第10話 涙は後回し(3)

 事が起こったのは、世間の大型連休が終わったばかりのある日のことだった。

 急遽選抜に入れてもらえることになった最新シングル「羽根があるなら」のMV撮影を控えたその日、俺は林檎嬢とともにマキナのマンションを訪れていた。彼女の代わりに俺が選抜の役目を果たしてくるという決意を、どうしても一度顔を見て伝えておきたかったのだ。


「握手会で、マキナに辞めないでほしいと言うファンの方が何人もいたよ」


 陣中見舞いのケーキの箱を俺達が差し出すと、マキナは「ありがと」と控えめに笑い、それを真っ白な冷蔵庫に収めていた。彼女の部屋は、前に訪れた時よりも荷物の整理が進められていたが、壁に貼られたエイトミリオンのポスターはまだそのままだった。


「……みんな怒ってるよね。ファンもメンバーも」

「いや。見る人は見てくれてるさ」


 スプリングの報道を見た世間の反応は冷たいようだったが、握手会でナナのもとに来たファンの多くが、マキナの脱退を決して望んでいる訳ではなさそうなのは事実だった。マキナやナナ達の研究生時代のユニット、「レディバGyu」での活動をもう一度見たいと言うファンもいた。

 だが、結局、決めるのは彼女自身だ。


「この先、どんな道を選ぼうとも、君が笑顔で居てくれればいい」


 俺の言葉に林檎嬢も隣で頷いていた。俺達の目を交互に見て、マキナは言う。


「ナナは優しいね。記憶をなくしたって言ってたけど、でも、心はわたしの知ってるナナと同じ……」


 最後はじわりと目元に涙を滲ませ、彼女はあの日と同じように俺の手を握った。


「頑張ってね、MVもSステも。楽しみに見てるから」

「うん。……成人したら、一緒に酒でも酌み交わそう」

「なに、その励まし方。やっぱりヘンなの」


 くしゃりと笑ったマキナの瞳には、過去の動画の中の彼女と同じ光が戻っていた。




 林檎嬢と二人でマキナのマンションを出る頃には、西の空をりガラスのようなおぼろ雲がぼんやりと覆い、風に微かな湿り気が混じり始めていた。


「一雨くるな……」

「え、わかるの?」

「わかりますよ。あの雲の厚みが増してくると雨雲になるんです」


 あの雲の感じだと長い雨にはならなそうだが、MVの撮影には影響が出るかもしれない。予定が前倒しされることも考えて早めに現場入りしておいた方がいいか、と俺が歩調を早めかけた、そのとき。


(……!)


 俺の目は、十数メートルほど離れた物陰で一瞬光ったを見逃さなかった。


「撮られた」

「えっ?」


 自分が確かにマスクをしていることを確認し、キッと物陰に視線を向ける。そこに居たパーカーの男が即座に背中を見せて逃げ始める。敵は一人。武装は不明。緊張と焦燥がざわりと俺の心を侵食する。

 俺は林檎嬢のバッグから薄ピンク色の折り畳み傘を引き掴み、彼女の目を見て告げた。


「借りるぞ。君は部屋に戻ってマキナを守れ」

「えっ!? なぁちゃんは――」


 彼女の戸惑う声を置き去りにして、俺は既に駆け出していた。

 遠ざかる男の背中を全速で追う。動きやすい靴を履いていてよかった。ナナの走力では一気に距離を詰めるような芸当はできないが、この辺りの道はもう頭に入っている。裏路地から回り込むのは容易い。


「待てっ!」


 無人の路地でざっと男の前に出ると、男はぎょっとした顔を見せた。パーカーのフードを深く被ってはいるが、若く線の細い男なのは見て取れた。

 男がきびすを返して再び逃げ出す。俺は近くのゴミ置き場から青いゴミバケツの蓋を取り上げ、走りながら円盤投げの要領で投擲とうてきした。蓋が足元に命中し、男はたちまち足をもつれさせ、つんのめってその場に倒れた。


「何を撮った。言え」


 倒れ伏した男との間合いを慎重に測りながら俺は言う。案の定、男は逆上した叫びを上げながらがばっと立ち上がり、俺に向かってきた。


「このアマぁ!」


 男の大振りな攻撃を見切り、瞬時に身を引いてかわす。MV撮影を控えた大事な身体で喧嘩に付き合う訳にはいかない。

 男の手にはまだスマホが握られていた。俺は手元の折り畳み傘をじゃきんと引き伸ばし、掴みかかってくる男の手元目掛けて一閃させた。

 ぱあんと小気味良い音を立てて、男の手からスマホが弾け飛ぶ。男がたじろいだ瞬間、俺は即座に間合いを詰めてそのパーカーの襟元を掴み、傘の切っ先をひゅおんと男の左目の眼球すれすれに突き付けてやった。


「ひっ――」

「マキナを張っていたな。スプリングの記者か?」

「い……いや。お、俺は人に言われただけだ。……お、お前こそ何なんだよ。エイトミリオンか?」


 俺は否定も肯定もしなかった。マスクで顔が分からないのかもしれないが、相手がナナを知らないのなら好都合だ。自ら正体を明かしてやる必要はない。

 男の片足をしっかりと踏みつけ、いつでも突き倒せる体勢を保ちつつ、俺は襟元を掴む力を強めて言った。


「ゲーセンの写真を撮ったのもお前か?」

「だ、だからよ、人に言われただけだって。お、俺をボコったって何も解決しねえぜ。だからカンベンしてくれよ」

「……そのようだな」


 俺は男の襟を放し、足を踏んだままトンと後ろに身体を押してやった。男はバランスを崩し、無様にその場に尻餅をついた。

 その間に男のスマホを拾い上げ、二度ほどブロック塀に叩きつけて画面を割る。この男の個人的な写真も入っていたかもしれないが、知ったことではなかった。昔ながらのフィルム式カメラを使っていないコイツが悪い。


「てめぇ、何すんだよ!」


 再び声を荒げて立ち上がろうとする男のほおすれすれに、俺は壊れたスマホを投げつけてやった。男の背後の塀に当たってスマホは砕け、男はひぃっと声を上げて戦意喪失したようだった。

 マスク越しに感じる雨の匂いが強くなっている。急がなければ。


「ギャルソンの連中に伝えておけ。既に指宿いぶすきリノさんに対処をお願いしてある。これ以上、私達の仲間をお前達の食い物にはさせんとな」


 誰もが恐れるであろう閣下の名を敢えて出し、俺が男を見下ろして言うと、男は二度ほど目をしばたかせてから、くくっと下品に笑った。


「指宿? おいおい、ケッサクだな」

「何がおかしい」


 不審な態度に俺は思わず聞き返していた。塀を背に座り込んだまま、男は皮肉めいた感じで唇を吊り上げ、俺を見上げてきた。


「何が、も何もよ。あの指宿ってヤツこそ、スキャンダル女の代名詞じゃねーか」

「なに……?」


 傘を握る俺の手に知らず力が入る。指宿閣下がスキャンダルの代名詞だと……?


「あの方はエイトミリオンの女王だぞ。スキャンダル女なんてことがあるか」

「はぁ?」


 男は声を裏返らせた。本気で意外がっている顔だった。


「くくっ。何だお前、ホントにエイトミリオンのメンバーか? 日本中誰でも知ってる話だぜ。あの指宿ってのは、男繋がりでスプリング砲を食らって博多に飛ばされたんだろうが。坊主にも劣らねぇクソビッチじゃねえか!」

「バカな――」


 地面を踏みしめる足の感覚が遠くなっていくような気がした。俺はすぐに言い返す言葉を持てなかった。どういうわけか、目の前の男が嘘を言っているようには見えなかったのだ。


「ウソだろ、マジで知らなかったのかよ。ググってみろよ、すぐ出てくるぜ。『指宿リノは肉食女子でした』『お泊まりしたのにふざけんなよ』! はははっ、あんなスキャンダルをダシにのし上がった女を女王と崇めてんだから、ケッサクだよなぁ。何でもありのエイトミリオン、上がビッチなら下も――」

「黙れっ!」


 気付けば俺は男の眉間みけんに傘を投げつけていた。男がどうなったかを見届けもしないまま、俺は路地を駅の方向に向かって走り出していた。

 ぽつり、と冷たい雨が俺の頬を打つ。雨はたちまち強くなり、水を含んだナナの髪が冷たく頬に貼り付いてきた。

 ポケットに入れていたSuicaスイカで改札を通り、俺は周囲の乗客の目も気にせず電車に揺られた。MV撮影が行われる大学のキャンパスは、ここからそう遠くない距離だった。

 指宿閣下もその場所に来るはずだ。当人に聞いてみるまでは何が真実かなど分からない。あんなチンピラの言うことなど閣下は一蹴してくれるのではないかと、俺はまだどこかで信じていたかった。




「ちょっと、ナナ、どうしたのその格好!」


 雨でずぶ濡れになった俺を見るなり、朱雀先輩が目を丸くして駆け寄ってきた。

 MV撮影のために借り切った大学構内の控室。今日の主役である黎音りおんもすぐに手元のスマホを放り出し、「大丈夫ですか!?」と寄ってきてくれた。


「すまない。……指宿さんは?」


 室内を見回す俺の目に映るのは、木津川先輩や羽生はにゅうマユ先輩ら、選抜メンバーの心配そうな顔だった。

 皆がナナを待ってくれていたのだろう。目の前の黎音にとっては大事な初センター曲のMV撮影。それを壊してしまうのは申し訳なかったが、しかし、今の俺にはそんなことを考える余裕もなかった。

 メンバーの誰かから聞き、俺は閣下の居場所を求めて大学構内の廊下を走った。屋上に最も近い階段の踊り場に、窓の外の雨空を見上げる彼女の背中があった。


「指宿閣下!」


 俺が呼びかけると、エイトミリオンの女王はくすりと笑って振り向いてきた。


「張り切りすぎでしょ。どうしたの」

「お聞きしたいことがあります」


 俺は息を切らせ、階段の下から閣下に向き直った。窓の向こう、遠くの空で雷が鳴った。


「恐れながら閣下は……男性との過ちの責任を問われ、博多に左遷されたというのは本当ですか」


 逆光の中、閣下の口元が微かに強張こわばるのが見えた。


「なに? 昔のスプリングの記事を見たの?」

「この目で見てはいませんが、人からそのように聞きました」

「そう。……まあ、記事に出たことが全てよ。皆知ってる話だしね。……それで、今更それがどうしたの?」

「どうしたの、って……」


 あまりに飄々ひょうひょうとした彼女の言葉に、俺は全身の血を抜かれたような寒気を感じていた。この足が後ずさりたがっているのか、閣下に駆け寄りたがっているのか、それすらも分からなかった。


「嘘であると言ってください。マキナのようにあなたも嵌められたのだと。あなたが自分からそんなことをする方だと、私は信じたくない……」

「信じたくなくても、しょうがないよ、それが事実だから」


 彼女の口調ははっきりと告げていた。世間に流布されている醜聞を否定する気はさらさら無いと。


「……そんな過去があったのなら、なぜ今、女王の顔をして皆の上に立っていられるんです」


 俺が胸の奥から絞り出すように言うと、彼女はふっと口元をほころばせて、こつこつと一歩ごと階段を降りてきた。同じ目線に彼女が降り立ったとき、俺は初めて、彼女の背丈がナナよりほんの少ししか高くないことに思い至った。

 女王は漆黒の瞳で俺を見つめ、穏やかな、しかしはっきりと線を引いた口調で言った。


「あなたには分からないわよ」

「……分かりたくもありませんね」


 俺はそれきりきびすを返し、だっと廊下を駆け出していた。無論、閣下は追いかけてなどきてくれなかった。


『あんなスキャンダルをダシにのし上がった女を女王と崇めてんだから、ケッサクだよなぁ。何でもありのエイトミリオン、上がビッチなら下も――』


 ガラの悪い声が俺の脳裏をぐるぐるとしつこく駆け回る。建物のエントランスを通り抜けて、降りしきる雨を目前にしたところで、後ろから「ナナさん!」と黄色い声が俺を呼んだ。

 振り向くと、黎音がひとり息を弾ませていた。ぱたぱたと俺に駆け寄り、彼女は両手で俺の服を引いてくる。


「身体は大丈夫なんですか!?」

「ああ……」

「じゃあ、早く服着替えて、メイク直して、振り入れしましょっ!? みんなナナさんを待ってて――」

「……ごめん、りーおん」


 彼女の手をそっと振り払い、俺はその潤々うるうるとした瞳を見下ろして言った。


「私は、もういい……」

「何がいいんですか!? 皆で作るMVなんですよ!?」


 涙を散らして声を上げる彼女に、俺は黙って首を横に振ることしかできなかった。


「ナナさんっ!」

「未来のエースは君だ。ナナの愛したエイトミリオンを、よろしく頼む……」


 取りすがってくる黎音を振り切り、俺は雨の中へ走った。この心境で、ナナ本人ですらない自分が、キラキラした皆の中に混ざって踊れるなどとは思えなかった。


「指宿閣下……」


 全てから逃げるように走りながら、俺は初めて会ったときの閣下の姿を瞼の裏に思い出していた。

 誰もがおそれ敬うエイトミリオンの女王。黄色い上着を颯爽とひるがえし、ナナに本店の使命を説いた彼女。

 立ち振舞いの端々から、語る言葉の一言一言から、第一人者たる自負を感じさせた。この世界にはこんな人が居るのかと、アイドルを知ったばかりの俺も思わず身を震わせた。そして、エイトミリオンのことを知れば知るほどに、俺の中での彼女の背中は、大きく遠いものになっていった。

 だが……。


(あなたが言うから頑張りたいと俺は思った……。あなたのむ高みに、いつかナナが辿り着けるようにと……)


 その威光もまやかしだったのか。七姉妹セブン・シスターズに入れとナナに言ったあの言葉も、スキャンダルでのし上がったまがい物の楼閣から発せられたものだったのか。

 星の見えない夜の海のように、俺の心は陸地を見つけられず彷徨さまようばかりだった。

 いつしか俺は、どことも知れない歩道の上で足を止めていた。傘を差して行き交う人々も、水を跳ねあげて車道を流れる車も、雨に打たれる俺に構わず平常運行を続けていた。


 ――ヤキが回ったか、飛羽隼一。戦いしか知らないお前が、今更キレイな水の中に棲めると思っていたのか?


 そんな声が脳裏で渦巻いていた。それは誰の声でもない、強いて言うなら俺自身の心の声だった。


「……クソッ」


 目の前の電柱を殴りつけようとして、俺は寸前でその拳を止めていた。

 破れる皮膚も、流れる血も、ナナのであって俺のではない。勝手に全てを台無しにしてしまって、ナナが戻ってきたらどう思うか。


「知ったことか……」


 呟いて、俺はこつんと小さく電柱を小突こづいた。

 ナナの白い肌を雨が打つ中、俺はいつまでも、いつまでも一人で立ち尽くしていた――。

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