第2章-邂逅-2
女性が自ら名乗ってくれたのは良いとして、露骨に不審な相手から「話をしたい」と言われて簡単に乗っかるほどこちらも無警戒ではない。そうでなくとも通り魔事件の影響で基本的な警戒レベルは底上げされている。
もっとも、女性が不審者ではなく、単に好意で私に何らかの情報提供をしてくれようとしているのだとしても、その時の私にそれに応じる余裕はなかった。私の腕の中には、今にも消えそうな命があるのだ。
私がやるべきことは、この命の火を消さないように、すみやかに仔猫を動物病院に連れて行き、適切な治療を受けさせてやることだ。初対面で、しかも挙動不審な女性の話を聞いている余裕などない。
「申し訳ありませんが、急いでいるのでお話はできません。では……」
そう言って、私は女性が差し出す名刺を受け取ろうともせず、公園の出口に向かった。
極めて無礼な態度を取った私に対し、女性は特に気を悪くするようなそぶりは見せなかったが、立ち去ろうとする私に向けて女性が放った言葉によって、私の足は止まることとなる。
「ふむ、急ぎ……ね。もし、君が急いでいる理由が黒い仔猫に関することだとしたら、今ここで私の話を聞く方が、よほど君とそいつのためになる、とだけ言っておこう。君がそいつに対して何をしようとしていたか、についても大体推測はつくがね。君はそいつを普通の仔猫だと思って、獣医に診せようと思っているんだろう? まあ、普通の人から見れば、瀕死の状態の仔猫にしか見えないだろうからね……」
女性の言葉に驚きつつ、私が女性の方へ振り向くと、女性は余裕ありげな表情でこちらを見ていた。それはまるで、「私はこの状況についてのすべてを知っているぞ。知りたいなら、大人しく私の話を聞け」とでも言っているかのようであった。
実際、女性は、私が仔猫絡みで急いでいることと、仔猫の状態を正確に言い当てていた。私の記憶が確かであれば、女性が私の前……と言うか背後に現れたのは、私が仔猫をハンカチでくるんだ後だったはずだ。だとすれば、女性は仔猫のことは見ていないはずで、そうなると、女性にとって、私は〝何かをハンカチでくるんで抱きかかえている女子中学生〟でしかなく、ハンカチの中身までは分からないはずなのだ。
もちろん、私が気付かなかっただけで、私が仔猫を救助しようとした一連の動作を女性に見られていた可能性はある。だが、そうだとしても、仔猫の状態までは把握できないだろう。私だって、仔猫に近寄って、触って、それでようやく仔猫の状態が分かったのだから。
間近で観察しなければ分からないようなことを、離れた場所にいながらにしてほぼ正確に把握できるとしたら、どのような理由が考えられるだろうか。
シンプルかつ現実的な答えとしては、〝仔猫が木の上から落ちてくるよりも前から、女性が仔猫の状態を把握していた〟と言うのが妥当だろう。その場合、女性と仔猫の関係性が問題になってくる。
大ケガを負った仔猫を保護しようとしたものの、仔猫に誤解されて木の上まで逃げられてしまった、と言うような関係であれば特に問題はない。言葉の通じない動物相手では、そのような行き違いは往々にして起こるものであり、私自身も何度か経験している。だが、女性の口ぶりから考えて、それは違うように思える。
だとしたら、考えられる可能性としては……
「まさかとは思いますが、この仔猫が瀕死の状態なのは、あなたが何か危害を加えたから……なのですか?」
女性は私からの問いかけに対し、少しだけ何かを考えるようなそぶりを見せた後、真面目な表情で私の方を見据えつつ、落ち着いた声で答えた。
「結論から言うとその通りだ。そいつがそんな状態になっているのは、間違いなく私が原因だ。だが、別に理由もなくそいつをそんな状態にした訳ではない。もしかすると、君は私がそいつを虐待して瀕死の状態に追い込んだのではないか、などと思っているのかもしれないが、私がそいつをそんな状態にした理由は、そんなくだらないものではない、と言うことだけは言っておく」
女性はあっさりと自らが加害者であると認めた。
開き直っているかのような物言いに対し、一瞬、頭に血が上りかけたが、何とかして気持ちを落ち着かせる。
女性が加害者であるのは、女性がそのように認めている以上間違いはないのだろう。
だが、女性の言葉を信じるならば、単なる動物虐待ではないらしい。虐待ではないとすると、何らかの事故なのか、とも思ったが、女性の話の内容から考えて、女性は故意に仔猫を瀕死の状況に追い込んだようだ。
虐待でもなく、事故でもなく、動物を瀕死の状態に追いやる状況があるとしたら、どんな状況があり得るだろうか。少し考えてみて思いついたのは害獣駆除だったが、熊や猪、鹿などならまだしも、こんな小さな仔猫が駆除されるべき害獣とは思えない。可能性としては、この仔猫が何か特殊で危険な感染症を持っていて、野放しにしておけない、などの理由があるのかもしれない。
もちろん、女性が嘘をついていて、本当は仔猫を虐待していただけ……と言う可能性もある。しかし、嘘をつくのであれば、こんな中途半端な嘘をつかずに加害行為そのものを否定する方が自然だ。自らが不利になることが明白なのに、それでも加害行為を肯定している以上、女性の発言内容は信用して良いと思う。
だが、女性の発言を信用するのであれば、女性の意図が理解しにくくなる。単純に私の知識や人生経験が不足しているだけなのだろうが、女性の言葉には不可解な点がいくつかある。こう言うのは、自分一人で考えてどうなるものでもないので、手っ取り早く、女性に疑問をぶつけることにした。
「虐待ではない……としたら、どうしてこの仔猫をこんな状態にしたんですか?」
私の投げかけた疑問に対し、女性は先と同じような調子で回答してきた。
「私がそいつをそんな状態にした理由か。まあ、当然の疑問だね。まともな神経をしている人間ならば、人畜無害な仔猫を瀕死の状態に追い込む、なんてことはしない。私だって普通の仔猫相手だったらそんなことをしようとも思わない。そもそも、今回の件についても、本来ならそいつを瀕死の状態にするつもりはなかったんだ。だが、そいつを追い込む過程で少し不手際があってね……その結果、そいつはそんな状態になってしまった、と言う訳だ」
一呼吸置いて、女性はさらに話を続ける。
「ただ、私自身の目的を完遂するにはそいつの意識が保たれている必要があるんで、今回のような状況は私が望んでいたものではない。だから、私としてもそいつの意識が戻る程度には回復してもらわなければならない。とは言え、こう言った状況も想定の内なので、そいつを回復させる手段もいくつか用意していた。もっとも、想定外の事態が起きたおかげで、それらの手段は使わずに済みそうだがね」
そこまで言って、女性は軽く咳払いをした。
「すまない。話が脇道に逸れた。本題に戻ろう。私がそいつをそんな状態にした理由、について、君に話をすることはできる。だが、今回の件について順序立ててきちんと説明する必要があるから、そこそこ長い話になると思う。ちょうどそこにベンチもあることだし、座って話をしないか?」
そう言って、女性はベンチに座るよう促してきた。
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