4-8 紛糾、あやかし法廷

「それでは開廷します」


 関係者一同が起立、礼をする中、四角い顔の裁判官が宣言する。

 相手方の回答書面が届いてから二週間余り。新潟地裁の小さな法廷にて、三太郎氏の事件の第一回口頭弁論がいよいよ開始された。ここに至るまでには、訴状の提出や期日の決定、原告の三太郎との打ち合わせといった諸々のやりとりがあったのだが、白河の言った通り、仮にこの件がドラマになるならざっくり描写をカットされるような部分である。


(ドラマとかだったら、まるでその日の内に裁判が始まったみたいな描写になるもんなぁ)


 この日を迎えるまでの苦労なんて多くの人は知らないんだろうな……なんて思いながら、菜穂は傍聴席の最前列に腰掛け、膝の上に広げたノートにさらさらと状況を書きつけていった。

 前方にはもちろん裁判官と書記官。被告側の席には、カイゼルひげというのだろうか、大きく上に反り上がった口髭の目立つ水神が、人間の中年男性の姿をとり、藍色の和装を着てふんぞり返っている。原告側の席には白河と三太郎が陣取っていた。

 そして、傍聴席には、学ランとゴーグルの五郎丸をはじめ、居酒屋に集まっていたカッパの若者達がずらりと揃って腰を下ろし、ケロケロと小さく鳴きながら興味深そうに裁判を見守っていた。


「原告は訴状のとおり陳述ちんじゅつしますか?」

「はい」


 裁判官が発した僅か四秒ほどの問いに、白河がコンマ数秒の答えを返す。お決まりの光景である。第一回口頭弁論で原告側弁護士がする仕事はこれで終わりだ。……普通なら。


「では、被告は――」

「ま、待て、何らって?」


 裁判官が被告席に目を向けるやいなや、ふんぞり返っていた水神は、意表を突かれたとばかりに身を乗り出して声を上げた。


「何ら、今のは? そっちの弁護士は何も言ってないじゃねっかや」

「あー……」


 裁判官は困ったように首を傾げた。


「被告、訴状の内容は見ていますか?」

「ふん、この書類のことか? 何やら人間の勝手な理屈が書いてあるのは見たけろも、こっちにはこっちの言い分があるんさ」


 裁判所から事前に送られた訴状の写しらしきものをバシバシと机に叩き付け、水神は太い指をびしりと白河達に向けて言う。


「法律だの有給だのと、若造が勝手なことばっか言いおって。今日はしっかり言い返させてもらうっけな!」

「えー……とですね……」


 しばらくこめかみを押さえるような仕草を見せてから、裁判官は言った。


「被告は、その『言い返す』内容を、事前に答弁書にまとめて提出して頂かなければならなかったんですが……。提出はされていませんね」

「何らと? 何ら、その答弁書というのは」

「……わかりました、結構です」


 何か吹っ切れたような顔で、裁判官は法廷全体を手早く見渡して宣言する。


「原告側には不本意でしょうが、妖怪関連の裁判は特殊事案なので……。ここはひとつ、漫画みたいに口頭で陳述してもらいましょう。どうせ漫画みたいな裁判ですからね」


 なるほど、この街の裁判官も大変だな、と菜穂は思った。




 民事裁判の弁論というのは本来、びっくりするほど淡白で単調なものである。双方の弁護士が朗々と主張を読み上げて舌戦ぜっせんを交わしたり、「異議あり!」と声を張り上げたり、まして裁判官がハンマーで机上の皿をダンダン叩いたりするのは、ドラマや漫画の中だけの話だ。

 弁護士を志して、初めて民事の法廷を傍聴した時には、菜穂も想像上の「裁判」のイメージと現実とのそのギャップに肝を潰したものだったが……。


「だっけ、ひとたび工事が始まれば手を止められんことも多いのが我々の仕事なんさ。従業員にホイホイと休まれてたまるか!」

「そういう場合は時季じき変更権を行使するしかあるまいな。しかし、有給取得そのものを認めないのは労基法違反だと言っているのだ」

「そんなもの守ってたら経営は成り立たんろ!」

「労働法というのは事業者が守るべき最低基準だ。それを守ったら経営が破綻するというなら、それは貴兄に経営の才覚が無いということであろう」

「何らと!? 若造が偉そうな口を叩きおって!」


 ばん、と被告席の机を叩いて水神がえる。傍聴席から見守る菜穂にも到底信じられないが、厳粛なる法廷で今まさに繰り広げられている会話がこれである。あやかし特区以外の裁判所では絶対に見られない光景かもしれない。


「あー……。被告は少し落ち着いてください」


 何故か持っていたハンマーでダンダンと音を立て、裁判官が言った。……さては、あのハンマー、実はやってみたかったのか?


「被告、いいですか。原告代理人の言う通り、労働基準法というのは全ての事業者が経営の前提としなければならない基本なんです。せめてそれに沿った主張をしてもらわなければ、裁判所の心証は悪くなりますよ」

「裁判所の心証? 何ら、それは。あんたがどう思うかってことか?」

「んー、まあ、そうですが」

「人間が人間側の肩を持つのは当たり前じゃねっか。いいんか、こんな不公平な裁判で」

「……いや、原告はあくまでカッパの三太郎さんであって、白河弁護士は代理人に過ぎないので、人間の肩を持つも何もないんですがね」


 はぁっと溜息をいて、裁判官は続けた。


「いいですか、事実を確認しますよ。阿賀野市があやかし特区に認定されたのが平成25年のことですが、被告はそれから現在に至るまで、原告をはじめ全ての従業員に有給休暇を与えておらず、特別措置としての換価支給も行っていない。そういうことでよろしいですね?」

「ふん。馬鹿馬鹿しい。なぜ働きもせん日に代わりのキュウリなど与えんとならんのんさ。しかもそれを二年前の分までさかのぼって寄越せなんか、図々しいにも程があるろ」


 ふんぞり返って述べる水神の言葉に、原告席の三太郎のみならず、五郎丸をはじめとする傍聴席のカッパ達もぐぬぬと拳を握っているのがわかった。


(何よ、あの態度。よくあんなんで神なんて名乗ってるものだわ……)


 水神の発言内容をノートに書き留めながら、菜穂も憤りに手を震わせていた。ここまで物分かりの悪い経営者など、確かに人間界でもなかなかいるものではない。

 人間の経営者ならまだ少しは法律に慣れているので、形だけでも従業員が有給消化しているように見せかけたり色々と汚い手を講じてくるものだが、そこは流石に人間界の法律に馴染みのない水神ということなのだろう。あやかし条例を真っ向から無視して、人間のルールは守らないと言い切っているのだ。

 しかし、そんな主張が裁判所で通じるわけもなく。


「あなたが納得できなくても、法律で決まっていることには従ってもらわないといかんのです」


 ほとんど呆れ顔で、裁判官は水神に向かってそう言うのだった。


「あなたの会社は今や労働基準法のもとにあるわけですから、従業員には法定の有給休暇を与えなければなりません。阿賀野市のあやかし条例では、過去二年分の有給を現に休暇として取得させることが業務上困難な場合は、労使間ろうしかんの協議により、給与に換価して支給しても構わないとあります。そのどちらかをあなたの会社は行う義務があるわけです」


 裁判官の説明を聞きながら、これはもはや裁判というよりお説教に近いなと菜穂は思った。このまま判決まで行けば、原告の完全勝訴となることは間違いないだろう。


(ふぅん……有給の買い取りが移行措置として特別に認められてるわけね……)


 今の裁判官の話を聞いて、白河が今回の訴訟物そしょうぶつを過去二年の有給相当分のの支給としていた理由をようやく菜穂も理解できた。

 菜穂がこれまで学んだ限りでは、いわゆる有給の買い取りというのは、法定の日数を超えて有給が付与されている場合や、従業員が退職してしまって有給消化の可能性がない場合など、限られた状況においてしか認められなかったはずだ。しかし、あやかし特区の条例は、人間界の労働法を妖怪に適用するにあたり、現実的に可能なラインでの特別措置を設けているらしい。いきなり過去二年分もの有給休暇を与えるのが現実的に無理なら、互いの合意の上でそれを給与に換えて支給しても構わないというわけだ。


「義務、義務って……あんたら、寄ってたかってワシの会社を潰すつもりなんか!」

「ほう。たかがこれだけのキュウリをカッパ達に支給したら御社は潰れるのかね?」


 しばらく裁判官に任せきりだった白河が、そこで思い出したように口を開いた。その眼光がぎらりと鋭く水神を睨みつけている。


「……いや、その程度で直ちに潰れはせんけろも、そういうことじゃないらろ。法律だの権利だの義務だの、これからも好き勝手に言われ続けたらたまらんって意味さ」

「好き勝手に言いなど誰もせんさ。三太郎氏は法に定められた権利をただ適切に行使せんとしているだけに過ぎない。……亡くなった一平太氏とやらもな」


 彼が一平太の名前を出した瞬間、ゲロ、と大きく鳴いて、原告席の三太郎が目元を手で覆った。


「裁判官。宜しいですかな」

「どうぞ」

「ここまでの発言から明らかなように、被告の法遵守じゅんしゅ意識の欠如たるや、はなはだしいものがあります。この上、被告側から有効な反駁はんばくは出てこないように思慮致しますが」

「……そのようですな」


 白河の言葉に、裁判官は深く頷く。


「では、さっさと結審けっしんしてしまいましょうか。……本当に漫画みたいな裁判でしたな」

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