4-7 ホワイトウルフ、始動
「
とっぷりと日が暮れた川辺に立ち、人間の姿に化けた三太郎が言った。同じく人間に化け、頭の皿を古びた学生帽で隠した五郎丸も、その隣で寂しそうな顔をしている。
クーペのボンネットに腰掛けた白河が「ふむ」と相槌を打つ。菜穂はカッパ二人と弁護士の間に立ち、シリアスな空気を感じ取って唇を結んでいた。
「この阿賀野があやかし特区になって、人間界の労働法が俺っち
「この国では、人間の労働者すらも未だ自由を得ているとは言い難いがな」
白河の皮肉な突っ込みに、カッパ達は苦笑した。
「それで、一平太氏は、独力で社長に戦いを挑んで犠牲になったわけかね」
「……そうっす。アイツ、人間様の本やドラマに出てくる、有給ってやつに憧れてたんっすよ。俺っち
その気持ちは菜穂にもわからないでもなかった。菜穂が元々勤めていた会社でも、有給など取れても病気の時くらいが関の山だった。
法律上は全ての労働者に認められているはずの有給取得の権利だが、現実には、有給をいつでも好きに取得できる土壌があるというだけで超絶ホワイト扱いされてしまうのがこの国の実情なのだ。
「アイツ、社長に直談判したんっす。あやかし特区になって、人間様の法律が適用されるようになったんらから、これからは自分達にも有給を取らせてくれって。……そしたら、生意気だって言われて、俺っち
よよよ、と三太郎も五郎丸も泣きだした。
「それは労災ではないか。この町の労基署は何をしている」
「一応、一平太の家族には、会社から形ばかりの見舞が出たんっすよ。でも、それだけっす。社長は謝りもしないし、それどころか、『お前らもアイツみたいにならんように気をつけろよ』って、皆に脅しを……」
涙に詰まる三太郎の言葉に、菜穂もいたたまれない気持ちになっていると、ふいに横でだんっと乱暴な音がした。見れば、白河がボンネットに腰掛けたまま、車体に拳を押し付けていた。
「断じて許せん」
彼の声は怒りに震えていた。夜闇の中、町の灯りと月光に照らされて、彼の横顔がきらりと鋭く輝く。その背後に立ち上る熱い炎のような怒りのオーラを、菜穂は確かに見たような気がした。
「三太郎君、君が俺を頼ってくれたことは俺にとっても僥倖だった。そのような卑劣な輩は、この俺が
ひらりとボンネットの上から降り立ち、弁護士ホワイトウルフは言った。
「君はその社長を『人間かぶれ』と言ったな。その認識は改めたまえ。確かに、人間の経営者にも、法を破って汚く利益を追求しようとする者は居る。だが、そういう輩は人間ではあっても人間とは呼ばん。
彼の言葉に、若き妖怪達は号泣した。
「……でも、センセ、許せないっつっても、会社を潰しちまったら困るっすよ。俺っち
「わかっているとも。安心したまえ。何も、違法企業を文字通り叩き潰すだけが弁護士の仕事ではない。叩き直してやろうではないか、その社長の性根をな。それこそが俺にとっての勝利なのだ」
着手金はゼロ、成功報酬は獲得金額(キュウリ)の三割。普通の法律事務所では聞いたこともないような破格の条件の契約書を手短に取り交わし、白河はカッパ達に勝利を約して彼らの町を後にする。金属屋根を開けたクーペの助手席で夜風に吹かれ、菜穂は、この弁護士の全身に満ちる本気の戦意をひしひしと感じていた。
凄い人のところに研修に来てしまった――と、駅で会った時とは違う意味で身体が震えていた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
それからの白河弁護士の動きは素早かった。夜の内に内容証明郵便の
「兵は拙速を尊ぶ――ではないが、こうした争いにおいてスピードは命だ。ヒマワリ君も覚えておきたまえ」
白河はこともなげに言い、この件については当面意識する必要はないとばかりに、他の案件の書面対応を凄まじい速度でこなし始めた。
弁護士というものは、一つの事件ばかりに掛かりきりになっているわけにはいかない。ドラマの弁護士モノなどでは、ある事件を受任したら解決までずっとその事件の対応ばかりしているように描写されることも少なくないが、実際の弁護士はいくつもの事件を並行して処理している。菜穂が見た限り、このホワイトウルフ法律事務所は、規模に比してかなりの件数の事件を抱え込んでいるようだった。
それはきっと、この白河弁護士の人柄に由来しているのだろうということは、菜穂も昨日の一件で理解していた。
そして、そんな忙しさの中でも、白河はしっかり修習生の菜穂の面倒を見てくれた。
法律相談への同席や、弁論期日の傍聴、そして書面起案の添削。もちろん普通の人間の事件もあるが、白河が菜穂に回してくる勉強のネタはそのほとんどが妖怪絡みの事件だった。京都でのプログラムに参加できなかった残念さなど、とっくに頭の片隅に消え、菜穂は毎晩ビジネスホテルに戻ってからもその勉強に没頭した。
そうこうしている内に、はや一週間が過ぎ――
ようやく、カッパ達の雇い主である水神から、先日の内容証明への返事が来た。
その内容は単純明快だった。とどのつまり、ゼロ回答である。
「ふん。ヒマワリ君、見てみたまえ」
事務所に届いたその書面を白河から無造作に手渡され、菜穂は中身に目を通してみた。内容証明郵便を出す習慣がないのか、知らないのか、とにかく普通の速達郵便で送られてきている。封筒の宛名も本文も、黒い墨で書かれた直筆だった。末尾には「水神 水上竜一」の署名とともに、ご丁寧に複雑な印影の実印めいたものがでかでかと押されていた。
「ええと……。従業員のカッパ達には既に十分な休みを与えているので、人間の規則に従って追加の休みなど与えることはできない、とか書いてありますね」
「面白かろう。法定の有給休暇を付与していないことを書面で自白しているわけだ。これだから本人作成の書面は読み応えがある」
白河が眼鏡をきらりと光らせ、皮肉たっぷりに言う。こうしたトンチンカンな書面が送られてくるのは、菜穂がメインの修習先の事務所でも見たことのあるシチュエーションだった。
無駄に達筆で読みづらい墨の字をなんとか解読しながら、菜穂は続きを追う。
「……カッパ達に与えているキュウリは、あくまでその日の作業に必要な食事であって、人間にとっての給与と同じ性質のものではないから、休んだ日の分までキュウリを与える必要はない。したがって、当社としては、従業員を余分に休ませることも、余分にキュウリを与えることもできない。人間と我々は同じではないと理解されたし……ですって。なんかムカつきますね、この書き方」
菜穂が正直な感想を述べつつ書面を返すと、白河は受け取ったそれを片手で叩いてフンと笑った。
「愚かな。あやかし条例というものが制定された意味も、人間界の労働法を準用することになったという意味も、まるで理解しておらんのだろうな。こうまで司法に真っ向から反抗する書面というのは、人間界でもそうそうお目に掛かれるものではない」
「……それで、どうするんですか?」
「どうもこうもない。相手方から回答が届き、交渉は決裂したのだ。直ちに提訴するしかあるまい。この経営者が法廷でどんな顔をするか、見ものだな」
仮に弁護士もののドラマなら次は開廷のシーンまでジャンプだろうな、と彼が冗談めかして付け加えた言葉に、そうですね、と菜穂も答えた。
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