1-6
自分よりも一回りほど小さな手を引いて、ユオは麦畑へと足を踏み入れた。身体を屈めて、頭が麦穂より上に飛び出ない姿勢を保つ。ユオはゆっくりと歩きながら、なるべく物音を立てない足運びをカシヤに教えた。
幸い、直近で雨が降ったのか、土はまだしっとりと水分を含んでいて、足音を柔らかく包んでくれる。
彼女が慣れてきた頃合いを見計らって、ユオは進む速度を早めていった。
暫くすると、カシヤの抑えた呼吸音が、苦しげに乱れていくのが分かった。それでも、足を止めてはやれなかった。
このまま逃げ果せられるのなら。このまま──────
「ユオ、おまえ何やってんだ?」
心臓が大きく音を立てて、体内を揺らした。傭兵の一人が、畦道からこちらを覗き込んでいる。
「…………スリガラ」
スリガラはカシヤに目をやると、呆れたような顔をした。
「そういうことかよ。おまえ、自分が何やってるか分かってんのか?」
その時、城側から爆発音があった。
スリガラが城に顔を向けた一瞬を狙って、ユオは銃口を彼に向けた。
けれどユオに視線を戻したスリガラは、小銃には目もくれず、ユオの目だけを見て少し笑う。
「分かってるみたいだな。でも、すぐに引き金を引かないのはおまえの甘さだ」
「…………あんたもそうだ。俺をすぐに撃たなかった」
「おまえは俺の弟分だ。だから、すぐに殺ったりはしねえのさ。なあ、あの爆発、おまえがやったのか?」
「IED」
ユオが頷いて短く答えると、スリガラは目元にたっぷりと浅い皺を寄せて笑った。
「前に俺と作ったやつだろ、良い出来だな!!
さて、爆発で連中の気は引けたが、俺には見つかっちまった。なら、次におまえがすべき事は何だ?」
答えを促す声は、いつものように優しい。子供扱いされてるだけだ、と思っていた頃もあったが、目の前のこの男は、本質的に優しい人間なのだ。
そんなスリガラの目尻に刻まれた笑い皺が、今は何故だか少し寂しげに見えて、ユオはどうしたらいいか分からなくなってしまった。
スリガラは頭を掻くと、カシヤに目を向けた。
「嬢ちゃん、あんた、自分のことをどれだけ知っている?」
「知ってるよ、全部」
「あんたは、自分で望んで外へ出たのか?」
その問いに、カシヤはすぐに返答しなかった。
爆発で引火した麦が、焦げていく匂いがする。爆発物の残骸を傭兵団が確認すれば、それが支給品の爆弾ではないと気が付かれるだろう。焦燥感が、じわじわと思考を蝕む。
ユオが微かに身じろぐと、カシヤは呟くように言った。
「あの子が最後に頼ってくれたことだから。それだけで、私は──────」
(…………あの子?)
ユオがなんとなく違和感を感じてカシヤを見ると、スリガラはため息をついた。
「酷なことだな。心根が優しい奴ほど、色々なものを背負わされちまう。ユオもそういうとこ、あるけどな」
スリガラは身を乗り出して、ユオの頭を優しく撫でた。距離が近づいた所為で、ユオの向けていた銃口が、スリガラの胸に押し付けられている。引き金にかかったままの指先は、冷え切って痺れるようだった。
「これは俺の、大人の勝手な感情なんだけどな。あんたらみたいな年端もいかない子供が、背負わされたもので押し潰されるのを見るのはきつい。だから、な」
そう言いながら、スリガラは流れるような動作で銃を構えると同時に後ろを向いた。続いて響き渡る発砲音。音もなく近づいてきていた傭兵の一人が、どさりと倒れた。
「いいか、抱えきれずに取りこぼしたものは、置いていけ。抱えきれなかったとしても、それはおまえたちの所為じゃない。誰にだって、限界はあるんだから」
ユオは胸騒ぎを覚えながら、遠方から近づく人影に照準を合わせた。殺伐としていく空気とは対照的な、優しいスリガラの声が耳に届く。
「大切なのは、何を抱えたいか、考えて選び取ることだ。そうやって選んで、腕の中に残ったものが、あんたらの人生を形作る」
スリガラの視線はかつての仲間へと向けられているので、その表情は、ユオにはわからない。けれど、彼は笑っているのだろう、と何故か思った。
「そんで、俺の人生を最後に象るのは、おまえたちだ」
スリガラの言葉に、ユオは奥歯を噛み締めた。
「……………抱えきれないものは置いていけと言ったのは、スリガラじゃないか」
「いいんだよ、俺は。おまえたちよりずっと、長く生きたから」
敵の数が多い。爆発で燃え広がった火のおかげで、敵の侵攻方向は制限されていた。それでも、二人だけで切り抜けられる状況とは到底言えなかった。
ユオのすぐ側にある麦穂が、銃弾を受けて弾け飛んだ。カシヤは、彼のすぐ後ろで屈みながら身を潜めていた。
残弾数が、曖昧に時間の経過を伝えてくる。応戦で手一杯になっていたユオの傍で、唐突に、スリガラの身体が揺らいだ。それが、被弾した所為だと理解すると、すっと体温が下がった気がした。
どこを撃たれたのかすら、確認する余裕がない。
「スリガラ!俺の後ろに…………」
「俺はいいって、言ったろ」
その声を最後に、視界が覆われた。スリガラが、ユオを正面から抱き込むようにして、覆いかぶさったのだ。
「スリガラ!やめろ、スリガラ………!!」
伝わってきた彼の心音を掻き消すように、容赦なく鉛玉が撃ち込まれていく。あまりにも呆気なく、とどめは刺された。しかし尚、攻撃は止まらない。
ユオは混乱が収まりきらない中、声を上げた。
「…………カシヤ!俺とスリガラの間に入れ!!」
頭の中は麻痺しているのに、いつも通りに銃器を扱う己が不思議だった。幾度となく、身体に染み込んだその動作に助けられてきたはずだというのに。
かつての仲間たちを見る。彼らの目に迷いの色は、全く見えなかった。当たり前だ。迷えば、命を失うのだから。
けれども、スリガラの身体が銃弾を受け止めるたび、怒りとも悲しみともつかない感情が込み上げた。こんな気持ちになる必要はないのだと、理性で己を抑えようとする。
もう、彼の身体は、ただの骸なのだから。
「…………………やめろ」
彼は、もう痛みなど感じないのだから。
「やめてくれ、撃たないで!!」
鉛玉が肉に撃ち込まれる衝撃が、ユオの身体を伝って、心を揺さぶっていた。
「どうして…………なんであんたが、こんな目に遭わなきゃいけない」
涙が頰を滑り落ちていく。その温度と同じくらいに、ユオたちを守ってくれるスリガラの身体は、まだ温かった。
敵にユオの言葉が届くはずもなく、銃声は鳴り止まない。その中で、彼の名を呼ぶ声がした。
「ユオ!」
カシヤだった。
「君は、生き延びたいって思ってる?」
生きていたいわけではなかった。
でも、ユオたちの命を選び取って死んだスリガラのことを思えば、簡単に差し出せるものでもなかった。
「……………策はあるのか?」
「あるよ」
彼女は、短刀を手にしていた。
「私から目を逸らさないで。今から、私という化け物の正体を、見せてあげる」
そう言うと、カシヤは躊躇うことなく、その刃を己の腹に突き立てた。
「────────え?」
一瞬にして、銃声は断末魔に転ずる。
月光に照らされた彼女の血が、ずるりと動いた気がした。
end.1 傾国の姫君
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