1-2 あやかし特区の憂鬱

「……ただいま」


 きぃっと玄関の扉を開けると、人感センサーの照明が妙恵たえを出迎えた。一人暮らしのこの部屋で、帰宅の挨拶に答えるものは勿論いない。

 二重の鍵とチェーンを念入りに掛けて、パンプスから足を解放し、キッチンを素通りして狭いリビングへ。お惣菜の袋をローテーブルに下ろすと、妙恵はすぐさまテレビを点けた。

 よく知らないバラエティ番組の音声を横目に、ビーズ入りのクッションソファに腰を下ろしてはぁっと息を吐く。一日分の疲れが一気に重たくのしかかり、身体をソファに沈めさせる感覚がした。


『自己紹介が長いわ! 何モンやねん、お前らのグループ』


 テレビからは関西弁の芸人のうるさい声が響いている。東京で聞いても新潟で聞いても関西弁は関西弁だなあ、と当たり前のことを思いながら、妙恵はちらりと画面に目をやった。他の出演者と並んで雛壇ひなだんに座り、司会の大物芸人のツッコミを受けてほおを赤らめているのは、奇しくもここ新潟県出身のアイドルの女の子らしかった。

 名前はどうでもいい。アイドルにも、芸人にも、テレビにも特に興味なんてない。

 それでも帰宅早々テレビを点けずにいられないのは、から気を紛らすためだった。


『でも、単独でアルバムも出させて頂いてて、わたし達はクールな感じとは違って、ハッピーなお日さま系の』

『分かった分かった、とにかく別モンやねんな、本体の方とは』


 リモコンでテレビの音量をさらに少し上げ、妙恵はソファから身を起こして洗面台へと向かった。液体石鹸で手を洗い、念入りにうがいをして、清潔なタオルで口元を拭った――そのとき。


 ――こぉん、こぉん、こぉん。


「っ……!」


 妙恵の鼓膜を、いつものが叩いた。

 洗面台に両手を添えて、妙恵はびくっと身体を震わせる。木と木がぶつかるような硬質の音が、こぉん、こぉん、こぉん……と、室内のどこかから続けて響いてくる。せっかくうるさいテレビを点けていたのに、それにかき消されることもなく……。


「何なのよ……これ……!」


 勇気を出して振り向いても、後ろには洗濯機と壁があるだけ。


 ――こぉん、こぉん、こぉん。こぉん、こぉん、こぉん。


 部屋のどこかで響くその音を追って、妙恵はそっと洗面台を離れ、室内のあちこちを覗きまわってみる。玄関、トイレ、お風呂場、リビングのクローゼット……。

 しかし、いつもと同じように、出処でどころを突き止めるより先に、音は消えてしまうのだった。


「……もうやだ、あやかし特区なんて」


 呟いて、妙恵は再びクッションソファに身を沈めた。

 一応、この街で決して多くはない女性専用アパートで、セキュリティもそれなりにちゃんとしているところを選んで入居したので、変な「人」に生活を脅かされる危険はあまりなさそうではある。だけど、人ではないものについては話が別だ。

 あやかし特区では、妖怪の存在は言わば「当たり前」のものとされているので、賃貸物件であっても入居者がガマンしなければならないというオソロシイ規定がある。そうした事情を了解した上で異動の話を受けたとはいえ、住み始めたばかりの部屋でさっそく毎晩変な音がするというのは、なかなか精神に来るものがあった。


『何やねんお前ら、揃いも揃ってワケわからん言葉ばっか使いよって!』


 別の出演者のイジりに切り替わった芸人の声を耳に捉えつつ、妙恵はスマホを取り上げた。

 ローテーブルの下に置いた除菌アルコールのスプレーをティッシュに振りかけ、スマホの表面を拭いてから、ホームボタンを押してSNSの画面を表示させる。テレビのうるさい音に加えて、友達の賑やかな投稿を見て少しでも怖さを紛らしたかった。

 学生時代の女友達の投稿が真っ先に目に飛び込んでくる。この春に結婚して鎌倉に住み始めた彼女は、妖怪の看板店員がいるというカフェに旦那と行った写真を嬉々としてアップしていた。猫娘なのか何なのか、猫耳にメイド服のウェイトレスが、友人夫妻と一緒に写真に収まっている……。


「こういう妖怪だったら、まだいいんだけどね……」


 妙恵がこの街で出会った妖怪といえば、人間に混ざって働いているムジナやカッパ、クラスに紛れ込んでいる座敷わらし、そして毎晩毎晩部屋のどこかで変な音を聞かせてくる「何か」。

 友達が次々と結婚していく中、自分は一人で何をしているんだろう、と思う。

 理系は修士まで出ないと就職は難しいと言われたのを鵜呑みにして、いざ院まで出てみたら、そういう女性は学部の新卒と比べて使いづらいからと言われて結局どこの企業にも拾われなかった。保険のつもりで取得していた教員免許でやむなく私学の教員になり、日々の仕事に忙殺される傍らで婚活の真似事もしてみたが、最後に付き合った男は「俺より学歴のある女とは結婚できない」と言って離れていった……。


 ――そんなの最初から分かってるんだから、無駄に何年も付き合わないでよ。


 怒りを通り越して自分が情けなくなる、その感情をぐっと抑えて、妙恵はテレビのトークを聞き流しながら一人の夕食を済ませ、お風呂に向かった。

 こぉん、こぉんという例の音は、一日一回しか鳴らないのがパターンらしく、その夜はもう妙恵の耳に届くことはなかった。


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