1-5 南雲ミカの望み
鏡台のチェアから振り向いて笑顔を見せた座敷わらし。
だが、不思議と――
ミカがどう感じているかは分からないが、少なくとも妙恵は、驚き以上の恐怖は感じなかった。おかっぱ髪を微かに揺らしてくすくすと微笑む座敷わらしが、人間の子と見分けのつかない笑顔で、二人との対面を無邪気に喜んでいるように見えたから。
「……あなたが」
教え子の手前、自分が先に声を掛けなければと思って、妙恵は小さく唇を舐めて口を開いた。
「教室に来てた座敷わらしさん……なの?」
分かりきったその質問に、座敷わらしは律儀にこくりと頷いてくる。妖怪との間に意思疎通が成り立ったことが、妙恵には安心半分、驚愕半分だった。
くりっとした瞳でこちらを見つめてくる少女。あどけなさの漂うその顔に、見覚えは……なかった。教室という集団の中に混ざっているときの彼女は、今と同じ見た目をしていないか、していても顔を識別できないように人を化かしているのだろう。
理屈で納得できる世界ではないが、人の理屈を超えた存在を妖怪と呼ぶのだと言われてしまえば致し方ない。
と、妙恵が考えている内に、彼女の腕を掴んでいた小さな手の圧力がすっと消えた。見れば、ミカが部屋に半歩ほど足を踏み入れ、座敷わらしの少女にまっすぐ顔を向けていた。
「……あなた」
ミカの声はまだ震えていた。しかし、彼女もまた、恐怖に身を震わせているだけでは居られないのだろう。
「……いつから、ここに居たの?」
「くす。学校から帰ってきてからだよ」
「……そういうことじゃなくて」
軽くからかうような座敷わらしの返答に、ミカがムッとした様子でもう半歩踏み出した。その状況を楽しんでいるのか、おかっぱ頭の少女はますます嬉しそうな笑みを浮かべるばかり。
「この家に住み始めたのはいつからなの、って話」
「くすくす。いつからかな。もう覚えてないよ。でも、ずっとミカちゃんとはお話したかったよ」
どくん、とミカの心臓の鼓動が聞こえるようだった。座敷わらしは光を宿した
「居ると思って探してくれないと、わたし達は見つからないもん」
彼女の言う「わたし達」が、妖怪全般のことを指しているのか、座敷わらしという種族のことを特に指しているのかは、妙恵には判別できなかった。だが、その一言を聞いただけで、妙恵の脳裏には、何百年も前から数多くの人家を渡り歩いてきた座敷わらし達の姿が、自然と思い浮かぶような気がした。
温かい目で微笑む座敷わらしの姿に、少し恐怖が和らいだのか、ミカが震えの止まった声で続ける。
「じゃあ、どうして、ウチの家を選んだの」
「選んだ? うん、選んだのかな? わたし達は、お仕事を頑張ってる人間が好き」
疑問形で答えるたび、座敷わらしはきょとんと首をかしげてみせた。そういう仕草は人を真似ているのだろうか、それともこの妖怪独自のものなのだろうか。
「お父さんの会社が大きくなったのは、あなたが来たからなの?」
「くすくす。お父さんが頑張ってお仕事したからだよ。わたしは見てるだけ。お父さんがこの家に居ないことが多くなって、つまんないから、ミカちゃんと一緒に学校行くことにしたの」
鈴を転がすような声で、座敷わらしは意外なほどちゃんと物を喋った。これだけしっかり辻褄の合った応答ができるということは、少なくとも見た目と同じ中学生くらいの知的能力はありそうだ、と妙恵は結論づけてみる。
ミカが一旦言葉を止めたので、妙恵は彼女の真横まで歩を進め、座敷わらしの目を見て言ってみた。
「あなた、クラスでもちゃんと名乗って挨拶してみない? みんな受け入れてくれるかもしれないわよ」
「ううん、先生」
おかっぱ少女は、ふるふると首を横に振った。
「クラスのみんなは、わたしを見てくれないもん」
「……それは、あなたが隠れてるからじゃないの? だって、自分が座敷わらしですって名乗って前に出れば、みんなにはあなたの姿が識別できるんでしょ?」
「……?」
そんなこと想像もつかない、とでも言いたげな顔で、座敷わらしがコテンと首を傾ける。横からミカがちょんちょんと妙恵の袖を引いてきた。
「ムリだと思いますよ。妖怪って、そういう理屈が通じないから妖怪なんです」
「……南雲さんが言うなら、そうなんでしょうね」
この街の外から来た妙恵には、それで納得するしかなさそうだった。
だけど、目の前のおかっぱ少女はそれでいいのだろうか。クラスの誰からも「個」を識別されないまま、ただ教室の頭数を増やすだけの存在で……。
「ちょっと、長くお話しすぎちゃった」
と、座敷わらしは出し抜けに言い、二人に向かってふんわりと手を振った。
「ミカちゃん、羽切先生。また学校でね」
「あっ――」
妙恵が呼び止める間もなく、次の瞬間には彼女の姿は
あとに残ったのは、階下から微かに聞こえてくるテレビの音と、他の家の飼い犬がワンワンと鳴く声、そして自分と教え子の息遣いのみ。
「……消えちゃったね」
見たままのことを妙恵が言うと、ミカは静かに頷いて、妙恵の顔を見上げてきた。
「……あの子、まだ居ますよ。見えないだけで」
その声が再び緊張と恐怖の色に張り詰めている。いつも大人の前でツンと澄ましている彼女の、ちゃんと人並みに弱い一面を見て、妙恵は唐突に一つのことを思いついた。
「南雲さん。今夜は先生のウチに泊まりに来る?」
「え?」
閃くままに言うとミカは目を丸くしたが、我ながら悪くない提案のはずだと妙恵は思った。
妖怪が居ると分かった家で一人眠るのは怖いでしょう、とは言わない。そこまでダイレクトに表現すると、却ってこの子は素直になれないだろう。
だが、三秒ほど時間を置いてから南雲ミカが答えたのは、妙恵の想像をも上回る一言だった。
「気遣ってくれて嬉しいですけど、でも、それには及ばないです」
「そう?」
「ええ。だって、今夜だけ先生と一緒に居て怖さを紛らしたって、明日も明後日も、ずっとあの子はウチに居るんですよ」
眼鏡越しに妙恵の目をまっすぐ見て、賢い教え子は続ける。
「だったら、一人で怖さと向き合うのは、明日からでも今夜からでも同じかなって」
「……正論ね」
「それに、先生。わたし、きっと、あの子にずっとこのウチに居てほしいって思ってるんですよ」
「えっ?」
ミカの続けた言葉に、今度は妙恵が目を見開く番だった。
「……お父さんは、お母さんと別れる前から、ずっとお仕事頑張ってましたから。座敷わらしが来たおかげかどうか知らないですけど、ようやくそれが報われかけてるんです。……仕事一筋でしか生きられない人なら、せめて結果が付いてきた方がいいじゃないですか」
「……そう、かもね」
座敷わらしが棲み着いた家は栄え、出て行った家は没落するという。妙恵を見上げてくるミカの目は、自分がこの家で一人寂しく過ごす夜が続いてもいいから、父の仕事が報われ続けることを本気で願っているように見えた。
それは、妙恵が何となく思い描いていた、「この手の話」のお決まりのオチの真逆を行くものかもしれなかった。
「お金持ちじゃなくなってもいいから、お父さんと昔みたいに一緒にいたい……って言うのかと思った」
「言いませんよ、そんな陳腐なヒューマンドラマみたいなこと」
ミカはふふっと苦笑い混じりの笑顔を向けてきた。うそぶいたり澄ましたりする空気は、その瞳のどこにもなかった。
「……わかったわ、南雲さん」
彼女の担任としてやるべきことが、妙恵には一つハッキリ見えたような気がした。
「じゃあ、座敷わらしの子が出てっちゃわないように、少しでも居心地を良くしてあげなきゃね。先生と一緒に考えてみない?」
妙恵のその言葉には、先の提案と違って、ミカは一秒と待たず「ハイ」と素直に答えてきた。
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