第11話 私達の理由(3)

 出発の時間が来た。身だしなみを整え、鏡の前で深呼吸して気合を入れた俺に、林檎嬢はそっと自分のスマホを差し出してくれた。


「パスは誕生日だよ」

「君の?」

「ううん。なぁちゃんの」


 えへへ、と彼女は恥ずかしそうに笑った。毎日のように動画再生や電話に使ってきた彼女のスマホだが、俺が自分でロックを解除するのは初めてだった。

 ナナの開かずの八桁よりずっと単純な四桁のパスコード。1107と指を走らせると、見慣れた林檎嬢とナナのツーショットの待受画面が現れた。

 ナナのスマホが相変わらず開けない今、このスマホが今夜の戦いの切り札だ。


「よし……」


 ラインも見られるし、カメラも動く。SHOWショーROOTルートの配信画面も開ける。

 どういう技術でこのサイズにこれだけの機能とバッテリーが詰め込まれ、どんな原理で瞬時に世界中と交信できるのか、相変わらず俺にはさっぱり分からない。理屈を重んじる海軍士官としては、仕組みも分からない武器を使うのは気持ちが悪いが。

 しかし、とりあえず引き金を引けば弾は出る。戦場ではそれだけ分かっていれば十分だ。


「行ってくる」

「……やっぱり、わたしも付いてっちゃおうかな」


 林檎嬢はふいに俺の袖を引いてきた。いつになくいじらしい上目遣いで、彼女は俺の目をじっと見ていた。


「切った張ったの戦いになるかもしれない。君は銃後で勝利を祈っていてくれ」


 俺がまっすぐ目を見返して言うと、彼女は唇をぎゅっと結んで、小さく頷いた。


「……うん、わかった。じゃあ、マキナちゃんと一緒にSステ見てる。無事に帰ってきてくれるよね?」

「ああ。必ず」


 最後は笑顔で手を振り合い、俺は部屋を出た。

 マンションの廊下を行く足音がいつになく軽やかに耳に響く。飛羽隼一としての使命と大和ナナとしての使命、二つの思いが俺の身体を戦地へ駆り立てていた。

 出番までには全てを終わらせ、選抜のステージも立派にやり遂げてみせる――。


「ナナ、ショートにしたの!?」

「ちょっとしたケジメというやつです」


 俺の髪型を見て驚くマネージャーを横目に、迎えの車のスライドドアを引く。

 雲の合間には眩しい太陽が顔を覗かせていた。髪を切り落として軽くなった俺の横面を、涼やかな風がさっと吹き抜けた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 テレビ局のスタジオは前日リハの何倍も慌ただしかった。本番の衣装を纏っての最後のリハーサルに、出演アーティストも裏方のスタッフも戦場の歩兵の如く駆け回っている。

 俺達が纏うのは、今夜のSステ専用にあつらえられたサイケデリックな花柄のワンピース衣装だ。無論、スカートの下には二重三重に防御がなされているので、どんな立ち回りを演じることになろうとも心配はない。

 せわしない動きの合間を縫って、朱雀先輩ら選抜の面々はナナの「イメチェン」に口々に反応してくれた。そんな中、やはり棘のある目で俺を見てきたのは、センター専用のレモンイエローの衣装を着た黎音りおんだった。


「りーおん、振り回して本当にすまない。私は……」

「髪切ったって、わたし許さないですよ」

「わかってる。それでも、申し訳ない」


 小柄な彼女の正面で俺は深く頭を下げた。黎音は三秒ほど黙っていたが、ややあって「顔上げてください」と俺に言い、抑揚の乗りきらない口調のまま続けた。


「……今日はヨロシクお願いします」


 申し訳程度の目礼。これが今の彼女が譲ってくれる上限に違いなかった。

 そして、エイトミリオンの最終リハーサルの順番が回ってきた。本番さながらの照明と音響に囲まれ、最後の調整が始まる。

 指宿リノ閣下を筆頭に、羽生はにゅうマユ先輩ら名だたる七姉妹セブン・シスターズの女神達とも入り混じり、俺は昨日覚え込んだ「羽根があるなら」の振りを必死になぞった。指の先、爪先にまで気合を込め、この場の誰にも負けるものかという勢いで。

 このステージに立つはずだったマキナのために。そして、ナナを応援してくれる全ての人のために――。




 熱波の最終リハが終わり、生放送の幕開けまで数十分を残すのみとなった。

 聞けば、あとで板橋先輩が陣中見舞いに来るという。彼女にも一昨日の電話での非礼を詫びたかったが、しかし、今はそれより優先すべきことがある。

 束の間の休憩に沈む皆の隙をついて、俺は自分の上着と林檎嬢のスマホを握り、そっと楽屋を抜け出した。

 本番前の僅かな隙間。出演アーティスト達にとっては最も緊張が高まる時間であり、同時に最も他者の動きが気にならなくなる時間でもある。奇襲に打って出るならこのタイミングしかない。


(閣下が作ってくれた絶好の機会……無駄にしてなるものか)


 ギャルソン事務所の古株にして、現役のソロ・アーティストであるあの男も、今夜のSステに呼ばれている一人だった。指宿閣下はそれを把握した上で俺に戦いを促したのに違いない。

 敵は今、他の出演者と同じように楽屋で本番を待っているはず。

 だが、彼に本番が訪れることはない。なぜなら、今から俺が彼の悪事を暴くからだ。


「林檎さん……力を借りるぞ」


 衣装の上から上着を羽織り、スマホを胸ポケットに突っ込む。カメラのレンズが外に露出するように、入念に向きを確かめて。

 あの男の名が貼られた扉の前に立ち、俺は深く息を吐いて気持ちを落ち着けた。周囲の廊下には誰もいない。意を決し、俺は扉をノックする。


「……どうぞ?」


 男の声がした。かちゃりと扉を引き、俺はいよいよ敵陣へと足を踏み入れた。


草加くさかさん。本番前に失礼します」


 なるべくアイドルらしく見えるように微笑を作り、俺は彼に向かって折り目正しく挨拶をした。彼は椅子に深々と腰掛けたまま、ちらりと視線を上げ、手にしていたスマホを卓上に置いた。

 オールバックの黒髪に、うっすらとひげをたくわえた口元、そして鋭い眼光。「Jの方程式」を牛耳るあの草加だ。


「すみません、お忙しかったですか」

「いやいや。ちょっと面白い動画を見てたんだ」


 二人きりの楽屋、数メートルの距離を挟んで俺と草加は向き合った。俺が後ろ手で扉のつまみを回して鍵を掛けると、草加はぴくりと怪訝そうに眉をひそめた。


「で、誰かな、お嬢さんは。エイトミリオンの子かな。僕に何の用だい」

「お願いがあって来ました」


 スマホを忍ばせた胸ポケットの奥で心臓が早鐘を打つ。俺は固唾を呑んで草加の前に歩み出た。ここで演技を悟られないかが勝負の分かれ目だ。


「草加さんは、と聞いています。……私の仲間が、ギャルソンの方達との関係に苦しんでいます。どうか、草加さんの力でそれを止めてください」


 俺が言うと、草加はゆっくりと椅子から身を乗り出し、慎重に値踏みするように俺の全身を見た。

 ……そうだ、上から下まで見るといい。下ろしたての衣装に、メイクさんが念入りに施してくれた化粧。魅力がないとは言わせない。


「もちろん、タダでとは言いません。短髪ショートがお好みとお聞きしたので……決意のつもりで髪を切ってきました。私を好きにしてくれて構いません」

「……なるほど。君が何しに来たのかはよくわかった」


 彼はふっと息を吐いて、欧米の俳優のように大げさに肩をすくめてみせた。


「だけどね、大きな誤解があるよ。若い連中の夜遊びには僕は無関係さ。たしなめてはいるんだけどね、なにぶん彼らはヤンチャだから。君達には申し訳ないと思ってるよ」


 おもむろに椅子から立ち上がり、彼は一歩近寄ってきた。この時代の成人男性としては高い方ではない、しかし明らかにナナよりは大きいその体躯が、ぬっと俺を見下ろしてくる。


「それともう一つ。残念ながら、僕は君が思ってるほどボンクラじゃないんだよ。……だから」


 俺がハッと目を見開いたときには、既に彼の手が俺の胸ポケットに伸びていた。


「こんなドッキリカメラには引っかからない」

「っ……!」


 がしりとスマホを掴み取り、画面を見たかと思うと、草加はもう紳士の声色を取り繕うのをやめていた。


「何だ? 点いてねえじゃねえか」


 表情までもを醜悪な笑みに豹変させた彼は、俺から奪ったスマホを無造作に床に放り捨てると、その拳を何の躊躇ためらいもなく俺の腹に叩き込んできた。


「ぐっ……!」


 覚悟していた痛みと衝撃が全身に走る。部屋の扉に背中から叩き付けられ、俺はずるりと扉を背に崩れ落ちた。苦しみの中で顔を上げると、草加がにやにやと笑いながら歩み寄ってくるところだった。


「こんな小細工で俺を嵌めようとしたか? 舐めてんじゃねえぞ、ガキ」


 草加は俺の首元をがしりと掴んで持ち上げ、空いた腹に膝蹴りを食らわせてきた。再び意識の遠のくような痛みが俺を襲い、かはっと苦しい息が口から漏れる。俺は床にうずくまり、それでも彼を見上げた。


「お願いします……。私はどうなってもいい。だから、他の子達のことは、これ以上苦しめないで……」

「バァァカ! お前みたいな顔も知らねえ雑魚メン、この俺が相手にするかよ! 俺に捧げ物したきゃなぁ、日本橋の新井マイでも連れてこい!」


 俺の頭髪を引き掴み、草加は俺の上体を無理矢理に引き起こした。垣間見えた彼の顔は、思うがまま暴力を振るえる愉悦に酔っていた。


「だったら、どうしてマキナを……」

「あぁ!? 小僧どもが誰を引っ掛けるかなんざ俺がいちいち知るかよ。俺は奴らの上げてくる獲物を物色するだけだ。つうか、最近はロクなのがいねぇなぁ、お前ら。天下のエイトミリオンも落ち目かぁ!?」


 続けて顔の上半分を手で覆われ、俺は後頭部を壁に打ち付けられた。草加の太い指が両のこめかみをぎりぎりと締め付けてくる。涙に視界が歪むのを感じながら、俺は激痛の中で言葉を絞り出した。


「顔はやめてください……本番前なんです」

「あぁ? 出れると思ってんのかよ。お前は不慮の体調不良で欠席だ。これから若い奴の相手をさせてやるよ。今夜にはイケナイ写真がネットに出回ることになるぜ。良かったなぁ、仲良しのマキナと一緒にスプリング行きだ!」

「こんなことして……警察に訴えますよ」

「めでてえガキだな、警察が万能だとでも思ってんのか。傷物にしなきゃ証拠も残りゃしねえ。立証できなきゃなあ、事件なんか無いのと同じなんだよ!」


 下品な高笑いを上げ、草加は俺の頭を再び壁に打ち付けた。彼は明らかに手慣れていた。外傷を残さない範囲で責め苦を与えることに。

 この男は幾度もこうして皆を苦しめてきたのだろう。時には暴力に訴え、時には精神を追い込んで。

 これまで何人の夢追う女子達が、彼とその手下の若手達に人生を狂わされてきたのか……。

 何度も頭を壁に打ち付けられ、くらくらと弾け飛びそうな意識の中、俺は名も知らぬ先輩達の無念を思った。ばちり、と、俺の心の中に熱い火花が弾けた。


「俺に何かされたとかなぁ、ふざけたこと抜かしてみろ、逆にお前を名誉毀損で訴え返してやるからな。俺に逆らってアイドルなんか続けられると思うなよ!」


 とどめとばかりに、草加は脅しの言葉を吐き捨ててきた。

 ……ここらが潮時だろう。

 


「言いたいことは、それだけか?」


 か弱いアイドルの声を作るのをやめた俺に、草加は一瞬だけぎょっとしたように見えた。その一瞬の隙があれば十分だった。

 顔を掴んでいた彼の手首をぱしんと叩いて払い、すかさず人差し指を掴んで捻り上げる。草加は反射的に腕を引いた。その表情が驚愕に歪むのを見て取り、俺は撥条ばねの如く跳ね起きて彼の鳩尾みぞおちを蹴り上げる。誰かさんの下手糞な殴りや蹴りと違い、ナナの身体を借りて繰り出す一撃は的確に人体の急所を射抜いた。


「がはっ……! て、てめえ、この――」


 腕力に物を言わせて殴りかかってくるのをかわし、相手の肘の内側、手三里てさんりの急所を片手で掴んでやる。彼が怯んだ瞬間、気の毒だと思いながらも、俺は彼の金的を思い切り蹴り上げてやった。男なら誰もが知る激痛に身悶え、彼はよろよろと後退して壁に背中をぶつけた。


「悪いな。女子だから男のルールは通じないんだ」


 そして、うずくまる彼の眼前で、俺は衣装のベルトの後ろに挟み込んでいたをすっと引き抜いた。


「な……!?」


 草加が目を見開く。俺はずきずきと痛む腹を空いた手で押さえながらも、もう片方の手で握ったスマホのレンズをしっかりと彼に向け続けた。

 床に転がっているのは、どうせ開けないナナのスマホ。俺の手に今握られている林檎嬢のスマホこそが、今夜の切り札、その本命だった。


「ここまでの会話は全部押さえた。世間が知ったらどうなるかな」

「てめぇ、ナメた真似しやがって! そっちのスマホもぶっ壊せば終わりだ!」


 彼が逆上して掴み掛かってくるのをひらりと避け、その顔をカメラに収める。

 俺から見えるには、無数のメッセージがリアルタイムに流れていた。


「これマジ!?」「流石にヤラセだろw」「大物来た!」「何で草加出てんの」「演技力すげぇ」「これも康元原作?」「マキナとか実名出てんじゃん」「これマジでやってんの?」「放送事故」「今Sステの本番前じゃね」「とにかく拡散しとけ」「はいはいヤラセヤラセ」「まさかのマキナ被害者説」「エイトミリオン始まって以来の祭り」「地下の勢いやべーぞ」「握手会の事件超えたな」「ヤラセにしてはエグすぎる」「視聴5万人超えたw」「誰か110番しろよ」「【速報】マキナ白」「祭りと聞いて」「草加の慌て方が演技に見えない」「おいSステどうなるんだこれ」「坊主以来の衝撃」「草加メンバー逮捕くるか」……。


 もう十分だと判断して、俺は草加にぽんとスマホを放り渡してやった。それを掴み取り、画面を覗き込んだ彼の顔が、刹那の内に戦慄に引きった。


「何だ、これ……」

「知らないのか? SHOWROOTって言ってな。アイドルの姿と言葉を全世界に生配信できる優れ物だ。……新しい技術に適応するのは、ちょっとばかり得意でね」


 草加の顔が見る見る青ざめていく。口元に滲んだ血を拭い、ふっと笑って俺は言った。


「今更そのスマホを壊したところで、既に数万人の視聴者がお前の自白を聞いてる。お前はもう終わりだ」

「ぐ……こ、こんな……!」


 そこで、外から扉をドンドンと叩く音がした。「草加さん、ちょっと話を!」――スタッフらしき声が聞こえ、がちゃがちゃとドアノブを回す音も響く。


「クソォォ! ガキが、ふざけやがってぇ!」


 無駄だと言ったのに草加はそれでもぶち切れ、林檎嬢のスマホを部屋の窓に向かって投げ付けた。ばりんと甲高い音を立ててガラスが割れ、スマホは屋外へ落下した。

 ここは六階だったか。スマホの破壊は免れないだろう。

 だが、今や彼の悪事は地球の裏側までも伝わっているはずだった。大部分は音声だけとはいえ、女子を食い物にしてきたことの自白、そしてナナへの暴力。これだけの証拠を上げられては、もはや誤魔化し切ることは不可能だろう。


「開けてください、草加さん! 中で何をしてるんです!」


 外のスタッフの声が一際大きくなった。「君、一応警察も呼んどいて」――そんな指示も聞こえる。

 勝った、と俺が思った、そのとき。

 壁を背にへたり込んだ草加が、ふいに品の悪い笑い声を上げた。


「ははっ、これで終わりと思うなよ! こっちはお前らに何だって出来るんだからな!」


 完全に開き直った調子で、彼は俺をびしりと指差し、くくっと口元を醜く歪ませる。


「最近裏でコソコソ手を回してやがった、お前のお仲間のって奴も……ははっ、今頃、若い連中に囲まれて泣き叫んでるところだ。お前もさらって回させてやるよ!」

「は……?」


 俺は緊迫感を一瞬忘れ、首をかしげていた。


「大和ナナは私だ。お前、何を言ってる?」

「はぁ?」


 今度は草加が間抜けに首をかしげる番だった。卓上に手を伸ばして自身のスマホを掴み、画面を数秒覗き込んだかと思うと、彼はそれを俺に向けてきた。


「じゃあ、コイツは誰だよ」


 たちまち嫌な胸騒ぎがして、俺は食らいつくように彼の手元に顔を寄せた。スマホには、髪を明るく染めた若い男達の動画が映っていた。


『草加さぁーん、ハイエースしましたよ! 大和ナントカってヤツ!』

『上納コースか、俺らで楽しんでいいのか、教えて下さいよぉ!』


 それは生配信ではなく録画された動画のようだった。男達がげらげらと笑いながら身を引くと、そこには後ろ手に拘束された女子の姿があった。


「!」


 がくりと膝を折り、俺はその場にくずおれていた。衝撃と絶望がわなわなと心を侵食し、目の前が真っ白になる。

 ガムテープで口を塞がれ、両目に涙をためて恐怖に震えるその姿は――


「林檎さん……!」


 この世で最も失いたくない、彼女に他ならなかったのだ。

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