第11話 私達の理由(1)

 それから一晩が明け、二晩が明けても、俺の心は晴れることを知らなかった。何度もナナのスマホが鳴ったが、どうせ出られないので放置していた。

 辛くなるなら見ないほうがいいと止める林檎嬢に無理を言って、タブレットに古いスプリングの記事を表示してもらい、俺はあのチンピラの言葉に嘘がなかったことを知った。「指宿リノは肉食女子でした」――その見出しに続く本文は、ヘタレキャラと呼ばれたかつての彼女の、ファンには見せない裏の顔を赤裸々に伝えていた。

 だが、こんなもの大本営発表と同じで、所詮は都合のいいことしか書かれない。結局、本人の口から出た言葉こそが真実だろう。


 ――記事に出たことが全てよ。皆知ってる話だしね――。


 彼女に記事の件を問い質したあのとき、俺はきっと彼女がその内容を否定してくれるのを期待していたのだ。「こんなの信じるなんて愚か者のすることよ」とでも言って、一笑に付してほしかったのだ。彼女が一言そう言ってくれれば、俺はスプリングなどより彼女のことを信じる準備をしていたのに。


「……ただいま」


 かちゃりと玄関の扉が開いて、林檎嬢がマンションの部屋に帰ってきた。人感センサーで廊下の電気が付くのを見て、俺は窓の外の日が暮れていたことに気付いた。


「もう、また電気もつけないで……。空襲はないんだから、トーカカンセー?なんかしなくていいんだよ」


 カーペットに座り込んだまま見上げる彼女の顔は、公演の疲れだけではない疲れを微笑みで誤魔化していた。彼女にも申し訳ないことをしてしまっていると、顔を見るたび胸が締め付けられるが、今更どうしようもない。


「アイス買ってきたよ。なぁちゃん、バニラとチョコレートのどっち食べる?」

「……ありがとう。君が選ぶといい」

「じゃあ、半分ずつしよっ」


 手洗いうがいを早々に済ませ、彼女は俺の隣に座り込んでアイスのカップとスプーンを差し出してきた。そういえば夕食を摂った覚えがないな、と考えながら、俺はひんやりと冷たいそれを受け取る。

 林檎嬢がリモコンでテレビを点けると、折り悪く例の「Jの方程式」をやっていた。彼女はばつの悪そうな顔をしてもう一度リモコンに手を伸ばしかけたが、俺は「いい」と言ってそれを遮った。


「敵の姿をよく見ておきたい」


 そんな言葉が出たことに俺は自分で呆れていた。この期に及んでそんなことにだけは頭が回るとは……。

 画面の中では、例によってギャルソンの男子達と若い女子達が雛壇で楽しげに談笑している。ギャルソンの大先輩であるという壮年の司会者が、今日も女子達に俗っぽい話を振っていた。「コイツらの中でデートするんだったら誰?」とか「自分は短髪ショートの子が好き」とか……。

 前に見たときは平和な時代ならではの会話だなと思ったものだが、裏を知った今となっては、軽薄そうな声で一喜一憂を繰り返すギャルソン達の姿を見ているだけではらわたの煮えくり返る思いがした。出演者は非固定なので、今ここに映っている彼らが下手人げしゅにんかどうかは知らないが、マキナや他の女子達を苦しめた奴らがのうのうと善人面して芸能界にのさばっているのは事実なのだ。


(……だが、分かりやすい敵がいるというのはいい)


 明確な悪人を恨んでいる間は悩みを忘れられる。誰を恨めばいいのか分からない心の迷宮と比べれば、よほど精神衛生に良いというものだ。

 そんなことをぼんやりと考えながら、俺がゆっくりバニラアイスを口に運んでいると、林檎嬢が横から言ってきた。


「今日、りーおんに会ったんだけど……。怒るっていうか、困ってたよ。ナナさんがどういうつもりか分からない、って」

「そうだろうな……。彼女には申し訳ないことをした」


 黎音りおんうるんだ瞳も、俺の脳裏に焼き付いて離れないものの一つだった。

 彼女の大事な初センター曲のMV撮影を俺は台無しにしてしまった。結局、MVはナナ抜きで撮影されたというが、黎音の怒りは今後も解けはしないだろう。


「まだ過去形にするのは早いよ。MVはもうムリでも、今からでも振り入れして、Sステに出よ?」


 林檎嬢はこの二日間で何度もそう言ってくれたが、俺はどうしても、首を縦に振る勇気を持てずにいた。

 シングル表題曲「羽根があるなら」の歌番組初披露は明後日に迫っている。明日はその前日リハーサルだ。フォークソング(一九七〇年代頃の流行歌だとか)風のゆったりした曲調なので、ダンスもそれほど複雑なところはなく、今からでもこの身体に振りを覚え込ませるのは十分可能なはずだが……。


「……今更、どんな顔して戻れるって言うんだ」


 それが俺の思うことの全てだった。頭を下げて明日のリハーサルに戻ったところで、とても言い訳など立たない。マネージャーにも、黎音にも、キャプテンの朱雀先輩にも、ナナを信じて夢を託してくれたマキナにも。


「じゃあ、さ」


 半分減ったアイスのカップを丸テーブルにそっと置いて、林檎嬢は明るさと切なさの混じった声で言った。


「アイドルなんか辞めて、一緒に南の島で暮らそっか。なぁちゃんが船出して、お魚とか釣ってさ」

「……」


 俺の心理は愚直にその情景を思い浮かべた。正直、それは魅力的なプランであるように思えた。奄美あまみか沖縄本島、あるいはもっと足を伸ばして台湾かパラオあたりに居を構え、日がな一日、本を片手に海釣りでもして過ごすのだ。

 船舶免許というのを取って、たまにはクルージングと洒落込むのも悪くない。隣に彼女の笑顔があるなら、もっといい。


「それもいいかもしれんな……」


 免許保有者が搭乗していれば、操縦は誰がしても構わないというし。彼女に操船のイロハを教え込んで、時にはかじを握らせてみるのも一興か……。

 しかし、次に返ってきた彼女の声は、俺の空想に反して寂しそうだった。


「そういう冗談はやめろって、言ってくれないんだ」


 俺はハッとなって彼女の顔を見た。彼女の目の端には微かに涙が滲んでいた。


「今のなぁちゃんのヘンにカタいところ、わたしは好きだったんだけどな」

「……林檎さん」


 まっすぐ俺の目を見つめて、彼女は言う。


「記憶を失って、自分を別人と思い込んじゃって……でも、前向きになってくれてるならいいかって思ってたの。倒れる前のなぁちゃん、ほんとに辛そうだったもん」

「……マキナの話を聞いたからか」

「きっとそうだよ。……前のなぁちゃんも、そのくらい仲間思いの子だった」

「前のナナ……か」


 俺は自嘲のつもりでふっと笑った。倒れる前のナナにマキナがどこまで被害を明かしていたのかは定かでないが、「前は信じるって言ってくれたのに」というマキナの言葉から、彼女がかなり踏み込んだ部分までナナに相談していたことは明らかだった。


「なぁちゃん、一回だけ、もう辞めたいってわたしに言った。……シングルの選抜に漏れたのが辛かったのかな、って思ったの。もっと深いところで傷付いてたのを、わたし、気付いてあげられなくて……」

「やめてくれ。君が責められることじゃない」

「でも……それから、なぁちゃん、眠れないからって言って、病院で薬を……」


 林檎嬢は途中から言葉を詰まらせ、ナナの身体に身を預けるようにして嗚咽を漏らした。俺は少し逡巡した末、彼女の震える背中にそっと腕を回してやった。そんな動作は生前もしたことがなかったが、彼女を支えなければという思いが上回った。

 あるいは、この身体に流れるナナの血が、そうするように俺を導いたのかもしれない。


「……わたしは、眠れなくて薬に頼っただけだよ」


 なるべくナナ本人の言葉に聞こえるように俺が言うと、林檎嬢はそっと顔を上げた。

 ナナの部屋の引き出しに睡眠薬のシートがあったのは、俺も少し前に気付いていた。彼女の昏睡の原因がその過剰摂取だったのだろうということも。

 彼女が世をはかなんだのか、単に眠れなかっただけなのか、それは誰にも分からない。濡れた瞳で俺の顔を見上げてくるこの彼女にも分からないのなら、きっと今は俺にそれを決める権利があるだろう。


「飢えて死ぬ心配も、戦災で死ぬ心配もない……。こんな平和な時代に生まれて、心配してくれる両親や、仲間もたくさんいて……。それなのに、世を儚んだりなんかするわけないって」

「……ちょっと、まって、まって」


 俺を見上げる林檎嬢の顔は、なぜか途中から泣き笑いに転じていた。


「それ、前のなぁちゃんのマネして喋ってるつもり? 全然ダメなんだけど」

「な……。何言ってるの。わたしはナナだよ」

「だからー、喋ってる内容が現代の人じゃないの!」


 目の縁の涙を指で拭い、彼女はくすくすと笑った。俺は「むぅ」と口を尖らせることしかできない。


「難しいものだな……」

「まあ、でもでも」


 名残惜しそうに俺から離れて身体を起こし、彼女は俺の手をそっと握って続けた。


「わたしを慰めようとして、前のなぁちゃんのマネしてくれるんだったら……わたし以外の皆のためにも、せめて総選挙までは頑張ってあげてよ。……それでやっぱりエイトミリオンがつまんないなら、そこから先は好きにしたらいいからさ」

「……」


 涙にきらめく彼女の瞳がナナの顔を映している。俺は思わず呟いていた。


「……ずるいな、君は」


 このままナナがシングル選抜から欠ければ多くの人に迷惑が及ぶ。ナナ自身も断じてそんなことは望まないだろう。だから、全ての思いを振り切って俺は明日から活動に戻るべきだ……と、当然理屈の上では理解しているし、何度も自分に言い聞かせようともしてきたのだ。

 それでも理屈外の部分で崩せなかった壁を、彼女はひょいと飛び越えて、俺の心を揺さぶってくる。それにハッキリ否定の言葉を返せるほど、俺も冷たくはないつもりだった。

 彼女がそこまで言うなら……。

 俺が次の言葉を探しかけたそのとき、タイミングを見計らっていたかのように、林檎嬢のスマホが音を立てて鳴り始めた。


「あれ? 峯波みなみさんだ」


 残りの涙を袖で拭いて、林檎嬢はスマホを耳に当て、それからすぐに画面を俺に向けてきた。坊主頭で謝罪する板橋先輩の姿がふと脳裏をよぎり、そういえばあの動画を見てから先輩と話していないな……と思った時には、スピーカーモードのスマホの向こうからどこか能天気な声が溢れていた。


『やぁやぁ、ナナ。絶賛サボり中?』

「……恥ずかしながら、その通りです」

『もったいないなー、せっかく選抜に入れたのに。逃げちゃうなんてゼータクだよ、干されメンの気持ちも汲んであげなきゃ。わたしなんか、一期生なのにもう全然選抜にお呼び掛からないんだからさー』

「男性と泊まったりするからでしょう」


 思わず言ってしまってから俺は口を押さえた。二秒ほど沈黙があって、先輩の声が続く。


『ははは、ちょっと傷付くかなー、今のは』

「……申し訳ありません」

『まあ、いいっていいって。難しい話はいいや。それより、すっきーから伝言』

指宿いぶすきさんから?」


 瞬間、俺の意識はぴんと張り詰めた。どんなに彼女の過去に失望しようとも、俺は心のどこかでまだ彼女を閣下と敬っていたいのかもしれなかった。


『戦う気があるなら明日のリハに来い、だって。……おっけー? わたし、ナナが来るほうに賭けるから、先輩に損させたくなかったらヨロシクねー』


 それから「おやすみー」と一方的に言い、俺が何か返事する前に先輩は通話を終えてしまった。スマホは再び沈黙し、テレビの音だけが室内に残った。いつの間にか「Jの方程式」の放送は終わり、夜のニュースが代わって流れていた。

 林檎嬢がまっすぐ俺を見ている。その目が「どうするの?」と問いかけていた。


「戦う気があるなら……か」


 凛然りんぜんとした態度でその言葉を発する彼女の姿が、閉じたまぶたの裏にありありと浮かぶようだった。


(自分の過去が気に入らないなら、この自分より良いパフォーマンスをしてみせろ……とでも言いたいのか?)


 正直、彼女が何を言いたいのかは俺には分からない。今はそれを分かりたくもない。

 ただ一つ確実に言えるのは、彼女はナナが自分の前に立つのを望んでいるということだ。彼女の過去を知った程度で逃げ出した幼稚な俺に、彼女はそれでもそこに立てと言うのだ。


「……いいでしょう、閣下」


 何一つ納得できたわけではない。誰に正論を説かれたところで気持ちが晴れるわけでもない。それでも。

 あなたと戦えと言うのなら、せめて最後に刺し違えて消えてやろう。

 女王指宿リノと出会うことで始まった俺のアイドル人生は、彼女と戦って終わるのだ。


「やっぱり、指宿さんって、人を焚きつけるの上手いよね」


 林檎嬢のそんな声を横目に、俺は決意を固めていた。

 その先に、俺の想像とまるで違う「戦い」が待っていることを知らず――。

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