第17話 御曹司あらわる

 瞬く間に一週間が過ぎ、松葉まつばとの約束の土曜日が来た。緊張しすぎて朝六時に目が覚めた雷斗ライトは、朝シャンや歯磨きを念入りにして、チューバーとしての活動時の何倍も気合を入れて髪をワックスで整えた。

 精一杯のおめかし……と言っても一番新しい服を着ただけだが、とにかく出来る限りのカッコつけをしてマンションの玄関を出ようとすると、紫子ゆかりこがひょいっと前に回って言ってきた。


《《ダメ、靴紐がヨレヨレ。ちゃんと結び直して》》

(えっ、靴紐!? フツーじゃん)

《《男子のフツーは全然女の子のフツーじゃないのー。ハイ、一旦ほどいてー、ピシっとするー》》

(えぇぇ……)


 メンドーだなと思いながらも、雷斗は渋々玄関にしゃがみ込み、紫子に言われるがまま靴紐を結び直した。フリだろうとニセだろうと、とにかく松葉の恋人という体裁で人前に出るのだから、彼女に恥をかかせないように出来るだけちゃんとしておこうという思いがあった。


(……それにしても、お前って小説以外のことも出来るんだな)

《《シツレーなー。これでもライトより十年長く生きてるんだぞー》》

(三十年だろ)

《《生きてたのは十年だから!》》


 二度ほど結び直してようやく紫子のOKを貰い、雷斗は足を締め付ける靴紐の固さを感じながら家を出た。




『早く着いちゃいました。例の本屋さんの入口近くに居ます』


 駅の改札を出た直後、携帯ミラホに松葉からラインが届いた。先週の喫茶店でIDを交換して以来、待ち合わせに必要な連絡しかやりとりしたことはなかったが、彼女のメッセージはいつも、飾りの一つも使わないシンプルな短文だけだった。

 もっとも、歳の近い女子とラインなどしたことのない雷斗には、それが普通かどうかも分からなかったが……。


(やべーじゃん。急がねーと)


 待ち合わせの午前十時より少し早く来たつもりだったが、相手がもう着いて待っているとなると気持ちが焦る。

 雷斗は人混みの中を縫い、早歩きで駅ナカの大型書店を目指した。すいっと宙を飛んで付いてくる幽霊が少し羨ましい。


《《あー、わたしまでドキドキしてきちゃった。早く松葉ちゃんに会いたいなー》》

(お前は話せないだろっ)

《《あの子の話を聞いてるだけでも楽しいよ。ライトが通訳してお話させてくれたら、もっといいんだけどー》》

(ムリムリ。ヘンなヤツだと思われるだけじゃん)


 目的の大型書店に辿り着き、雷斗はバクバクと鳴る胸を押さえて、恐る恐る店内に足を踏み入れた。


《《あっ、いたいた。松葉ちゃん!》》


 紫子がいち早く指差した先に目をやると、ショートボブに赤い眼鏡、紛れもないあの松葉の横顔があった。長めのチェックのスカートに、スミレ色のカーディガンを羽織った彼女は、片手にミラホを持ち、もう片手で器用に新書を開いて真剣に立ち読みにふけっていた。

 ごくりと生唾を飲み込み、雷斗は彼女に近寄る。


「あ……っと。松葉サン?」


 声を掛けてコンマ一秒も経たない間に彼女は振り向き、喜びのような安堵のような、ほうっとした表情を見せた。


「おはよう、あらたくん。……よかった、来てくれて」

「あ、うん」


 緊張が限度に達し、生返事くらいしか口から出てこない。ほらライト、ちゃんと挨拶しなさい、と横から紫子が注意してきた。


「お、おはよーございます」


 思わずかしこまって雷斗が言うと、松葉はくすっと自然に笑って、読んでいた本をそっと棚に戻した。


「今日はよろしくね。……あの、ヘンなお願い聞いてくれて、ほんとにありがとう」

「あ、いや、いやいや、全然。い、行こーぜ」


 ドギマギしながら雷斗が促すと、うん、と頷いて松葉は隣に並んできた。

 二人で書店を出て、雑踏の中を歩く。何か話しかけなければと思っていたら、松葉の方から「今ね」と切り出してきた。


「弁護士さんの新書を読んでたの。わたし……法曹実務の話とか、ちょっと興味があって」

「へ、なに? ホーソー?」


 雷斗の頭にはどうやっても「放送」と「包装」の字しか浮かばず、何のことやら見当もつかなかったが、彼女に凄い文才の持ち主と思われている手前、聞き返すわけにもいかなかった。

 そういえば初めて会ったときもノベルバトルで弁護士モノの小説を書いてたな……と思い出し、雷斗は話を合わせてみる。


「ホーリツとかが好きなの?」

「うん……わたし、大学は法学部に行きたいなって思ってて。……行けるかどうか、わからないけどね」

「い、行ける行ける、アンタなら、うん。ホラ、ホーリツ用語とかよく知ってたし?」


 高校受験すら憂鬱な雷斗には、大学のことなんて想像も出来ないが、とりあえず思いつくままに励ましておく。松葉は雷斗のすぐ横を歩きながら、照れ隠しのように自分の髪の毛先を指で撫ぜていた。


「新くんほどの人に褒められると……なんだか恥ずかしいよ」

「いやいやいや、オレなんかホント、凄くもなんともないから!」


 恥ずかしいのは雷斗も同じだった。凄いのは自分に憑いている幽霊だから――と、明かせるものなら明かしたいくらいだ。


《《くすくす。なんだか微笑ましいなー、ライトが緊張しまくってて》》

(うるせーな。誰だってキンチョーすんだろ、恋人のフリとか言われたら)

《《こないだは全然そんなことなかったのにねー》》


 紫子の言う通り、こんなに緊張してしまっている自分が自分で不思議だった。先週会ったときはもっと気楽に話せていたのに、彼氏役を演じろと言われた途端にこんなに縮み上がってしまうとは……。


「でも……確かに、新くん、小説書きそうなタイプには見えないもんね。能ある鷹は爪を隠す、って言うのかな……」


 そんなことを言って松葉が顔を見上げてくるので、雷斗はドキリとした。一瞬完全に目が合ってしまったのを慌ててそらし、相手の口元あたりに視線をやったところで、どうもヘンだな、と雷斗は思った。

 自分が緊張しているからそう見えるだけなのだろうか……なんだか、前回よりも松葉の顔がキラキラしていて可愛いような気がする。もっと地味な感じだったような……?


(なー、センセー)

《《なんだね、純情少年》》

(なんか……このヒト、こないだと印象が違うような)

《《んー? 今日は色付きリップにしてるからじゃない? こないだは普通に無色のやつだったし》》

「色つきリップ?」


 脳内でオウム返ししたつもりが、うっかり声に出てしまったらしい。あっと雷斗が自分の口を手で覆ったときには、松葉は少しだけ目を見開いて、恥ずかしそうにほおを赤らめていた。


「ちょっと、あの、いつものが切れてて……お姉ちゃんのを借りたの」

「ふーん……」

「……よく気付くね。やっぱり、凄い作品書く人って、見る目が違う……」

「いやいや、だから、オレは凄くねーって」


 リップの件はそれで流れたと思った矢先、横から紫子が「ちょっとちょっと、少年」と雷斗の目の前に手を突き出してくる。


《《今のを聞いて、へー、たまたま自分のが切れててお姉ちゃんのを借りたんだー、と文字通り納得してるよーじゃ、キミは作家にはなれないぞー》》

(何だよそれ。いーよ、ならねーから)


 しっしっと紫子を追いやるように手を振ると、松葉の明るいピンク色の唇から「キミって不思議な人」と言葉が漏れた。




 先週の大会と同じアミューズメント施設の入口で二人を待っていたのは、すらっとした長身に茶髪、白いジャケットを気取った感じに着こなした男子だった。

 松葉の話によれば高校三年生。雷斗の目から見ても、まあ、悔しいがイケメンと思える青年だった。


「やあ、橘香きっかさん。私服は一段と可愛らしい。みやびで奥ゆかしいキミの魅力にカーディガンのスミレ色が映えているね」


 二人と合流するなり、彼はにかりと白い歯を見せて松葉の見た目を褒めそやしていた。正直、ウワッと引いてしまうようなキザっぽい言動だと雷斗は思った。


(キッカさん? ああ、そういえばそんなこと言ってたっけ)


 松葉という名前は女の子らしくないから、自分でペンネームを付けたとか何とか。このキザ男、それで彼女をペンネームで呼んでいるのか……。


「あれ。オレもひょっとしてそう呼んだ方がいい?」

「……いいよ。ライトくんは、松葉で」


 何の打ち合わせもなしに松葉がいきなり下の名前で呼んできたので、雷斗はまたドキリと戸惑った。

 二人の様子をしげしげと見ていたキザ男が、すっと雷斗の前に歩み出て、手を差し出してくる。


「はじめまして、ライトくん。ボクは速水はやみ涼馬りょうま、速き水に涼しき馬と書いて速水涼馬さ。ボクの名は言うなれば水属性、花の名を冠する橘香さんにはピッタリだと思わないかい」

「……はぁ」


 ナルホド、これは確かに松葉が言っていた通り「すっごく自信家」だなぁ……と納得しながら、雷斗はとりあえず握手に応じた。


「今日はお手柔らかに頼むよ。もっとも、戦い始めればボクの筆力にキミはタジタジだろうけどね」

「はぁ」


 握手を終え、三人でアミューズメント施設の中を歩き始めてからも、ぺらぺらと言葉を並べ立てる速水の勢いはとどまるところを知らなかった。

 日本一のSF作家を目指して新人賞に絶賛挑戦中であること、大学は父親と同じ慶応を志望していること、社長御曹司である自分には将来の伴侶もそれなりの家柄の女性が求められるのだということを矢継ぎ早に述べた上で、彼は、「だけどね」と人差し指をぴっと立てて言った。


「ボクは、どこの生まれかより、何を語れるかで、付き合う相手を選びたいのさ。その点、橘香さんならボクの相手に申し分ない。上品で理知的で、スレたところがなく、物書きという人生のアクティビティも共有できる。橘香さんは、まさしくボクの理想の女性なんだ」

「はぁ……」


 さっきから「はぁ」しか言ってないな、と思いながら、当の松葉に目を向けると、彼女は速水の言葉に律儀に頬を赤くして顔を背けていた。喜んでいるというより困っている反応なのは、女子のことなど小説のことと同じくらい分からない雷斗にもすぐに理解できた。


「いいけどさー、アンタ、ホントにオレが勝ったら諦めてくれんの?」

「ああ、男に二言はないとも。そのかわり、ボクがライトくんに勝ったその暁には、橘香さんは正式にボクの恋人になってくれるという約束だったね」

「えぇ!? そんな約束までしてんの!?」


 松葉は控えめにコクンと頷いた。おいおい、と雷斗は思わず頭を抱える。


(何でカンタンにそんなこと賭けちゃうんだよぉぉ、知り合ったばかりのオレにぃぃ)

《《大丈夫だよ、ライト。わたしがしっかりぶった斬るからっ》》


 任せなさい、と胸を張る紫子と、はははと歯を見せて笑う速水を同じ視界に収めて、雷斗は小さく溜息をついた。


(お前に全力出されてもそれはそれで困るんだよ……。なんかテキトーにギリギリの差でやっつけてよ)

《《えー、どーしよっかな。松葉ちゃんはぶった斬りコースをお望みだと思うけど》》

(カンベンしてよ……)


 そうこうしている内に、ノベルバトルの筐体が並んだエリアのすぐ近くまで来た。

 速水がくるりと二人に向かって振り返り、仰々しく両手を広げて何か言いかける。


「さあ――」


 そのとき、松葉が唐突に「あっ」と声を上げた。次の瞬間、トコトコと向こうから走ってきた小さな男の子が、速水の背中にどんっと派手にぶつかっていた。

 わっ、と雷斗が目を見張った時には、男の子は床に倒れて泣き出していた。さらに悪いことには、男の子の手に握られていたソフトクリームが、べっとりと速水のズボンに……。


「おやおや」


 速水が男の子のほうへ振り向く。すぐに母親らしき人が駆け寄ってきて、スミマセン、スミマセンと繰り返し謝りながら、大泣きするわが子を抱き起こしている。


(あーあ……アイツ、絶対、ベンショーしろとか言い出すよ)


 雷斗はハラハラしながら様子を見守っていた。松葉も、男の子に歩み寄ろうとして止まった形のまま、オロオロと視線を振っている。

 速水がすっと片膝をついて男の子の目線にしゃがみ込んだ。ああっ、子供相手に「このズボンが何万円したと思ってる」とか言い出すつもりだ――と雷斗が思った瞬間、その予想を裏切る出来事が起こった。


「可哀想に。さあ、これで新しいアイスでも買いなさい」


 速水は高そうな財布から北里柴三郎の千円札を取り出し、男の子の小さな手に握らせていた。雷斗は「はぁ!?」と声を上げてしまったが、松葉も、母親も、周りで見ていた人達も、誰もが同じように、ヘンなものを見るような目を速水に向けていた。


「いやいやいや……それはおかしいだろ……」


 雷斗はつい口に出して言ってしまった。母親は恐縮しきった様子で謝り続けていたが、子供の手の千円札と速水の顔を何度か見てから、やがて逃げるように足早にその場を去っていった。

 速水は「ふう」とわざとらしく息を吐いて、ポケットから取り出した純白のハンカチでズボンのソフトクリームを拭い、近くのゴミ箱にぽいっとハンカチを投げ入れた。それから、ジャケットのポケットから別のハンカチを即座に取り出し、空いたズボンのポケットに収める。雷斗は松葉と一緒にポカンとしたまま一連の動作を眺めていた。


《《ふーん、意外と悪い人じゃないのかもねー、この御曹司くん》》


 浮世を離れた幽霊だけが、ただマイペースに感想を述べていた。

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