第1話 あれから【part: FUTURE】
「何百年も前から、人類の暮らしは量子電磁工学に支えられてきました」
補修授業はもう終わり際だ。ガウスの発散定理、ストークスの定理、マクスウェルの方程式……。数世紀前の天才達が導き出したらしい公式をひたすら叩き込まれて疲れ切ったツルマらの頭を、教師の
「受験に出てくるのは、超が付くほど古典的な電磁気学だけですが……。二十五世紀を生きる次代の担い手として、現代社会を支える技術体系の基本を知っておくのは何より大事なことです」
教師の言葉を斜め聴きしている中、受験というワードだけがツルマの意識をびくりと反応させ、焦りを募らせる。
三年間の高校生活も折り返し地点を過ぎ、大学受験の準備もいよいよ佳境に入ってきた。この国で男子が豊かに生き延びるには、学業という名のランキング競争で上位に食い込むほかはない。
せめて両親が自分を兄のような天才に生んでおいてくれたら――と、どうにもならない現実を噛み締め、ツルマは心の内で溜息をついた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
補修が終わり、ツルマが級友達とカレッジタワーを出ると、リニア駅の地上出口に繋がる
しばらく人工の晴天が続いていた中京の街にも、明日は久々に雨が降るらしい。
『
音もなく夜空を行く「オータム」の磁力飛行船からは、東海ミリオンのトップアイドルの姿が
国内全ての女性が一度はアイドルを経験するこの国で、当代きっての逸材と言われる全国レベルのスーパースター。光沢のある黒髪をふわりとかき上げて下界を睥睨し、
駅に向かってプロムナードを歩きながら、毎日のように見慣れたその姿をツルマが何となしに見上げていると、級友の一人が呟いた。
「なんだ。今日もクリスか」
「あれ。お前、クリス嫌いだったっけ?」
二人の級友達は、ちょうどツルマを間に挟む形で言葉を投げあっている。
「別に嫌いってことはないけどさ。何て言うか、東海っていつになってもクリス一強で、新鮮味がないよなと思って」
「まあ、それは確かに。……なあツルマ、お前の推しメンのチクサって――」
級友がツルマに向かって言いかけたところで――ちょうど、ツルマの携帯端末がポケットを震わせた。手に取ってみると、そこに表示されているのは、AIが彼のために選んできたらしき最新ニュース。
「おい、あれ」
級友に二の腕をポンと叩かれ、ツルマはハッとなって空を見上げた。そこには、端末のニュースに表示されていた名前の主――彼の幼馴染にして永遠の想い人、チクサの姿が、クリスと並んで映し出されているではないか。
『皆さん、こんばんは。東海ミリオン・チーム13の
「チクサじゃん」
「ツルマ、お前の推しメンだろ? この子」
気付けばツルマは、級友達の声も耳に入らないほど、視覚と聴覚の全てを天上のチクサの存在に釘付けにされていた。
透き通った白い肌、ハーフアップのスタイルで綺麗に編み込まれた黒髪、銀河の輝きを宿す可憐な瞳。絶望の淵から不死鳥の如く夢のステージに舞い戻り、新進気鋭の人気アイドルとして躍進を続ける彼女――。
『なんとわたし、クリスさんと一緒に、イングランドでの音楽イベントに出演させて頂くことになりました』
『ロンドンのロイヤル・ホールで開かれるチャリティーイベントです。皆さん、海外遠征ですよ! Yay!』
少し緊張に声を震わせているチクサと、余裕
瞳をきらきらと輝かせる二人の語りに合わせ、オプトグラフィが天上に描き出すのは、イングランドの首都ロンドンの美しい景観。悠然と流れるテムズ川の向こうには、
『チクサちゃんと二人並んで歌うのは、あの時以来よね』
『ハイ! こんなに早くクリスさんと同じ舞台に立てるなんて、もう夢みたいで』
かつて己の命運を懸けてぶつかり合ったトップアイドルと、友達のように仲良く言葉を交わし合うチクサの姿は、ツルマにとっても嬉しいものだった。芸能アイドル同士は
チクサとクリスは楽しそうに笑い合いながら、ロンドンで開かれるというイベントの要諦をファンに向けて説明している。国境を越えて多くの有名歌手が集まるこのイベントに、二人は芸能立国たる我が国を代表するアイドルとして派遣されることになったらしい。
既にハリウッドやムンバイといった名だたる国際都市でのイベント出演も経験しているクリスと異なり、ツルマが知る限り、チクサが海外のイベントに出るのは初めての筈だった。彼女の一番のファンを自認するツルマとしても、この大抜擢は自分のことのように嬉しかった。級友達が傍にいなければ、飛び上がって喜びを表したいほどだ。
あっという間に告知が終わり、映像の消えた夜空をツルマはまだ見上げていた。雲に覆われて星は見えなくても、そこにはチクサの笑顔がずっと輝いているようで――。
「いいよなあ、女の子は。良い大学を出て良い企業に入らなくても、歌って踊ってるだけで給料がもらえてさ」
「そのかわり、二十四時間監視付きだぜ」
級友達が呑気にそんなことを言うのを鼓膜の片隅に捉えながら、ツルマは端末を握る手にぐっと力を込める。
今週末の握手会で話すべきことは、これで決まった。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
ツルマが数ヶ月ぶりに辿ることを許された握手会会場への道のりは、いつもと同じように、彼と同じ目的地を目指す無数のアイドルファン達でごった返していた。
アイドル
チクサは再び壁の向こうの住人となってしまったが、彼女と会えない期間の寂しさすら、ツルマには戦いの勲章のようで誇らしかった。
「ユウセンケンをお持ちの方はこちらからどうぞ!」
ゲートの前では、男性のスタッフが装置を通じて声を響かせている。あれから何度か握手会に通っているツルマだが、結局この「ユウセンケン」なるものが「優先権」なのか「優先券」なのかは分からずじまいだ。いずれにせよ、ツルマが持っているものはあの時と同じ。優先される権利でも券でもなく、チクサとの思い出が嬉しくて結局毎回「紙」で入手してしまう、ただの握手券が一枚きりである。
「ご所望のメンバー名をどうぞ」
「金山チクサ、です」
「はい、こちらになります」
スタッフは淀みなくツルマを案内してくれた。スタッフが手元の専用端末で調べることなく彼を案内できたのは、チクサの居場所が安泰であることだけではなく、彼女が一般スタッフに名前を覚えられるクラスのアイドルになったことの証左に他ならない。
それを裏付けるように、チクサの握手レーンには、既に多くのファンが長蛇の列をなし、彼女との束の間の逢瀬を待ち望んでいた。
僅か一年で人気投票三ケタ台の常連にまで駆け上がり、かつてとは比べ物にならない頻度で各種のイベントに駆り出されるようになった金山チクサ。先日は準主役を務めるSFドラマが大ヒットし、主演の
長い長い順番待ちの中、ツルマは列に並ぶ無数の同志達を見渡す。下は小学生くらいの親子連れから、上はとっくにリタイア済みであろう男性まで、幅広い客層がチクサの笑顔を求めて集まっていた。中でも熱心でお金のあるファンは、きっと毎週のようにチクサの握手会に通っているのだろう。それに比べて自分は、少ない小遣いを工面して、数ヶ月に一回ここに来られる程度。チクサのアイドル生命を懸けて戦ったあの事件以降、なんとか親の理解は得られるようになったとはいえ、ツルマがチクサと言葉を交わせる時間は、上客と言われるファン達と比べれば数十分の一でしかない。
しかし、それでも――自分とチクサの間には、他のファンにはない特別な絆がある。その確信がツルマの中でブレたことは一度もなかった。チクサの夢のため、今は互いに言葉に出すわけにはいかないが、二人の心は確かに繋がっている。そう信じていられる限り、受験戦争の厳しさも、漠然とした将来への不安も、すべてが彼の中では取るに足らないものと化すのだった。
「チクサちゃん。抜擢おめでとう」
何十分も列に並んだ末、ついに辿り着いたチクサの笑顔は、いつにもまして輝いていた。
「ツルマくん! 嬉しい」
チクサはどんなトップアイドルにも見劣りしない満面の笑みでツルマを迎え、彼が緊張しながら差し出した右手をふわりと温かな両手で包み込んでくれた。「
昨夜の告知を見てチクサのイベント出演を知ったとか、限られた握手時間の中で今さらそんなことを言う必要はない。チクサもまた、心得たもので、「告知を見てくれたのね」なんて分かりきった一言を差し挟んでくることもない。チクサに関して発信される全ての情報をツルマは押さえている――そんなことはとっくに二人の共通認識だ。
「わたし、頑張って歌うから。ツルマくんにも観てほしいな」
二人が交わす束の間の
だから、握手券で解禁される僅かな触れ合いの時間にも、二人はそれぞれの気持ちを胸に秘め、言語を超えた想いを目と目で交わし合うしかない。
「絶対観るよ。現地には行けないけど、VRで絶対観る」
「うん。約束ね。英語の練習、頑張らなきゃ」
ツルマがチクサと交わした言葉はたったそれだけ。何十分も列に並んで、話せるのはたった数秒。それでもツルマは幸せだった。最後の瞬間まで彼から目を離さずに手を振るチクサの笑顔が、心の底から嬉しそうだったから。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
「何だお前、ニヤニヤして」
帰宅して早々、リビングで兄に指を差されても、ツルマには「別に?」とご機嫌に返す余裕があった。自分がどうして楽しそうにしているのかなんて、兄には全てお見通しに違いない。
「兄ちゃん、この日はVR貸してよ」
「ん? なんだ、てっきりロンドンまで行く気なのかと思ったら、ここで観るのかよ」
兄はソファに身を沈め、
現地に行けるものなら行きたいが、チクサが歌うステージは、海と大陸を遥かに隔てたイングランド。飛行機でも五時間はかかる距離だし、数ヶ月かけて握手券一枚がやっとのツルマの小遣いでは旅費が出るはずもない。
「まあ、しっかり応援してやりな、王子様」
兄のキザな一言に生返事を返しながら、ツルマは右手に残る握手の感触を思い返し、喜びを噛み締めていた。チクサと話せたこと以上に、彼女が刻む輝かしい一歩に対して。
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