第11話 私達の理由(2)

 翌日は朝から曇天だった。三日ぶりにジムでのトレーニングに赴き、身体の調子を確認した俺は、林檎嬢の笑顔に見送られて迎えの車に乗り込んだ。

 ワンボックスカーのハンドルを握るマネージャーは、特に叱るでも慰めるでもなく、普段と変わらない調子で俺と接することに努めてくれているようだった。


「……青春に回り道は付き物、か」


 ただ一言、彼女が独り言のように発した言葉だけが、俺の心の表面をさらりと撫ぜた。




 首都高速を二十分ばかり走り、車はテレビ局の地下駐車場へと滑り込んだ。

 メンバーと顔を合わせたらイの一番に謝ろうと決めていたが、楽屋で真っ先に会った朱雀先輩は、頭を下げるいとまも与えない勢いで矢継ぎ早に言葉を繰り出してきた。


「来てくれてよかった、ナナ。ていうか早くライン見れるようにしなってば。さっき、指宿いぶすきさんが、屋上で待ってるって言ってたよ」

「はい。あの、私は……」

「謝るのは後でいいからー、行っといでー」


 リハーサルの開始まではまだ少し時間がある。室内の先輩達への目礼も早々に、俺はエレベーターへと走った。

 エレベーターに乗り込み、もどかしく階数表示を見上げる僅かな時間。閣下と初めて会ったときも病院の屋上で話したな……と、俺は遠い昔のことのように思い出していた。

 扉が開き、曇り空を戴く屋上に出る。

 果たして、女王指宿リノはその場所にいた。他に誰もいない緑のテラスに立って腕を組み、あの日のように黄色い上着を風になびかせていた。


「あなたが今日来るかどうか、康元さんと峯波みーちゃんとわたしで賭けようとしたの」


 開口一番、閣下は微かな笑みを口元に含ませて言った。


「でも、絶対来るって三人とも言って、賭けにならなかった」


 女王の漆黒の瞳が俺を見ている。その目は笑っていたが、とても笑い返す気にはなれなかった。

 俺は彼女と数歩の距離を保って立ち、少し考えてから口を開いた。彼女の言葉に焚き付けられてここに来たのだとは、まだ認めたくなかった。


「私が出なければ、沢山の人に迷惑がかかります。だから来たまでです」

「そう。じゃあ、Sステが終わったらどうするの?」

「……わかりません」


 言いながら、手のひらに滲む汗を俺は指先で拭っていた。

 彼女と刺し違える覚悟で来たはずなのに、ごく僅かな言葉を交わしただけでもう返事に窮している自分がいる。本当に彼女と戦うことなどできるのだろうか――と、俺が身を縮こまらせかけたとき、彼女は俺に掛けた金縛りを自ら解くかのように再びふっと笑った。


「まあ、いいわ。あなたの人生はあなたの好きにしたらいい。だけど……最後に一つだけ、わたしの頼みを聞いてくれない?」

「頼み?」


 俺は思わず目をしばたかせていた。そんな単語が彼女の口から出るとは思いもよらなかった。

 なぜ自分にそんなことを……。そう聞きたい俺の胸中を見透かしたように、彼女は風を受けるように腕を広げてから、その両手を無造作に上着のポケットに突っ込み、まっすぐ俺の目を見て続けた。


「なんでお前みたいなのが一位なんだって、わたしを罵倒する人は沢山いた。……だけど、わたしのスキャンダルを知って本気で怒ってくれたのは、この四年間であなただけだった」


 俺の目を真正面から捉えてくるその双眸そうぼうに、孤独の色が一瞬差したように見えた。


「あなたになら委ねられる。エイトミリオンのために戦ってほしい」

「えっ……」


 思ってもみなかった言葉に、俺はしばし口を開いたまま固まる。

 閣下はポケットに両手を隠したまま、こつり、と一歩だけ俺との距離を詰めてきた。


「気付いてるでしょ? ギャルソンのガールハントは若手が勝手にやってるんじゃない。裏で糸を引いてるのは、司会者のあの男だってこと」


 その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、テレビで見たあの壮年の司会者の姿が俺の脳裏に蘇った。


「……そんなところだろうとは思っていました」


 俺は正直に答えた。草加くさかとか言ったか、あの司会者が全ての黒幕なのは、マキナの話を聞いた時から薄々勘付いていたことではあった。

 簡単なことだ。もしあの司会者が清廉潔白な人物なら、己の番組を利用して若手が好き勝手やるのを見逃すはずがない。また、そもそも若手の側も、ギャルソン事務所の大先輩の顔を潰すような真似を勝手にできるはずがない。

 現に事件が起きているなら、それはつまり、間違いなく上もグルだということだ。


「じゃあ、これは知ってる? スプリングの編集部って、意外と紳士なのよ」

「……?」


 言葉の意味を測りかねて俺が首をかしげると、彼女は天気の話でもするかのような口調でさらりと言った。


「昨日、康元さんと一緒にスプリングに寄ってきたの。……約束してくれたわ。確かな証拠さえ押さえられるなら、あっちを切ってエイトミリオンの味方をしてもいいって」

「確かな証拠……」

「そう。証拠もなしに切り込むには、あの司会者は大物すぎる。だから今までスプリングも手を出さなかったってわけ」


 どくん、とナナの心臓が一際大きく打つのを感じた。

 閣下は俺の知らないところでそんな動きをしてくれていたのか。では、彼女が言う、「エイトミリオンのために戦え」というのは……。


「私に、その証拠を上げてこいと?」


 口の中の乾きを感じながら俺が問うと、彼女はこくりと頷いた。


「表立って追及しても、あの男はシラを切って逃げるでしょう。悪事を白日のもとに晒すには証拠が要る。それには……」

「……被害者の証言だけでは足りない」

「そうよ。たとえ被害者が全てを暴露しても、証拠がなければ、きっと大人はそれを黙殺する。警察だって簡単には動いてくれない。男と女のことなんて、些細な行き違い、勘違いも多いから……って」


 滔々とうとうと語る彼女の言葉に、俺も自然と頷きを返していた。

 この時代の刑事司法がどんな仕組みかは知らないが、実際、マキナの受けた被害をちゃんと立件してギャルソン達を罪に問えるのかは怪しいところだろう。それに、下手に警察など頼ろうものなら、奴らの仲間による報復も待っている……。


「世間だって、皆が被害者の味方をしてくれるわけじゃない。この子の言ってることは本当なのか、被害妄想なんじゃないかって叩かれて、きっとその内に有耶無耶にされておしまい。そして最後はその子自身がグループを去るしかなくなる。……あの子達も、そうなるはずだった」

「あの子達……?」


 ええ、と答えて、彼女は遠い目で曇天を見上げた。


「わたしが移籍する少し前のことよ。ギャルソンの男達の一部が、当時まだ出来たばかりだった博多エイトミリオンに目をつけた。一期生の若い子達ばかりで、誰も見守る者がいなかった博多にね」


 聞きながら、俺は頭の中で歴史を辿った。博多エイトミリオンの結成は二〇一一年秋。結成時の人数は二十名強、平均年齢は十五歳を下回っていた。


「一人、また一人……テレビの小さな共演を切っ掛けに、脇の甘い子達が何人もギャルソンの毒牙にかかっていった。運営がやっと事態を把握した時には、中学生や高校生の子達の、とても表には出せない写真が、男達に握られてしまっていた」

「……彼女達も、マキナと同じように脅されたのですか」


 閣下は、静かに頷く。


「食い物にされた五人は、勇気を出して全てを告発しようとした。……だけど、どうしたって勝てないのよ。経緯がどうあれ、彼女達がをしてしまったのは事実で……その写真は、もうスプリングに渡っちゃってたんだから」


 ぞくりと俺の背筋を悪寒が撫ぜた。従わない者はスプリングに売ることで意趣返しをする……マキナの語った手口と同じだ。


「男達はその子達個人を食い物にしただけのつもりだっただろうけど、あんな写真がメディアに出たら、彼女達の首だけじゃなくグループ自体の存続まで危うくなる。……だから、わたしはスプリングと取引したの。ただのヘタレだったわたしをアイドルにしてくれたエイトミリオンを、守るために」

「取引……」


 俺は無意識にその言葉を繰り返していた。まさか、俺が見たあの記事は――。


「スプリングは、わたしの元彼っていう架空の人物を作り上げて、わたしと口裏を合わせた話を記事にした。五人の写真を永遠に握り潰すのとトレードでね。……結果、記事は売れに売れて、スプリングにもウィンウィンだった。あの人達、良くも悪くも利益が全てなのよ」


 軽く揶揄するように彼女は言ったが、それが笑って済ませられるような話ではないことは当然俺にも分かっていた。

 あんな不名誉な醜聞を、この方は、自ら……。


「博多の子達はグループを辞めることになったけど、写真は表に出ないで済んだ。元々九州の出身だったわたしは、康元さんの計らいで博多の立て直し役として送り込まれて、抜けた五人の思いも背負って戦い続けることになった……。……これが、世に言う『指宿の乱』の真相よ」


 閣下は長い告白を終えた。俺は全身を襲う戦慄にただただ耐え、じっと彼女の前で目を見開いていた。とても言葉が出なかった。

 それほどの過去を背負って彼女は走り続けていたのか。人知れずグループを守った功績を誰にも知られることなく、スキャンダルの汚名を一手に背負い、心無い者達からの罵声にも耐えながら。

 そんなこととは露知らず、俺は彼女に非礼を……。


「指宿閣下……。私は、あなたに……」


 俺の謝罪しようとする声を遮るように、こつり、と、閣下はもう一歩俺に歩み寄ってきた。手を伸ばせば届く距離まで。


「このことは墓場まで持っていくつもりだった。あなたにだけ話したわ」


 息のできない真空の宇宙に連れ出された感覚。彼女の黒い瞳の奥に、俺は深遠の銀河を見た。


「あなたに救える? わたし達のエイトミリオンを」


 その重力に引き寄せられるように、俺は知らぬまに答えていた。


「……必ず。命に代えても」


 熱い血潮が全身を駆け巡るのを感じる。眠っていた内燃機関エンジンが駆動を始め、俺の中で轟々と唸りを上げている。

 今や、この世界で自分のやるべきことがはっきりと見えた。きっと、この役目を果たすために、俺の魂は大和ナナの身体に宿ったのだ。


 気付けばリハーサルの時間は目前に迫っていた。閣下に促されるがまま、俺は彼女と並んで下りのエレベーターに乗った。


「しかし、戦う気があるなら来いと仰るので、てっきりあなたと対決しろということかと」

「そんなの八百万年早いわよ」


 指宿閣下は俺の顔を見てふっと笑った。初めて一人の人間同士として笑い合えたように思えた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 怒涛のリハーサルを終え、木津川先輩や朱雀先輩達に入念にダンスの振りをチェックしてもらって、俺がマンションに帰り着いたのは深夜のことだった。リハーサル中、黎音りおんにはまともに口を利いてもらえないままだったが、これからの活動で取り戻すしかないと思った。

 劇場公演を終えて帰ってきた林檎嬢と遅い夕食を摂り、入浴後には最早慣れたスキンケアをして、俺は彼女と一緒のベッドに入った。ここ最近は他愛もない会話をしながら自然に寝落ち(こんな言葉も俺の時代にはなかった)することが多かったが、今夜ばかりは、彼女が先に眠りに落ちるのを待ってから心の中でしっかりと五省を唱えた。


 至誠しせいもとかりしか。言行にづるかりしか。気力にくるかりしか。努力にうらかりしか。不精ぶしょうわたかりしか……。


 士官として、エイトミリオンのメンバーとして、俺がなすべきことは一つしかない。

 微睡まどろむ意識がいつしか眠りに落ち、そして一晩が過ぎてからも、俺の決意は変わらなかった。


 だから――

 翌朝、日の出とともに目を覚ました俺は、迷わずはさみを持って洗面台の鏡の前に立っていた。


 ――もしや、板橋先輩も?――

 ――ヘタレ役のわたしに、バラエティ班の峯波みーちゃん。アイドルのメインストリームから外れたわたし達が、グループのためにできることなんて、身体を張ることくらいじゃない?――


 エレベーターを降りる間際に指宿閣下と交わした言葉が、今も鮮明に鼓膜に残っている。

 閣下はどんな思いで汚名を被って博多に行ったのか。板橋先輩はどれほどの決意で頭を丸めたのか。

 先輩達が身を挺して守ってきたエイトミリオンのために、飛羽隼一には、大和ナナには、今何ができる?


「ちょっと、なぁちゃん! 何してるの!?」


 普段はこんな時間に起きないはずの林檎嬢が、ぱたぱたとスリッパの足音を鳴らして止めに来た。彼女なりに胸騒ぎを感じ取ったのだろう。だが俺は、彼女の慌てた顔を鏡越しにちらりと見てから、左手で掴んだ髪に敢えて躊躇ためらわずはさみを入れた。

 じゃきんと乾いた金属の音が響いて、ナナの左の横髪が、ばさりと洗面台に落ちる。


「なんで切っちゃうの!? 大事にしてた髪なのに!」


 林檎嬢は後ろから俺の肩を掴んで揺さぶってきた。俺は振り向き、まっすぐ彼女の目を見て言った。


「男というのはな……本当に大事なものを守るためなら、身体を張るんだよ」


 まだ困惑している彼女の目の前で、俺はもう半分の髪に鋏を入れる。

 そのまま後ろ髪も切り落とし、軽くなった頭を左右に振ると、思考までも澄み渡るような気がした。


「林檎さん、君のスマホを今日一日貸してくれ。悲劇の連鎖にカタをつけてくる」


 えっ、と声を上げる林檎嬢に、俺は努めて優しく微笑んだ。

 今夜はSステ――エイトミリオンとギャルソンが居合わせる生放送の歌番組。十六名の選抜メンバーによる最新シングルの初披露。それまでに全ての決着を付けてみせる。

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