第2話 熱戦前夜【part: PRESENT】

 ガラス張りのスタジオに、玉散る汗と弾ける歌声。

 チャリティーイベント本番を翌日に控え、リアンゼル・コールフィールドは愛器のギターを抱えて最後のリハーサルに臨んでいた。

 彼女が肩を並べているのは勿論、明日のデュオの相手――ライバルにして親友の架橋かばしエメル。リアンゼルと同じ十七歳にして、究極アルティメットの名を欲しいままにする奇跡の歌姫。

 イギリスの音楽シーンは――いや、全世界の音楽ファンの話題の中心は今や、エメル一色と言っても過言ではなかったが、リアンゼルとて力量で彼女に負けているつもりはなかった。

 明日のステージで、自分に先立ってソロの歌唱で皮切りを務めるのがエメルであろうとも――世界がエメル一人に注目していようとも、昨年のオーディションでブリティッシュ・アルティメット・シンガーの座に輝いたのは、誰あろう、この自分なのだ。


「上出来よ、二人とも」


 演奏が終わり、リアンゼルがギターの弦の感触を指に感じたままエメルと頷きあったとき、防音ガラスの向こうからマネージャーのヴィヴィアンがそう声をかけてくれた。リアンゼルはヴィヴィアンに笑顔で応える。

 彼女自身もまた、自惚れではなく、今のリハーサルはベストの出来だと感じていた。自分とエメルの調和は完璧だ。これならば、究極アルティメットの名に恥じない歌を皆に聴かせられると。

 だが、ヴィヴィアンがマイクを通じてリハーサルの終了を告げようとしたとき、予想外のことが起こった。リアンゼルの隣に立つエメルは、全力で歌い終えた後の荒い息のまま、「待って」とヴィヴィアンの言葉を遮ったのだ。


「ヴィヴィアン、もう一度いいですか。スタジオの皆さんも、ごめんなさい。素晴らしい出来と思ったけど……でも、私もリアンゼルも、もう少しいけるはずなんです。もっといい歌が出来そうな気がするんです」


 そして、エメルは、リアンゼルの目をふいにキッと覗き込んでくる。ターコイズグリーンの美しい瞳に、激しい光を閃かせて。


「リアンもそう思うでしょ? まだいける。私達、もっと高く上がれる」


 刹那、リアンゼルは自分の背に戦慄にも似た何かが走るのを感じた。

 エメル――初めて出会った頃は泣き虫で、臆病で、まともに声を張って歌うことだって覚束なかったエメル。その頃の彼女がもうどこにも居ないことはリアンゼルだってとっくにわかっていたが、しかし、それでも。

 彼女がこうして時折見せる闘志の熱さには、この道にかける情熱では負けていないはずのリアンゼルでさえ、一種のおそれを抱かざるにはいられない。

 リアンゼルの脳裏に蘇るのは、昨日、雨のハイドパークであの日本人デブオタと寄り添って可憐に頬を染めていたエメルの姿。その時はたおやかで微笑ましいとさえ思えた彼女が――今はその瞳に熱い炎を燃やし、自分の前に立っている。まるでマイクを持った途端に人格が変わったかのように。

 あの男が彼女に授けた教えは、これほどまでに熱く激しいものだったのか。


「……エメル」


 リアンゼルの心が彼女自身に問いかけてくる。――おそれて終わりか? 憧れて終わりか?

 答えはNOだ。女王陛下の御名に懸けて。


「当たり前でしょ。エメル、私を誰だと思って?」


 リアンゼルがギターのネックを握り直して言い切ると、エメルも満足そうな笑みを向けてきた。自然、ネックを握る手にも力が入る。


「ヴィヴィ、いいわよね。私たちのベストはここじゃない。まだこんなものじゃない」


 ガラスの向こうのヴィヴィアンにそう宣言して、リアンゼルは再びポジションに付いた。

 エメルが居てくれてよかった、とリアンゼルは思う。彼女に負けまいと必死になることで、自分も更に高みを目指してゆける。

 エメルと並び合って一瞬目を閉じれば、明日の本番の――まだ見ぬロイヤル・ホールの輝かしいステージが目に浮かぶようだった。


「アルティメット・リアンゼル。それでこそ」


 エメルのその言葉を最後に――現実に見える光景も、聴こえる音も、リアンゼルの意識からは弾き出されていた。それはきっとエメルも同じに違いない。二人の瞳に映るのは、明日のステージの眩しいスポットライトと、叫びを上げる幾千の観客の姿のみ――。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 魂を燃やし尽くすようなリハーサルの後、リアンゼルとエメルはヴィヴィアンに連れられ、日の沈みかけるロンドンの街を歩いていた。


「凄いわ、二人とも。明日はもう何の心配もいらないわね。――さあ、頑張ったご褒美に、私から何か美味しいものを御馳走するわ」

「ヴィヴィ、本当? ありがとう!」


 リアンゼルは、マネージャーの太っ腹な発言に素直に喜びを示したが――隣を歩くエメルは、どこか遠慮するような目でヴィヴィアンを見上げるだけだった。パパラッチ避けの大きなメガネ越しに、「私もいいの?」とでも言いたげな視線がヴィヴィアンとリアンゼルの間をうろうろしている。

 マイクを持ったときの噴き出す炎のような彼女とは違って、こういうところはやっぱり「弱虫エメル」の延長なのかな……と思うと、リアンゼルはついついクスッと笑ってしまった。


「エメル、ヴィヴィ相手に何を遠慮することがあるの」

「そうよ。デイブだけじゃなくて、たまには私にも甘えてちょうだい」

「それじゃあ、お言葉に甘えて……」


 エメルがまだどこか萎縮しているようだったので、リアンゼルは彼女の華奢な片腕を軽くつかみ、くいっと身体を引き寄せてやった。私達は仲間なのだと――親友なのだと、全身で言い聞かせるように。

 ひゃっ、と一瞬怯えたような声を出し、それから嬉しそうな表情に転じるエメルを見ると、リアンゼルも嬉しくなった。

 なぜだろう、こんな他愛もないやりとりが無性に楽しいのは。自分はひょっとして――誰かとこんな関係になれる日を、ずっと待っていたのかもしれない。


「エメル、プティングなんてどう? そうだわ、プティングがいいわ! 私、最近食べてなかったもの」

「リアン、勝手に決めないの」


 はしゃぐ自分をたしなめるように、ヴィヴィアンが苦笑している。

 夕闇から夜闇へ空の色も変わり、街頭の灯りが目に眩しかった。街を吹く風は冷たかったが、エメルと身体を寄せ合って歩いていると、身も心も暖かに感じられた。


「美味しいプディングの前に――お二人さん?」


 大通りへ出たとき、ヴィヴィアンが二人に前を見るように促してきた。

 リアンゼルがエメルと揃って視線を上げると――広い道の向かいにそびえるのは、楕円形の巨大な建物。

 近代的なライトアップの中にも荘厳な雰囲気を漂わせるそのホールの名は、ロンドンっ子なら知らぬはずはない。


「ロイヤル・ホール……」


 リアンゼルはエメルと同時にその名を呟いていた。明日の本番の舞台――歴史を通じて数多くの伝説を生んできた、名誉の殿堂の名を。


「リアン。私達、明日ここで歌うのね」

「ええ。夢みたい……」

「なんだか、胸がドキドキする」


 この胸の高揚は、アルティメット・シンガーのオーディションで歌い踊っていたあの時と同じ。ホールの威容を見上げるリアンゼルの心には、あの日の夢が今も醒めずに続いているかのように感じられた。


 だが、この街の情勢は、彼女らをいつまでも夢のような心地に浸らせてはくれなかった。遠くから聴こえてくるサイレンの音にリアンゼルが我に返ると、隣のエメルがぽつりと呟く。


「……また、テロかしら」


 複数のパトカーのサイレンが遠くへ消えていく中、エメルは顔を曇らせていた。

 気のせいか――街を行き交う人々さえも、皆どことなく沈んだような顔をしているように見える。

 二人の後ろに立つヴィヴィアンとちらりと視線を交わしてから、リアンゼルが周囲を何気なしに見渡すと、道の向こうでチャリティーイベントのポスターに目を向けて立ち止まった一人の男がいた。くたびれたコートに身を包んだその男は、酒が入っているのか、大声で吐き捨てている。


「歌で仕事が見つかるかよ! 腹が膨れるかよ! ケッ、こんなもの……!」


 男の気勢の激しさにびくっとして、リアンゼルは思わずヴィヴィアンの腕にすがりついてしまった。エメルはといえば、その男の背中が夜の闇へ消えていくまで、彼に同情のような寂しげな視線を向け続けていた。

 ややあって、気まずい沈黙を振り払うかのようにヴィヴィアンが笑う。


「中にはあんな人だっている。二人ががっかりすることないわ」

「ヴィヴィ」


 ヴィヴィアンは二人を促して歩き出そうとしているようだったが、リアンゼルはどうにも不安な気持ちを押さえることができず、彼女に救いを求めるように問いかけてしまう。


「私たちの歌、今のイギリスで本当に役に立つのかしら」

「リアン?」

「歌が下手だって笑われたりするならまだいい。でも、さっきの人みたいに、慰めることも励ますことも出来ないのなら……」


 今のイギリスには、先程の男のような不幸な境遇の人が溢れている。彼らを前にして、自分達に何ができるというのだろう。自分達の歌が何を成し得るというのだろう。

 リアンゼルが俯きかけたところへ、ヴィヴィアンが彼女の肩に手を添えてくる。


「同じように不安に思っている人達がたくさんいるわ。だからこそ、あなた達は歌うの」


 凛とした意志を感じさせるマネージャーの言葉に、リアンゼルはハッとして顔を上げる。エメルもまたヴィヴィアンの顔を見上げていた。


「この暗い世の中が明日いっぺんに変わるなんてあり得ないけれど――それでもきっと、私達の先に希望ひかりはある。信じて、助け合って、優しい気持ちでお互いを思いやる人が増えてゆけば、朝が来る。傷つけあう憎しみテロルでさえいつか消え去るんだって――信じて歌うの。貴女達ならきっと出来る。――いえ」


 かつて絶望の淵でもリアンゼルを支え続けてくれた敏腕マネージャーは、ふわりと前髪をかき上げ、二人の歌姫の前で不敵に笑うのだった。


「それが出来るのは、あなた達だけよ。そうでしょう? 究極のアルティメット歌姫シンガーズ


 問われた瞬間、何かを答える前にリアンゼルは頷いていた。隣に立つエメルと一緒に。それはまるで、自分ではないがそうさせたかのようにリアンゼルには感じられた。


「アルティメット・リアンゼル。誓いましょう。信じて歌うと」


 エメルが白い手の甲を彼女の前に差し出してくる。その翠玉の瞳には、リハーサルの場でリアンゼルが見たのと同じ、ほとばしる意志の炎が燃えていた。


「……ええ、信じるわ。女王陛下と――アルティメットの名に懸けて」


 エメルの手に自分の手をしっかりと重ねたとき、リアンゼルは見た。エメルの真剣な瞳が映す、自分自身の真剣な目の色をも。

 二人がどちらからともなく微かな笑みを向けあうと、雲間から差し込む月の光が、少しの眩しさを伴って二人の頬を照らした。


「お月様まで二人を応援してるわ。――知ってる? 明日は、数百年に一度のエメラルドムーンになるかもしれないって」

「エメラルドムーン?」


 リアンゼルはヴィヴィアンの言葉を聞き返す。彼女は「ええ」と優しく微笑んで、言葉を紡いだ。


「古い言い伝えでは、月が緑色に光るのは――時を超えた奇跡が起きる夜、らしいわ」

「……時を超えた、奇跡……」


 リアンゼルの眼前で、夜空を見上げたエメルが胸に手を当て、静かに呟く。


「もし、そんな奇跡が起こるなら――私達の歌声を未来にまで届けたい。ずっとずっと先の未来にまで。この暗い時代に光を信じる人がいたってことを」


 瞳をきらきらとさせて夢を語るエメルの姿に、リアンゼルは思わず息を呑んだ。

 なぜか、あの日本人デブオタの姿が思い出された。紳士の国に似つかわしくないあの男の姿が――今のリアンゼルには、もう頼りなく情けないものには思えなかった。

 果てなき高みを目指そうとするアルティメット・エメルの瞳の輝きには、あの男が授けた、祈りにも似た美しいものが息づいているのだとわかったから。


 ――だから愛してしまったのだ。エメルは、あの男を……。


 リアンゼルは全てを悟り、エメルと互いを見つめ合う。二人の歌姫の誓いと感慨を、ロンドンにかかる月が静かに見下ろしていた。


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