第2章 邂逅

第2章 邂逅-1

 思わぬ体調不良で早退することになった私は、ゆっくりと通学路を歩いていた。

 本来ならまっすぐ帰宅するべきであるが、途中まで帰ってきたところで、通学路から外れて、近くにあるお気に入りの公園でちょっと休憩をしよう、と思い立った。


 先にも言ったとおり、私が通う中学校は家から徒歩十分程度で通える距離にあり、多少体調が悪くても途中で休憩を挟むほどの距離ではない。そもそも体調不良で早退しているのだから、保健室の先生に言われたように、さっさと帰宅して薬を飲むなり、医療機関へ行って診察を受けるなりする方が良いのは言うまでもない。

 だが、その時の私は、「こんな訳の分からない体調不良なのだから、お気に入りの公園で、のんびり日なたぼっこでもする方が何らかの効果を期待できるのでは……?」と考えていた。

 保健室での休息では症状が改善しなかったこともあって、試せるものは何でも試してみよう、と言う気持ちになっていたのだ。


 その公園は台地の縁に沿って作られ、斜面林に囲まれていた。公園と言ってもほとんどが斜面林の中を通る遊歩道で、学校の教室数個分の広場に数基のベンチと東屋がある程度の、隠れ家的な小さな公園である。その分、利用者も少なく静かな場所なので、一人静かにのんびりしたい時にちょうど良い場所だった。


 いつものことだが、その公園には誰もいなかった。おかげで、真っ昼間から女子中学生が公園で休んでいる、と言う状況を見とがめる他者の存在はなかった。

 もっとも、屋外に一人でいる、と言うのは、先にも言ったように、通り魔事件が発生していた状況そのものであるため、もしかしたら、と言う気持ちもあったが、見通しの良い場所にいれば何かあっても対応できるだろう、と楽観視していた。


 私はベンチに座り、空を仰ぎ、新緑の梢や青空を眺めていた。

 その日は天気も良く、風も穏やかで、目に映る鮮やかな緑が心地良かった。近くの線路を電車が通り過ぎる音や、どこかから緊急車両のサイレンの音が聞こえてくる以外には、風が梢を吹き抜ける音が聞こえる程度で、通り魔事件が起きていることと、体調があまり良くないことを除けば、ひと休みするには絶好のコンディションであった。


 リラックスしながら爽やかな初夏のそよ風に吹かれていると、気のせいか、あれほど悪かった体調も、徐々に良くなっているような気がしていた。

「神、そらに知ろしめす。すべて世はこともなし……か……」

 目に映る景色があまりにも穏やかなので、ふと思い出した古い詩の一節をつぶやいてみたが、繰り返し言っている通り、私が住んでいるエリアでは連続通り魔事件が発生しているため、とてもではないが「すべて世はこともなし」などと言える状況ではなかった。ただ、そんな状況においてさえ、そんなことをつぶやきたくなるほどに穏やかな時間が流れていた。


 あまりの穏やかさに、私は通り魔事件が起きていることも忘れ、静かに目を閉じて、自分と周囲が少しずつ一体化していくような感覚を味わっていた。

 だが、それは突然の激しいざわめきによって中断された。

 本当に例の通り魔が現れたのか? と不安を感じつつ周囲を見回すと、近くにある木が揺れ動いて、その梢から小さな黒い塊が落ちてきた。


 通り魔ではなかったことにホッとしつつ、そっと近づいてよく見てみると、それは小さな黒猫だった。大きさから見て、生後数ヶ月程度の仔猫らしい。木に登って遊んでいるうちに足を滑らせたのかな? とも思ったが、どうも様子がおかしい。

 普通、猫と言うものは、高いところから落ちても受け身を取って、大したダメージを負わないものだが、目の前に落ちてきた仔猫は、その状態のまま起き上がる気配がない。仔猫だから、上手く受け身を取れずに落下の衝撃をまともに食らってしまったのだろうか。


 最悪の事態も想定しつつ、そっと仔猫に触れてみると、小さなお腹が呼吸に伴って動いていることが分かり、少し安心した。だが、毛並みが乱れている上に息も絶え絶えで表情も苦しそうなものであり、仔猫が瀕死の状態であることは明白だった。


 だが、数メートルの高さからの落下とは言え、それだけでここまでのダメージを受けるとは思えない。他の猫や犬、もしくは心ない人間に暴行を受け、ぼろぼろの状態になりつつもどうにか木の上に逃げ、そこで力尽きて落下したのかもしれない。見た限りでは出血などの外傷は見当たらないが、それでこの状態、と言うことは、見えないところに大きなダメージを負っている、と言うことを意味する。だとしたら、この仔猫を急いで動物病院に連れて行く必要がある。そう思った私は、ハンカチを取り出して仔猫をくるみ、そっと抱き上げた。


 その時、背後に人の気配がした。今度こそ例の通り魔か? と言う考えがよぎる。急いで振り向きたかったが、傷付いた仔猫を抱えている以上、あまり急激な動作もできない。仔猫への気遣いと背後への警戒を同時に行いながら可能な限りの速度で振り向くと、そこには一人の女性がいた。

 女性の服装はいかにも普通の勤め人、と言う感じで、近くの会社で働いている人が昼休みに公園に休憩に来ました、と言う雰囲気だった。


 ただ、見た目はともかくとして、女性の行動は普通ではなかった。

 女性は私を見るなり驚いたような顔をしてしばらく固まっていた。その後、額を指で押さえてブツブツつぶやき始め、何かを思いついたかのように顔を上げ、ポケットから携帯端末を取り出し、画面と私の顔を交互に眺め、驚いたような表情をしたり不審そうな表情をしたりしていた。どうやら女性にとって、私がこの場にいることはよほど予想外のことだったらしい。


 確かに、平日の昼間は学校がある時間帯なのだから、そんな時間に中学生が公園にいるのはおかしい、と言われれば反論のしようがない。

 中学生と勤め人と、平日昼下がりの公園に相応しい存在はどちらか、と言われれば、勤め人の方がいくらか分があるだろう。だから、女性が私を見て驚くところまでは納得できるものであった。だが、それに続く行動がよく分からない。


 平日、昼過ぎの公園に中学生がいる、と言うのは、基本的にはあり得ない光景である。だが、絶対にあり得ない、と言う訳でもない。私のような体調不良に限らず、何らかの理由で学校を早退した中学生が、帰宅途中に公園でちょっと休憩……と言うのは(あまり褒められるような行為ではないとは言え)あっても不思議はない光景である。

 なので、普通であれば〝昼の公園で休憩している中学生〟を見て一瞬びっくりしたとしても、すぐに「何かの理由で早退して公園で休んでいるんだろうな」と言う考えに至り、それ以上あれこれ考えるようなことはない……と思う。

 だが、女性は私を見て驚いただけではなく、その後も延々と私のことであれこれ考えたり調べたりしている。


 女性はしばらく携帯端末をいじっていたが、やがて充分な情報を入手したのか、何か納得したような表情になり、眼鏡の位置をクイッと直し、携帯端末をポケットにしまい込み、代わりに取り出した名刺入れから名刺を一枚抜き取り、それを私に差し出して、笑顔で語りかけてきた。


「はじめまして。私の名はジングウジ ミハル。ここで出会ったのも何かの縁、ってことで、君と話をしたいんだが、少し時間を貰っても構わないかな?」

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