第37話  動けないの



8月7日金曜日


用意は本格的にベースボールバックにプロテクター、レガース、ミットとボール、キャッチャーマスクにヘルメット(キャッチャー用バッター用)、捕手守備用グローブ、ロジン(ピッチャーが使うボールの滑り止め)(以後全部一式でプロテクター)


Tシャツ、タオル、裾が汚れない様に敷物。お茶を入れ準備完了。



動けるようにちょっとブカ目のパンツにTシャツ、薄いピンクのボタンダウンにランニングシューズで出撃。キャッチャーは座って捕球するので伸縮素材かブカ目のズボンじゃないと膝が抜けるのだ。デニムでやると膝の形が汗でクッキリ出てしまいダサくて写真どころの話ではない。


波多野の球を受ける。


駅までチャリで風を切る。明の心は弾んでいた、中学以来ピッチャーの球を受けていない。予備校で波多野に会えた時の予感が本当になった。今日はあの頃の野球の楽しさや、嬉しさに戻れるような気がしていた。


今日はシニア時代のキャッチャー装備をフル装備である。ピッチャーの投げる硬球は頭に当たるとマジに危ない。明にしても高校球児までやった波多野の球は未知数。


シニア時代の波多野の球しか知らない。フル装備は当然なのだ。

特等席用サービスにキャッチャーマスクを一つ余計に持ってきていた。



着いて電車を待つ。朝早くからもう夏の匂いが充満し肌を焼く。


三保さんが明の前に滑って来た。いつもの通りドアが開く前に小さく手を振ってくれる。一人で居ると無味無臭な意味のない風景が、二人居るだけで色づいて見える。良く言う日常の幸せってコレかも?とふと思う。


「おはよう!」ラッシュアワーの電車に無理やり潜り込むと網棚にベースボールバッグを押し上げた。


いつもの三保さん包囲網だ。

胸の中に小さくなって入ってくれる。マジ嬉しい。これさぁ、絶対分かっててやってるんだよ?分ってなかったら三保さんの頭を疑う。(とても失礼である)


俺も解っててやってるけどさぁ、人の事言えないけどさぁ。

おかしくない?絶対おかしいよ(笑)


最初に襲っていた腰グイグイよりはよっぽどマシだけど・・・これは変だ!と満員電車でもツッコミ入れたい。


という考えは置いといて、話を進める。



「おはようー、昨日は盛り上がったねぇ」

「あれ22時ごろ気が付いて大ウケだった」

「神谷君があんなの貼るから(笑)」

「0時に見たけどログが流れまくってた(笑)」


「女子グループで服部さんが笑い狂ってたわよ」

「男子グループは一切発言無いけどね(笑)」

「貼られた写真の品評会みたいになってた(笑)」


「マジで?それも面白そう」

「橋本さんも大はしゃぎだった」


「なかなかグループでそんな写真撮らないしなぁ」

「そうよ!そうなの!」


「息抜きより高三の記念になりそうだよね(笑)」

「そうよ、気合入ってるわよ。お昼とか用意だし」


「え?」


「箕輪さんと橋本さんて普段お弁当でしょ?」

「うん」


「多めに作って、屋上で食べることになってるの」


「皆の分あるの?」

「二人がおにぎり一杯作ればなんとかなるって」


「あ!そうか!おにぎりか」

「服部さんも鮭があったからおにぎり作るって」


「相当盛り上がったね」

「勉強の暇ないほどに(笑)」

「おいおい」


「あ!足りないといけないから一品何か買ってきてって」


「了解、何か大きいパンでもコンビニで買うよ」


「飲み物は自販機でいいしね」

「階段で食べるか、冷房少しはあるし」


「うん、一応お弁当並べるシートは持って来た」

「うわー、男子喜ぶぞ!女子の手作り」


「でしょ、でしょー?」

「男子に売れるぞ!」


「神谷君、オークションで売るとかそんなのばっか(笑)」

「冗談だよ、面白いだろ?」


「イケメン文化部の炎天下の汗はウケた(笑)」


「部活で野郎とまれりゃそんな冗談ばっかだ」


「神谷君のそれ分る。普通の男子じゃないもの」

「そんな違う?」


「違うよー!分ってないの?」

「そんなの分んねぇよ(笑)」


「痴漢の時さぁ・・・」

「痴漢?」


「歳が倍以上の人、にらんで黙らせる高校生っていないよ」


「あの時?」

「あの時」


「良いこと悪いことの境界に歳は無いからなぁ」

「そうそう、そんなとこ」


「ん?」


「普通そういうの言わないから(笑) そこまで結論になってないからね」


「え?みんな分るよな。知らない訳ないよな?」


「誰でも分かるよ、分っていても答えは出ないの。動けないの」


「んー、見えてないのか」


「見えてるわよ!(笑)」胸をビシっと突つかれた。



視えていた、歳が倍以上のおっさんに触られて怖くて怖くて動けない三保さんが。


まだ三保さんには「大人の言う事は聞く」みたいな呪縛じゅばくがあった。


幼稚園の先生。小学校の先生、中学校の先生、高校の先生、親、友達の親、18歳まで大人の言う事を聞いてきた。善良な大人の言う事。迷わず従った。言いつけも守って来た。そう過ごしてきた。


そんな中で電車の痴漢。今までとは違う悪意を持った大人との接触に頭は動いても身がすくんで動かない。混乱して何度もこれ痴漢?と確認はする。でも叫ぼうとしても声が出ない。驚きもあるが何をされるか分からない怖さが恐れを加速していた。イメージを共有してどれ程も怖がっていたのか初めて分かった。こんなに天真爛漫てんしんらんまんな子がそうなるのだ。


「分っていても答えは出ないの。動けないの」


その通りだった、言葉がすべてを表していた。



そして同じ高校三年生である明が、悪意を持って害を成す大人を眼力で圧倒し、そのまま制圧する姿に軽いカルチャーショックを受けた。


神谷を知りたかった。その強さを学びたかった。


(以前視たのはこの辺だった、何も引っ掛からないからそのまま表面しか視てなかった・・・)


三保さんの言いたいこと、全て分かったからね。


気付かずにごめんね。



最初に会った時の違和感が完全に溶けて行った。



今、この時間。


三保さんは胸の中で色々喋ってくれている。


今日のおかずの話をしてる。


焼いたベーコンから出た凄い量の油の話に興味があるんじゃない。三保さんの周りにある話なら何でもいいんだ。そんな話をずっとして欲しい。いつまででも聞いていたい心地よい空間。


近くでとりとめのない会話してくれるのが嬉しいんだ。これほど近くで話しかけてくれる人がいるだけで嬉しい。


一人でいる事が寂しい訳じゃない。

でも二人でいる事も心地よい。


一人でいる事は慣れているけれど。

一人でいると話せない。


一人で居る時間が長かった。

一人でいると二人目を大切に出来るよな?


まだ実感無くて薄い話だな。

気になったらそのうち分かるかも。


俺も三保さんも一人じゃ無くて家には家族がいる。

家族の絆で安心できる場所がある。


でも、満員電車の中だから・・・。


家族よりも近い位置で話しかけてくれる三保さん。安心してるからが生まれる。家族と同じ会話が生まれる。


三保さんはとても安心してくれている。


男同士だと要件話して目で会話する。

余計な気遣いは男の場合失礼だからだ。


大事な場面で気遣いされるとプライドにくる。


相手の意気をむ会話ばかりしてきた。

俺たちはそれで乗り切って来た。


そんな男にも惚れる。けど女にも惚れるよな。

どうでもいい話を耳にしてるだけでこれだけ安らぐ。


夏の日差しがドアの窓から降り注ぐ。

俺の壁ドンの中だけ時がゆっくりと動いている。


実感して解る。男はこの安らぎを求めるんだ。

これを知ったら求めずにはいられない筈だ。


そこにいてくれるだけの感謝。

料理の話で満たされて行く。


安んずる心が並んでる。

俺は知らなくても心が知っていた。





次回 第38話 手作り弁当  

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