3-4 妖狐少女の涙
事が起こったのは、雪乃らの課に片瀬警部補がやって来て二日目。前日とは打って変わっての慌ただしい昼下がり、雪乃がようやく前の事件の現場対応を終えて、片瀬と二人で署に戻ってきた直後だった。
「
大部屋に戻るなり、西尾係長の野太い声。すぐそこに被害者が来ているのなら「今戻ってきたばかりですよ」なんて文句を口にするわけにもいかず、雪乃は手洗いうがいだけ手早く済ませて、取るものも取り敢えず相談室の扉をノックする。
椅子に腰掛けもせずに雪乃達を待っていたのは、二十歳前後とみえる細身で色白の女子だった。セミロングの黒髪は手入れが雑で、白いワンピースもシワだらけになっている。
生活安全課の乙川です――と名乗るのを最後まで聞きもせず、彼女は切れ長の目から涙を散らし、だっと雪乃に迫ってきた。
「お姉ちゃんを……お姉ちゃんを助けてください!」
何事か、と思わずこちらが身構えるほどの鬼気迫る勢い。後ろの片瀬もびくっとしたような気がする。雪乃はひとまず「落ち着いて」と少女をなだめ、「座って、お話聞かせて」と椅子を手で示した。
この子自身ではなく、お姉ちゃんとやらが被害に巻き込まれているのか。DVか、ストーカーか、淫行か、はたまた外国人就労の違法ブローカーか……有り得そうな事案の種類を瞬時に脳内にピックアップする。受付の誰かが話を聞いた上で
「この街では、妖怪もホーリツで守ってもらえるって聞きました」
「え?」
少女は椅子に座ろうとしないまま、濡れた瞳で雪乃を見上げてくる。後ろから「あ」とイケメンの声がした。
「乙川主任、尻尾が」
と、彼の手がすっと指差す頃には、雪乃もそれに気付いていた。
いつから見えていたのかは定かでないが、少女の腰の後ろには、狐そのもののフサフサした尻尾があったのだ。
「あなた、妖怪なの?」
雪乃が分かりきった質問をすると、彼女はコクンと頷き、その場でくるっと回転してみせた。
その瞬間、ひらりと一枚の木の葉が舞って、人間の姿への
そこには、くりっとした目に涙を溜めた
「……ええ、安心して、そこに座って? わたし達がしっかりお話を聞かせてもらうから」
正体を見せても雪乃の態度が変わらなかったことで、ようやく少し安心したのか、少女は今度こそ素直に腰を下ろしてくれた。
「……お姉ちゃんとわたし、
ノートを広げた雪乃の前で、妖狐の少女はぽつりぽつりと事情を語った。彼女の名はイトナ、実姉の名はウラナといい、店でもそれを
「半年くらい前に、お店のオーナーが変わって……女の子達の売上のノルマが厳しくなって……売上を上げるためには、お客さんに……あの、色仕掛けとか、何でもしろって……」
「……悪質ね」
要点をさらさらとメモしながら、雪乃は彼女に「続けて?」と目で促した。雪乃の後ろでは片瀬がサブデスクに座っており、さすがに相談者の前で「聞いたことは何でも覚えてしまうので」とやるつもりはないのか、形だけでもペンを走らせている音がした。
「他の女の子達は、オーナーの命令を聞いたり聞かなかったり……。でも、お姉ちゃんとわたし、どうしてもそういうことするのはイヤで、一緒にお店辞めようとしたんです。そしたらオーナーが怒って、わたし達、事務所に閉じ込められちゃって……」
「……それで、あなただけ逃げ出せたの?」
思った以上に悪質な事件だ、と内心怒りを燃やしながら雪乃が問うと、彼女は「お姉ちゃんが」と涙混じりの声で続けた。
「オーナーに、自分はお店に出るから、イトナだけは辞めさせてあげてって言って。……だから、お姉ちゃん、今も働かされてるはずなんです」
「……そうだったの。……辛かったね、頑張って話してくれてありがとう」
わっと泣き出す彼女を、そばに回ってなだめつつ――
雪乃はその悪質オーナーへの怒りを頭の片隅に
監禁罪をはじめとする刑法犯は、残念ながら妖怪を客体としては成り立たない。早い話が、「不法に人を逮捕し、又は監禁した者は……」と書かれている条文を、こちらで勝手に「妖怪を監禁した場合も成り立つ」と類推解釈することは許されないのだ。
そうなると、せいぜい妖怪保護条例違反で引っ張れるくらいだが……。問題のオーナーが曲がりなりにもイトナの姉との間に労働契約を締結していて、「この妖怪は合意のもとでウチで働いているのだ」と言い訳をされれば、摘発は難しくなるだろう。姉は自らを犠牲にしてイトナを逃がしたくらいだから、現場に警察が踏み込んでもなお「自分は望んで働いているんです」と主張するかもしれない……。
(……待てよ?)
そこまで考えたところで、雪乃はハッと顔を上げた。片瀬と目が合ったが、彼の顔には「打つ手ナシですかね」とわかりやすく書いてある。
それがそうでもないかも、と、伝わるかどうかは知らないがアイコンタクトに込めて彼を見返し、それから雪乃は「イトナさん」と少女に声を掛けた。
「そのお店は、夜中でも営業してるのかな」
「……夜から朝まで、ずっとやってます」
「それで、お客さんのそばに座ってお話したり、一緒にお酒を飲んだりしてるわけね?」
「そうです……最初はそれだけだったんですけど、それだけじゃライバル店にお客さんが流れちゃうから、もっと繋ぎ止める工夫をしろって言われて……」
「うん。わかったわ」
それなら行けるかもしれない、と確信を強め、雪乃は席に戻って再びペンを手にした。
「そのお店の名前、教えてもらえる? わたし達の方で、お姉さんを救い出せないか調べてみるから」
「……ハイ」
イトナは雪乃の渡した清潔なハンカチで涙を拭き、店の名前と大まかな場所を告げた。さすがに住所までは暗記していなかったが、ひとまずは店名と立地がわかれば十分だ。
「あなた、安心して帰れる場所はある?」
雪乃の問いに、彼女は「一人は怖いから、仲間のウチに泊めてもらいます」と答えた。本当は警察の女子寮に
「これ、わたしの名刺だっけ、何かあったらこの生活安全課の番号に電話して、わたしを呼んでくれたらいいからね。居ないときは他の人でも話を聞けるようにしておくし、もちろん緊急のときは110番でいいから」
「ハイ。……あの、刑事さん」
イトナは
「大丈夫ですよね? お姉ちゃん、助けてくれますよね?」
「……そうなるように努力するのが、わたし達の仕事だから」
雪乃が自分の立場で言える最大限の決意表明を口にすると、イトナは信頼しきった目で「お願いします」と頷いてきた。
イトナの帰りを見届けた後、雪乃は昼食そっちのけで自席のノートパソコンに向かい、問題の店舗に関して必要な情報を調べ始めた。
「乙川主任、どうするんです。被害者が妖怪ですし、形だけでも労働契約があるなら、犯人の検挙は難しいんじゃないですか?」
横から訊いてくる片瀬の顔に、昨日の「みかづき」で妖怪の権利と義務のことに不満を述べていた彼の姿が重なる。
新米でも法学を修めたインテリ様だ、基本の理論は当然押さえているらしい。だが……。
「片瀬係長。さっきのイトナさんの話で、風営法に照らしておかしい部分があったじゃないですか」
「……いや、恥ずかしながら、業法に関してはこれから勉強するところで。風俗営業の規制に抵触する部分があるってことですかね?」
「ええ、そりゃもう、バチバチに。イトナさんの話が全て事実だったなら、ですけど……」
そうした泥臭い法律のあれこれを駆使して治安を守ることこそ、雪乃達の仕事である。
「生安には生安の動き方があるんですよ」
片瀬にそう言ってから、いくつかの資料を手早くプリントアウトし、雪乃は西尾係長のデスクに回った。
「西尾さん、この件、風営法に触れてる可能性が高そうなんで、そのセンで行けないかと思うんですが」
「……あぁ、まずは店の様子を内偵してみることらな。お前と片瀬係長だけで行けるだろ」
「ええ。早速今夜にでも」
今夜も超勤が確定した瞬間であるが、妖狐の少女の涙を思えば、そのくらいのことは何でもなかった。
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