本編

第1話 あれから【part: PRESENT】

 雨上がりの濡れた街路と、秋風に揺蕩たゆたうテムズ川の流れ。

 歴史を湛えた時計塔ビッグベンの荘厳な鐘の音も、日本人の耳には学校のチャイムを連想させてどこか可笑おかしい。


「ロンドンよ、オレ様は帰ってきた!」


 秋葉原ホームから重い腰を上げ、久々の英国アウェーへやってきたデブオタは、胸にこみ上げる懐かしさをえ声に変えて解き放った。雨雲が去ったばかりの空の下、そびえ立つ時計塔に向かって両手を広げて。

 申し訳程度に引っ掛けた薄手のコートが、凍てつくような向かい風にバタバタと揺れている。

 冬と梅雨が混ざったようなイギリスの秋は観光客泣かせだ。まだ秋の入口だというのに、東京の十二月にも匹敵する寒さ。そして、降っては止み、また降ることを繰り返す気まぐれな雨。”There are four seasons in a day"――「一日の中に四季がある」とはよく言ったものだ。


「……ま、オレ様は慣れてるけどね」


 得意気に鼻を鳴らし、肩をすくめると、デブオタは悠然と歩き出す。

 かつてこの地で彼が見出した、泣き虫のいじめられっ子少女――今や全世界の至宝へと変身を遂げた、あの歌姫に会うために。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「デイブ、来てくれたのね!」


 秋色に染まったハイドパークの並木の下、コートを纏ってベンチに腰掛けていた彼女は、遠くから近付くデブオタの姿を見つけるやいなや、待ちきれないように駆け寄ってきた。

 そっと近寄って驚かせてやろうかとも思っていたのだが……。デブオタは苦笑し、今にも自分の胸に飛び込んできそうだった彼女をそっと両腕で押しとどめる。


「こらこら、はしたないことするもんじゃねえよ。大スターのエメル様」

「どうして? いいでしょ、私とデイブのことは世界中が認めてくれたんだから!」


 つややかな黒髪をふわりと風になびかせ、彼女はイタズラっぽい上目遣いでデブオタの巨体を見上げてくる。

 架橋かばしエメル。究極アルティメットの名を冠して呼ばれ、今や弱冠十七歳にしてイギリス全土の――いや、全世界の拍手喝采をほしいままにする奇跡の歌姫。

 わかっていたことではあったが、一年ぶりに目にするエメルの姿は、デブオタの知る臆病で泣き虫なあの頃の彼女とは何もかもが違っていた。

 少し背が伸びたこと。化粧が上手になったこと。可憐な佇まいに美しさが加わったこと。高級そうな服だってごく自然に着こなし、おまけにSPらしき強面こわもての男性二人を連れ立っていること。

 だが、そのターコイズグリーンの瞳に映る、ひたむきで純粋な光だけは、出会った時から何も変わらない。いや、むしろ――大スターに相応しい瞳の輝きを、はじめから有していたのだと言うべきだろうか。


「でも、ほんとによかった。私、デイブが来てくれないんじゃないかと思って不安だったの」

「お前のところのお偉いさんから、航空券とホテルの手配までしてもらっちまったからなぁ。そこまでされちゃあ、流石のオレ様も来ない訳にはいかねえしよ」


 デブオタは頭の後ろを掻き、照れくささを感じながら笑ったが、途端にエメルはじとっとした目を彼に向けてくる。


「もう、デイブったら。私に会いたくてユーラシア大陸を越えて来たんだぜって、どうして言ってくれないの?」


 どこでそんな仕草を覚えたのか、エメルは天真爛漫なアイドルのように、あかみの差した頬をぷくっと膨らませてみせた。


「すまねえ、すまねえ。でも、まぁ喜んでくれよ。お前の晴れ舞台に立ち会うために、十二時間も飛行機に揺られて来たんだし。ビジネスクラスでチケットを取ってもらえるとは、オレ様も大物になったもんだ。……いや、大手プロダクションのお偉いさんがオレ様以上に太っ腹だったってだけのことか」


 自分の張り出した腹を叩き、ガーハハハ! と笑い飛ばしたつもりだったが――

 エメルが「そんなんじゃごまかされないわよ」と言わんばかりにまだ口を尖らせているのを見て、デブオタは弱ってしまった。

 アイドル育成ゲームを散々やり込み、キャラの好感度ポイント稼ぎならお手のものだった彼といえど、現実の女心に関してはさっぱりなのだ。女の子と付き合った経験などただの一度もなく、こんな時に気の利いた言葉など出てくるはずもない。

 デブオタの脳裏に去来するのは、エメルと晴れ舞台での再会を果たした直後、彼女の仲間のアイドル達に詰め寄られ、半ば脅しに負けるような形で彼女との将来を誓わされた時の光景。――そう、会場を埋め尽くす満員のファンの前で、デブオタはエメルとのを約束させられたのだ。

 羨望と祝福の入り混じった無数の視線を身に浴びながら、デブオタはひたすら当惑したものだ。教養も技能も資格も、それどころか人並みの容姿すら持ち合わせない底辺アイドルオタクの自分が、どうして世紀の歌姫と釣り合うというのだろう。

 こうして彼女と再会してみると、改めてその思いは強まる。彼女が自分を愛していると言ってくれるのは嬉しいが――自分のような醜いオタクが傍にいて、果たして彼女は幸せになれるものだろうか。


「……エメル、お前はすげえよ」


 遠巻きに見守るSPの男性達にちらりと目をやり、大丈夫かな、と思いながら、デブオタはエメルの頭をそっと手で撫でてやる。歌姫を目指し、公園のトイレの傍でレッスンに励んでいたあの時と同じように。

 これまで拗ねていたエメルは、ぱあっと顔を輝かせてから、頬を赤らめてそっと俯いた。


「いや、すげえ奴になった。今回みたいなでっかいチャリティーイベントにも呼ばれるようになってよ。いや、たいしたもんだ」

「ううん、それもこれもデイブの力よ。“人の痛みや悲しみを歌で抱きしめる優しい歌姫になってくれ”――あの日のデイブの言葉に導かれて、私はここまで来たんだもの」


 ふふっ、と笑って、エメルは小さな手でデブオタの袖を引き、黄色い並木の下を歩き始める。SP達は二人に気を遣ったのか、かなり離れて後ろを付いてきてくれていた。

 ぽつりと雨が降り始めたので、デブオタはリュックから折り畳み傘を二つ取り出した。そして片方をエメルに渡す。雨の多いイギリスを訪れるにあたり、彼は万全の準備をしてきたのだ。


Lovelyありがとう


 エメルは嬉しそうに傘を受け取り、ワンプッシュでそれを開くと、掲げた傘をクルクルと回している。欧米人にはほとんど馴染みがないという折り畳み傘だが、日本育ちのエメルには懐かしいアイテムらしい。


「……そういえばデイブ、知ってる? イギリスで最近、テロが激しくなってるって」


 傘を並べ、秋雨のハイドパークを二人一緒に歩きながら、エメルはふと憂いを帯びた顔で問いかけてきた。


「おお。オレ様も日本で何度かニュースを見たけどよ、イギリスもえらく物騒になっちまったもんだな」

「うん……。今のイギリス、デイブがいた頃とは何だか変わっちゃったわ」


 デブオタが頷くと、エメルは小さく溜息をついた。


「人も社会も元気がないの。皆がずっと暗い顔をして俯いてる感じがするわ。出口が見つからなくて暗闇の中に囚われている……何だかそんな気がするの」


 エメルの口からそんな深刻な感想がこぼれたことにハッとさせられながらも、デブオタもその言葉には納得せざるを得なかった。

 政治や世界情勢に疎い彼とて、最近のイギリスに関して明るいニュースがあまり聞こえてこないことには気付いていた。EU離脱ブレグジット、腐敗政治、強いリーダーの不在……。人々の心が不安に囚われているというのもわかる話だった。もっとも、それは日本も大差ないのかもしれないが――。


「でも、そんな今だからこそ、私の歌で皆に少しでも笑顔になってもらえたらなって。そう思って、今回のコンサートのオファーも受けることにしたの」


 迫りくる嵐を前に、無力な人間が祈りを捧げて希望を求めるように――。小さな歌姫は、ささやかな決意を恥ずかしげに、しかし楽しそうに語るのだった。


「おお。オレ様からは今のお前に教えられることはもう何もねえが……頑張れよ、エメル」


 デブオタが優しく励ましてやると、エメルは傘の下から嬉しそうな笑みを向けてくる。

 そこには、自信を持てないまま幾度となく彼に叱られ、脅され、励まされ、そして背中を押されたあの小さな少女はもういなかった。そこにいるのは、彼が授けた心の灯を一途に信じて歌う、美しい歌姫だった。

 と、そのとき――。


「ちょっと、そこの日本人ジャパニーズ! 何やってるのよ、エメルに傘なんか持たせて」


 小さな肩をいからせ、前方から傘も差さずにやって来たのは、幅広の鳥打帽キャスケットをかぶり、ロングスカートの裾を翻した一人の少女だった。

 年の頃ならエメルと同じくらい。輝くような金色ブロンドの長髪に、サファイアを思わせる青い瞳。矢継ぎ早に繰り出されるコテコテのクイーンズ・イングリッシュ。どこかで見覚えがあるような、ないような――。


「……ええと、誰だっけ? お前」


 デブオタが彼女を見下ろして言った途端、彼女はがくっとよろめいたが、次の瞬間には姿勢を立て直し、人差し指を彼の鼻の前に突きつけてきた。


「リアンゼルよ! リアンゼル・コールフィールド! いい加減名前くらい覚えなさいよ! これでもエメルと同じ、究極アルティメットの名で呼ばれる歌姫なのよ」

「ああ、お前か! 懐かしいなぁ」


 デブオタが彼女の罵倒にさらなる罵倒で応えなかったことで気が抜けたのか、彼女――リアンゼルは情けない顔になってがっくりと項垂うなだれる。デブオタの隣でエメルがくすりと吹き出していたが、彼はむしろリアンゼルの罵倒のおかげで記憶が繋がって嬉しくなった。

 彼がエメルをスター歌手に育て上げると誓う切っ掛けを作ったのは、他ならぬこのリアンゼルだった。それから彼女とは色々あったものだが、今となっては全てが懐かしい。


「最後に見たのは……確かテレビ電話の画面越しだったよな」

「え、ええ……」

「あの時のことならもういいんだ。エメルとも仲直りしたんだろ? 気にすんなよ」

「え、あ、うん……」


 なんだかバツが悪そうに身を縮まらせるリアンゼルを見て、デブオタはにやりと笑った。――やれやれ、自分はもうとっくにコイツを許しているというのに、コイツはやっぱりまだ過去のことを気にしているのか。


「で、傘が何だって?」


 彼が尋ねると、リアンゼルはそれでやっと調子を取り戻したかのように彼を見上げ、叱りつけるかのような口調で言ってきた。


「レディに傘を持たせるなんて、紳士の国じゃご法度よ」

「そ、そうか」

「……それに、あなたはエメルの恋人なんですもの。彼女にさしかかる雨はあなたが庇ってあげないと」

「お、おう」


 ごうっては何とやら、というやつか――。

 相合傘をするには小さな折り畳み傘だが、デブオタは自分の傘をそっとエメルの頭上に差しかけてやる。


「……それにしても、何て言うか不便だよな、傘ってのも」


 デブオタがエメルを雨から守りながら言うと、リアンゼルは「え?」と眉をひそめた。


「だってよ、人類の文明は物凄い勢いで進歩してるっていうのに、傘は何百年経っても傘のままだもんな。VRのゲームとか、囲碁の強い人工知能とかもいいけどよ、人間が雨に濡れない方法ってのは考えられねえもんなのかね」

「……そんなことより、あなたはちゃんとエメルを守ってあげて」


 リアンゼルはデブオタの雑談をその一言で遮ると、エメルに向き直って言った。


「そうだ、言い忘れていたわ。エメル、明日のリハーサルはよろしく頼むわね」

「ええ」


 エメルが頷くと、リアンゼルは「それじゃ」ときびすを返し、足早に去っていった。これ以上二人の邪魔をしては悪いと思ってくれたのだろうか。


「……あいつ、いい奴になったんだな」


 デブオタがエメルとの相合傘を支えたまま、ぼんやりとリアンゼルの背中を見送っていると、横からくいくいとエメルが袖を引いてくる。


「デイブ」

「おう、オレ達も行くか」

「違うの……見て」


 エメルの囁きに促されて周囲を見渡すと、降り出した雨に散らされたのか、周囲に人影はなくなっていた。SPの二人も、煙るような雨の向こうにいるのか、その姿は見えない。


「……」


 デブオタがおずおずと視線を下ろした先には、じっと彼を見つめるエメルの瞳があった。

 ターコイズグリーンの瞳がかすかに潤みを帯び、まるで宝石のように美しく輝いている。

 静かな雨の中、デブオタが躊躇いながらも彼女の小さな身体を抱き寄せると、エメルは爪先立ちになって唇を重ねてきた――。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 プロダクション借り上げの高層住宅アパートメントまでエメルを送り届けた後、デブオタは自分にあてがわれた高級ホテルのベッドにだらしなく背中をうずめ、テレビのニュースを流し見していた。

 中東のイギリス派遣軍からまた死傷者が出たというニュース、一向に改善されない失業率へ怒りの声を上げる市民デモの模様、イギリスを代表するスター選手が自転車競技で負傷したというニュース……。暗い話題が続いていたところで、暗鬱な雰囲気を吹き飛ばすように流れるのは、二日後のチャリティーコンサートの告知だった。

 イギリスの音楽シーンを代表する歌手やバンドが顔を揃える中、人々の期待を最も集めているのは、「究極アルティメット」の名を冠したエメルとリアンゼルの夢の共演らしい。「伝説となったあのブリティッシュ・アルティメットシンガー・オーディションの興奮を再び」なんて煽り文句も格好良く決まっている。


「……本当に、立派になっちまったなぁ」


 そんな独り言を呟いたところで、日本から持ってきたスマホがエメルの歌のメロディーを奏で始めた。

 万国共通の通話アプリを使って電話を掛けてきたのは、デブオタも既に何度か言葉を交わした相手。エメルが所属するリバティーヴェル・レコードの重役、エドワード・ホロックス氏であった。


「こんばんは、ミスター・デイブ。君がエメルの晴れ舞台に駆け付けてくれて本当に嬉しいよ」

「そ、そりゃどうも。でも何だか申し訳ねえな。オレ様にこんなホテルやら飛行機やら用意してくれて。……いや、正直なところ、豪華すぎて何だか居心地悪くってなぁ」

「そういう訳には行かないさ。我が英国の誇りたるエメル・カバシの恩人を二流以下のホテルでもてなしたとあっては、女王陛下の御名に泥を塗ってしまう」


 やっぱりそう来たか、とデブオタは胸の内でそっと溜息をついた。ホロックスとて決して悪い人物ではないのだが、ガチガチの英国人ジョンブルと話をするのはどうにも疲れてしまう。

 同時に――ホロックスと言葉を交わすたび、デブオタは、紳士の中の紳士というべき彼と、日本のしがないオタクである自分との差に打ちのめされそうにもなる。本来、エメルを導くのは、彼のような立派な人物であるべきなのだ――とデブオタは強く思っていた。


「ところで、考えてくれたかな。例の話は」

「……ありがたいと思うが、前にも言ったじゃねえか。謙遜じゃなくてさ、オレ様にそんな才能はねえから無理だって」

「才能の問題ではないさ」


 エメルへのサプライズ・プレゼントとして、彼女の新曲の作詞を君に頼みたい――。

 今回、イギリスに招待されるにあたり、デブオタはホロックスからそんな依頼を受けていた。航空券とホテルの手配までしてもらった手前、無下に断るのも悪いが、さりとて自分にそんな仕事が務まるものか、というのがデブオタの偽らざる気持ちだった。


「……うーむ、どうしたもんかなぁ」


 ホロックスとの通話の後、スマホをベッドの上に放り出したデブオタは、再びテレビが暗い世相を伝えているのを意識の片隅に捉えながら、ぼんやりと独りごちるのだった。

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