第12話 微笑み神隠し(1)

「そんな……」


 俺は力なく床に手をつき、底知れない絶望に身を震わせていた。「ざまぁみろ」と吐き捨てる草加の下品な声と、外からのノックの音だけが、遠い意識の向こうに響いていた。

 林檎嬢はマキナと一緒にSステを観ると言っていた。マキナの部屋に行くところを待ち伏せされたのか。奴ら、ナナさらうつもりで、背格好の似た彼女を……!


(俺がスマホを借りたから助けを呼べなかったんだ……いや、そもそも俺が彼女を置き去りにしたから……!)


 目の前の戦いにしか意識が向いていなかった今朝の己が憎い。テレビ局まで一緒に連れてきていれば。せめてマンションから出ないように言っておけば……!

 だが、後悔や反省は後だ。今は彼女を助けることに全思考を集中しなければ。


「貴様、彼女をどこにかどわかした!」


 俺は草加に掴み掛かったが、彼はフンと意地悪く鼻で笑うだけだった。


「言うわけねえだろ。ハッ、せいぜい苦しめ。お友達がスキャンダルメンの仲間入りさせられるのをな」

「く……!」


 こいつを問い詰めても無駄だ。そう判断した俺は、彼の手からスマホを引ったくり、画面の動画を最初に戻って再生させた。

 目を皿にして光景から情報を読み取る。男達と林檎嬢がいるのは薄暗い室内だった。山小屋を思わせる木目調の壁。暖色系の小さな照明。窓の外は夜闇。男は確認できるだけで三人。一人は木製のテーブルに座って缶ビールを飲んでいる。

 場所を特定できる手掛かりはないか? だが、自然の地形ならまだしも、建物の中となると……。


(何か……何かないのか……!)


 囚われた林檎嬢に目をやり、そこで俺は気付いた。

 ガムテープで口元を覆われた彼女が、涙を含んだその双眸そうぼうをずっとカメラに向け続け、ぱちぱちと不定期にまばたきを繰り返しているのを。

 これは――


(和文モールス……!?)


 動画を三たび最初に戻し、俺は彼女の目を注視した。恐怖に身体を震わせながら、彼女の目はそれでも気丈にカメラを捉え、ぎこちない信号を送り続けていた。


 ヤ、ク、ソ、ク、ノ、ハ……


……!」


 その意図を悟った瞬間、俺は床に転がっていたナナのスマホを引き掴み、扉を開けて部屋を飛び出していた。外にいたスタッフが呼び止めようとしてきたが、気にも留めず廊下を走った。草加に痛めつけられた身体がきりきりと悲鳴を上げるのも無視して。

 しかし、飛び出したはいいが――

 林檎嬢とナナの約束の場所。俺は、それを知らない。


「どこだ――」


 メンバーの誰か一人くらいは知っているかもしれないと思い、俺は息を切らしてエイトミリオンの楽屋に飛び込んだ。

 だが、大部屋は既に無人だった。無理もない。本番までもう十分もないのだ。


「どこなんだ……!」


 俺は草加のスマホに映った動画をあれこれ触り、発信元の情報などが記されていないかを探した。だが、そんな情報はどこにも見つけることができなかった。

 動画の中の彼女と目が合うたび、俺は焦燥に唇を噛んだ。


「林檎さん……」


 混乱と恐怖の中、彼女は必死にこのメッセージを残したのだ。ナナがこの動画を見るのに賭けて。ナナなら助けに来ると信じて。

 草加のスマホをテーブルに放り出し、俺は駄目元でナナのスマホのホームボタンを押す。

 大事な林檎嬢との約束。ナナはきっとスマホにその予定を入れていたはず……。

 だが、それを開くことは俺には叶わない。八桁のパスコードを求める画面が、他人の侵入を阻む壁となって厳然と俺の前にそびえ立っている。


「クソッ……!」


 俺は力なく床に膝をついた。ブラックアウトしたスマホの画面が、悲痛に歪むナナの顔を映していた。

 本物のナナがここに居れば分かったのに――

 この身体の中身が俺でなければ、彼女を救えるのに!


「俺など要らない。頼む、戻ってきてくれ、大和ナナ……!」


 だが、どんなに念じても、この身体から俺の意識が離れることはなく――

 床に拳を叩きつけ、俺は己の無力さを呪うことしかできなかった。


 せいぜい苦しめ――草加の醜い言葉が鼓膜の奥で響く。上納か遊んでいいのか――動画の男達のおぞましい言葉も。

 そんなことをさせてなるものか。

 しかし、俺にはもう、何も……。


(何も出来ないのか……所詮、本人じゃない俺には……!)


 失意の中で何度も床を叩く、その痛みがか弱い拳をじいんと痺れさせる。

 兵学校で、海軍で、俺は一体何を学んできたんだ。海に空にと駆け回り、敵をほふるすべを覚えても、肝心な時に大事な人ひとり守れないで何が日本男児だ。


「……林檎さん」


 すまない――と、まぶたの裏に浮かぶ彼女の笑顔に詫びようとしたとき。

 諦めかけた心の奥底に、毎夜唱え続けた一つの言葉が浮かび上がった。


「……努力にうらかりしか……」


 最後まで諦めず努力をしたか。思い残すことはないと言い切れるまで力を振り絞ったか。

 幾千回と己に問い続けたそのいましめが、青い炎となって俺の心を包み込む。


 全てを終えるにはまだ早い。こんなところで投げ出したら、靖国の戦友達に申し訳が立たない。


「そうだ……」


 見苦しくても足掻け。最後の瞬間まで諦めず死力を尽くせ。

 それが、海軍精神シーマンシップだ!


「諦めて……たまるか!」


 俺はかっと目を見開き、ナナのスマホを取り上げていた。

 このロックを俺が解くしかない。他の誰でもない俺が。


 ――前になぁちゃん言ってたよ。こういうパスワードは全部、絶対忘れない日付にしてるって――


 俺の脳裏で高速の計算が駆け回る。自分の誕生日でもなければ林檎嬢の誕生日でもない。ナナが毎日押す数字として選んだ日付は何だ?


 ――これ、わたし達が昇格したときの――


 脳内を駆け巡る膨大な記憶の洪水の中から、俺の理性は一つの光景を引き当てる。

 ナナの寝室に最も大きく飾られていた写真。身を寄せ合ってピースサインを突き出した、林檎嬢とナナの笑顔。

 稲妻が閃く如く、それは俺の中に確信となって焼き付いた。


 ――いっしょに新しいチームに入れるってなって、すっごく嬉しかったな――


 オーディションに受かった日でもなければ、総選挙で初ランクインを成し遂げた日でもない。

 ナナにとって最も忘れられない日付。それは、林檎嬢と揃って昇格を決めた、あの写真の日に違いない。


「それしかない。君なら、きっと……!」


 ナナの血潮に突き動かされるように、俺は立ち上がった。

 脱兎の如く無人の楽屋を飛び出し、テレビ局の入り組んだ廊下を走る。


(ナナの昇格の日付……チーム・クアルトの結成の日)


 その日付も俺は知らない。ネットとやらが使えれば調べられたのかもしれないが――いや。

 恐らくこの会場でただ一人――

 それより早く答えを出せるTOヤツを、俺は知っている!




黎音りーおんッ!」


 スタジオ前の廊下にその小柄な背中を認め、俺は叫んだ。

 羽生はにゅうマユ先輩や薩摩さつまサクラ先輩らと共に歩いていた彼女が、足を止めて振り返る。その目が驚きに見開かれた。


「ナナさん! どこ行ってたんですか!?」


 俺は脇目も振らず、彼女に駆け寄り尋ねた。


「教えてくれ。ナナと林檎さんの昇格の日はいつだ」

「今それ必要ですか!? 本番前ですよ!?」


 困惑と呆れと怒りの入り混じった彼女の視線。棘があるのは当たり前だ。一度ならず二度までも、俺は彼女の大事な晴れ舞台を壊そうというのだから。


「……頼む、りーおん」


 それでも俺は彼女の正面に立ち、その大きな瞳に目を合わせた。彼女ならきっと教えてくれる。その糸にすがるように。


「君の知識が頼りなんだ……!」


 周りのメンバーも怪訝そうな目で俺を見ている。ややあって、黎音ははぁっと息を吐いて、俺の目を見上げて答えた。


「二〇一三年八月二十四日。コンサートツアーの最終日、東京ドーム公演で、新生チーム・クアルトの結成をサプライズ発表。研究生に降格していた板橋さんと、十三期・十四期研究生の十六人が同時に昇格。間違いありません」

「……ありがとう。恩に着る」


 きびすを返そうとした俺の手首を、黎音が掴んできた。


「ちょっと待ってくださいよ! どこ行くんですか!」


 事態を明かして本番前の皆を動揺させるわけにはいかない――俺がそのまま駆け出そうとした、そのとき。


「ナナ!」


 黎音らの後ろから朱雀先輩が歩み出てきた。黎音の隣に立った彼女は、普段の間延びした調子が嘘のように、厳しく見定めるような視線を俺に向けていた。


「わたし達は、全グループ数百人のメンバーの代表として……出たくても出れない皆の思いを背負ってテレビに出るんだよ。それより大事なことなの?」

「……はい」


 俺は黎音の手をそっと振り払い、先輩に正対して答えた。


「前のナナがここにいれば、きっと同じようにするはずです」


 朱雀先輩は数秒俺の目を見ていたかと思うと、ふっと口元をほころばせ、言った。


「何言ってんのか全然わかんないけど、わかった。こっちは任せな」

「そんな、朱雀さん!?」


 黎音は目に涙を光らせていた。上目遣いに俺を睨み上げてくる悲しい視線は、彼女が深くエイトミリオンを愛していることの証に違いなかった。


「……ひどいですよ、ナナさん。こないだから何なんですか。大事なシングルの初披露なのに、なんで……なんで!」


 何も答えられない俺の背後から、こつ、こつ、と二つの足音が近付いてくる。

 黎音がハッと顔を上げるのを見て、俺も振り返った。総監督の木津川先輩、そして指宿閣下の颯爽たる姿がそこにあった。


「りーおんもいつか人の上に立つかもしれへんなら、知っとかんとあかんことがある」


 木津川先輩は俺の隣をすっと通り過ぎて、黎音の小さな肩に優しく手を添えていた。


「一緒にステージに並ぶだけが、仲間じゃないってこと」

「……!」


 そして――


「行きなさい」


 銀河を映した瞳で俺と皆を睥睨へいげいし、指宿閣下は告げた。


「あなた一人抜けたくらいで選抜のステージは壊れない。わたしが壊させない」

「閣下……」


 ぐっと拳を握り、彼女に強く頷いて、俺は心の導くままに走り出す。


「……頼んだわよ。軍人さん」


 すれ違いざま、閣下の小さく呟く声が聞こえたような気がした。




(……さあ、教えてくれ、大和ナナ)


 走りながらスマホの画面に指を走らせる。黎音の教えてくれた昇格の日付、間違うはずのないその答えを。


(君の大事な彼女は、どこだ――)


 画面が開き、林檎嬢のスマホとお揃いのツーショットの待受写真が現れた。

 六月のスケジュールに踊る文字は、俺もよく知る場所だった。

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