4-9 和解条項
「――以上、原告の証言及び各証拠と照らし合わせれば、被告が労働基準法第39条に定める年次有給休暇の付与義務を怠っていたことは明らかである。よって、原告は、訴状の通り、本件内容証明の発信日から
朗々たる声で白河が述べると、その隣で三太郎がよよよと泣き崩れた。
荒唐無稽なこの裁判も遂にクライマックス。「第一回」口頭弁論とはいうが、裁判官は今日この場で結論まで出してしまうつもりでいるらしい。少額訴訟でもない民事で即日結審というのは珍しいが、菜穂が見ていた限りでも、これ以上何も審理すべき内容がないのは明らかであるように思えた。
「では、被告側……」
裁判官に目を向けられ、被告席の水神が相変わらず腕組みの姿勢でフンとふんぞり返る。
「原告の要求を飲んで和解するつもりはありますか? 和解しないとなると、判決の形で終わらせることになりますが……」
あ、この言い方はアレだ、と菜穂は思い至った。判決を書くのが面倒臭いやつだ。
民事訴訟の終わり方には判決と和解の二種類がある。シンプルに言うなら、裁判所の判断できっちり勝敗を付けてしまうのが判決、互いに譲り合って事態を終結させるのが和解だ。和解は双方当事者にもメリットが多いが、裁判官としても、面倒臭い判決文の起案から逃げられるので積極的に和解を勧めてくる場合が少なくないという。
「和解らと?」
水神は露骨に眉をひそめた。がっつり敵対するつもりでいる当事者は、和解という単語のイメージに拒否反応を示すこともあると聞く。
(……判決まで行ったら、100パー、この
そのくらいのことは菜穂にも予見できた。もし相手側にも弁護士がついていれば、相手の方こそ和解で終わらせたいところだろう。和解はあくまで双方が譲り合うという建前なので、全面敗訴に比べるとマシな負け方で終われることが多いためである。
「裁判官」
そこで白河が小さく手を上げた。裁判官に「どうぞ」と促され、彼は傍聴席の皆の注目の中で述べた。
「原告は和解による終結を望むものであります。原告は今後も被告会社で引き続き就労することを望んでいますので、穏便に終わらせることができるならそれが一番かと」
「……そうですよねえ」
裁判官の頷きを目にしながら、菜穂はふと、相手を叩きのめすだけが弁護士の仕事ではないという白河の言葉を思い返す。これまでに教わった弁護士も皆そう言っていた。会社を退職してしまって二度と関わることがないのならともかく、今後もそこで働き続けるのなら、和解という形で終わらせた方が依頼者のためになるのだ。
「被告、いかがですか。どうしてもと言うことなら判決にしますが、裁判所としても、和解の方が互いにとって良いのではないかと思いますが」
「むぅ……」
水神は低い声で唸り、上向きの口髭を指でいじりながら、言葉を絞り出した。
「和解と言うからには、従業員の側も譲歩するんだろうな。実際問題、好き勝手に休まれたら工事は成り立たんさ」
「それはですね、原告代理人も先程触れていましたが、会社の側には時季変更権というものがありますので。従業員から有給の申請があって、どうしてもその日休んでもらっては困るという事情があれば、有給を別の日にしてくれと言うことはできるんですよ。あとは、計画年休というのもありますしね」
「……だけど、結局、年に十何日もの休みを与えんとならんことは変わらんのらろ!?」
「まあ、それはそういうものですからね」
水神と裁判官のやりとりをしばし黙って見ていた白河が、沈黙の隙を突くように再び口を開く。
「人間の経営者は皆そうしているのだ。法の定めを逃れんとする不届き者も多いのは確かだがな」
向かいの水神の目をまっすぐに睨みつけ、白ずくめの弁護士は続けた。
「貴兄の経営方針を三太郎氏が『人間かぶれ』と称したことがあった。貴兄は事業を継ぐやいなや、先代と打って変わり、人間界の会社のように利益の追求に走り始めたそうだな」
「そ、それのどこが悪いんさ? 会社が儲けを大きくしようとするのは当たり前のことらろ?」
「利益の追求自体は結構だ。法を守っている限りはな。貴兄が人間に憧れているのか、それとも敵対心を持っているのか、そんなことは俺の知ったことではないが……平然と法を破るブラック経営者など、人間界でも犬畜生にも劣る存在だ。そんなものを真似たところで、人間に追いついたことにも勝ったことにもならんぞ」
「ぐぬ……」
水神はもはやぐうの音も出ない様子だった。そこで視線の険しさをやや緩め、白河はさらに言葉を続ける。
「だが、貴兄にとって幸運なのは、先祖代々の絆で結ばれた誇るべき従業員達がいることだ。仮にも川の神であろう貴兄が、川の住人達を大事にしてやらないでどうする。事情はどうあれ、三太郎氏をはじめとする従業員達は、今後も御社で働きたいと言っているのだ。彼らを思いやり、良好な労使関係を築くことこそが、貴兄の務めではないのか」
「……むう」
水神が腕を組んでじっと唸る。その視線が、白河から、隣に立つ三太郎へと向けられたように見えた。
すかさず白河が三太郎に問いかける。
「三太郎君、どうかね。君は雇い主に何を約束してやれる?」
「……俺っちは、社長が俺っち
涙をパーカーの袖で拭い、ゲロゲロと鳴いて、三太郎は言った。
「工事が止まって皆が困るような休み方をしたいわけじゃないんっす。会社に迷惑にならない形で、権利を使わせてもらえればそれでいいんっすよ。……それが、俺っちやゴロちゃんや、イッちゃんの願いなんっす」
目を潤ませて語るカッパの声は、決して雇い主の水神を責めている印象ではなかった。正しいことを正しいと認めてもらえればそれでいい――それがこの青年の本心であるように、菜穂には思えた。
原告から言葉を引き継いで、代理人たる白河が被告に向かって述べる。
「そういうことだ。何が得かよく考えたまえ。地域のカッパの労働力など、代わりがあるようなものでもなかろう。従業員への締め付けを続けて、
水神は忙しなく口髭をいじり、ぐむむと唸っていたが、その口からはついに反論の言葉は出てこなかった。
感情論よりも損得勘定で諭した方が上手くいくこともある――それもまた、あらゆる弁護士が決まって言うことである。
「まあ、会社に迷惑をかけんと言うなら、なんとか、お前らに休みをやれる工夫を考えてやらんでもないが……」
相変わらず尊大でムカつく言い方だったが、この水神は水神で、ここまでの流れから悟ったのだろう。和解を突っぱねて判決に進んでも敗訴の道しかないことを。彼にとって不本意であっても、もはやカッパ達の有給取得を認めざるを得ないことを。
「……和解してくれるんなら、社長にお願いがあるっす」
三太郎は、ぎょろりとした目でまっすぐ水神を見て言った。
「イッちゃんに……一平太のヤツに謝ってやって下さいっす。俺っちの請求のキュウリを、アイツの墓に備えてやって……」
彼の言葉に菜穂はハッと目を見張った。傍聴席のカッパ達も、五郎丸を筆頭に息を呑んだ。
三太郎が白河を頼ってこの訴訟を起こした理由。それは、自分のためではなく、亡き友人のために……。
「……和解であれば、そういう条件を入れることもできますね」
裁判官が真面目な顔で言った。判決になく和解にあるメリットの一つ、それは、「謝罪」のような形のないものを和解調書に含められることだった。
叩き潰すのではなく性根を叩き直す。白河が言っていた勝利のビジョンが、今こそ目前に迫ってきたのである。
「……有給を与えれば今より熱心に働くってのは、ウソではないんらな?」
「ウソじゃないっす。俺っち
「……ふん。若造が生意気なことを」
今まで顔をしかめていた水神が、ようやく表情を少し緩めたように見えた。
「ええらろ。そっちの言う条件で和解してやるろ」
それが損得感情だけに基づく言葉なのか、それとも多少なりとも心情的なものがあったのか、菜穂にはついぞわからなかったが――
混沌を極めたあやかし裁判は、我らがホワイトウルフの活躍の甲斐あり、こうして無事に終結へと至ったのだった。
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