のアイドルの誓いと感慨を、彼方の月が静かに見下ろしていた。

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