第15話 チームの坂(2)
「燃ゆる
トントンと人参を刻む包丁の音と、俺の気ままに口ずさむ歌がマンションのキッチンに響く。背後のリビングからは控えめなテレビの声と、林檎嬢の動かすアイロンのしゅこー、しゅこーというスチームの音。
「
まな板を傾けて乱切りの人参をザルに放り込み、俺は続いて玉葱を手に取った。
「
玉葱の皮を
「なぁちゃん、何その歌? 軍歌?」
「軍歌というか、国策映画の主題歌だよ。ほら、前に『燃ゆる大空』の話をしただろう」
「なんだっけ、
「ああ。陸軍の映画だが、この歌は俺も……っ」
機嫌よく話しながら玉葱を切っていると、ふいに鼻の奥を突き抜けるような痛みが襲った。ショボショボと滲み出る涙に、思わず包丁を止めて目元を押さえる。
「どしたの? タマネギ?」
「あ、あぁ、心配は要らな……」
俺が答える頃には、林檎嬢は既にぱたぱたと俺の傍に寄ってきていた。
「えっ、涙出すぎじゃない!? 大丈夫!?」
「いや、油断しただけだ。玉葱の催涙効果がこれほどとは思わなかっただけで……」
涙はともかく、目の奥に染みる痛みは想像以上だったが、彼女の前で文字通り泣き顔を見せるわけにはいかない。そう思って俺は咄嗟に顔を背けたのに、彼女はくすくす笑って前に回り込んでくる。
「なぁちゃん、何か可愛い。ギャップ萌え?」
「からかうんじゃない!」
素手で涙を拭い、俺は彼女を追い払うように手を振った。
日本男児が玉葱如きに不覚を取るとは、我ながら情けない……。しかし玉葱から発生する化学物質が涙を誘発するのなら、根性でどうにかなるものでもないだろうし、次からは航空眼鏡でも着用するべきか?
「あ、次からゴーグルか何か付けて料理しよーとか、大袈裟なこと考えてるでしょ」
「む……」
林檎嬢は手早くステンレスのボウルに水を注ぐと、俺の切っていた玉葱をさっとその水に浸して、何やら得意げな笑みを向けてきた。
「こうやって、ちょっとだけ水に漬けたらいいんだって、昔ママが言ってたの。あんまりやると栄養抜けちゃうらしいけど」
「ふむ。催涙に関わる成分が水溶性なんだろうな」
今度調べてみるか……と、まだ痛む目頭を押さえて俺は呟く。林檎嬢は「スイヨウセイ?」と片言のように俺の言葉を繰り返していた。
「ほんと、朱雀さんじゃないけど。今のなぁちゃん、っていうか少尉さん?って、スゴイ賢いのに普通のことに限って知らないよねー」
「……面目ない」
「ううん、そーじゃなくて」
俺が己の至らなさを思うより先に、彼女は俺の目を見つめて畳み掛けてきた。
「わたしが言いたいのは、あんまり無理しなくてもいいんじゃない?ってこと。エイトミリオンのお仕事はやってくれなきゃ困るけど、お料理なんかはわたしもするし」
「……だが、ここはナナの家で、今は俺がナナなわけで……君に
「もー、それがよく分かんないんだけど。別にわたし、あなたのメイドさんでもいいよ?」
「いかん。君はナナの先輩だろう」
「先輩だったらお料理しちゃいけないの?」
彼女のきょとんとした瞳が
ただでさえナナの衣類の洗濯を彼女に任せているのに、この上炊事まで押し付けることになっては、女中も同然ではないか……。
「とにかく、こういうことは後輩がするものなんだ。大体、君はこのウチにとって
「むー。考えが古いですぞ、少尉どの」
「……それに、ナナだっていつかは嫁に行くかもしれん。料理の一つも出来ないままでは恥だ」
「えぇ?」
玉葱を水から引き上げながら俺が言うと、林檎嬢はその俺の片腕を掴んで揺さぶってきた。
「それはやだー。わたしがなぁちゃんのお嫁さんになるー」
「だから、そういうことを軽々しく口にするものじゃないって」
俺が軽く手を振り払うと、彼女は「むぅ」と口を尖らせたが、次の瞬間には充電スタンド上のアイロンのぷしゅーという排気音に呼ばれ、渋々きびすを返していた。
「でもさー、なぁちゃん」
再び包丁を構えた俺の耳に、彼女の声がさくりと差し込む。
「わたしにだってそんな感じなのに、無礼講なんて仕切れるの?」
俺はぴたりと手を止めた。なかなかに痛いところを突いてくる……。
そう、朱雀先輩の命を受けて俺が企画したチーム親睦カラオケ会の日程は、もう間近に迫っていたのだ。
「……それもあるが、まずは歌だな」
無礼講も気がかりではあるが、それ以上の課題が俺の前にはある。
今や総選挙選抜メンバーにしてチーム・クアルト副キャプテンである大和ナナの毎日は、レッスンに公演に、撮影に取材にと忙しく、結局俺は今日までエイトミリオン以外の現代の歌を覚える時間を取れずにいた。一応、林檎嬢に教わって流行りの歌をいくつか聴いてはみたのだが、カラオケなる場所で歌いこなせるまでにはまだまだ……。
(……まあ、何とかするしかないか)
いざとなれば徹夜だな、と覚悟を決めて、俺は玉葱に刃を入れた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
そして、某日夕刻――。
公演前日のチームレッスンを終えた我らがチーム・クアルトは、都内某所のカラオケ店のパーティールームに再集合を果たしていた。
「えー……ハイ。皆さんお疲れ様です。大和ナナです」
「知ってるー」
けほんと咳払いする俺をメンバー達の笑い声が包む。林檎嬢はいつもの如く、ワクワク半分ハラハラ半分といった調子で俺の立ち姿を見上げていたが、俺に今日の幹事を命じた朱雀先輩は対照的に涼しい顔をしていた。
今の
「今日はこうして、皆にレッスン後に集まってもらったわけですが……えー、今日の会の目的は、エイトミリオンの仕事を忘れて皆で楽しみ、親睦を深めようということであります」
「でありまーす」
ノリの良いメンバー達が俺の口調をリピートし、周りの皆がからからと笑う。俺はつられて苦笑いしつつ、皆を見渡して言葉を続けた。
「私のおじいさんから聞いた話ですが、帝国海軍の士官養成機関であった海軍兵学校では、
「ナナちゃん、なーがーいー」
「以上、終わりー」
「あははは」
皆の賑やかな笑い声と適当な拍手がパーティールームに響き渡る。俺がマイクを置きかけたところで、十五期の後輩メンバー達から「はいはーい」と早速の挙手。
「ナナさんの美声が聴きたいでーす」
「軍隊の歌歌ってくださーい」
「軍隊の歌?」
ある意味最も予想外のリクエストに、俺は思わず目を
「いやいや、今日のためにせっかく流行りの歌を覚えてきたんだよ。『マニュアル』とか『M.E.T.E.O.R.』とか」
「えー、でも、そういうの聴き慣れてますし」
「オリジナリティ出していきましょうよ、ナナさん」
「えぇ……」
俺が思わず林檎嬢に目をやると、彼女もにやっと笑って言ってくる。
「いいじゃん、今のなぁちゃんにしか歌えないの歌っとけば」
「そんな。せっかく東野やら三世やら覚えたのに」
「じゃあ、はーい、なぁちゃんに昭和の懐メロ歌ってほしいひとー」
勝手に多数決を取り始めた林檎嬢に、先輩も後輩も次々と同調して「はーい」と手を挙げていく。そこで朱雀先輩が何やらタブレット状の機械を卓上から取り上げ、ぴっぴっと操作して大画面に向けていた。
「じゃーこれ、『リンゴの唄』。歌えるでしょ?」
たちまち溢れ出す大音響の前奏に、皆は一斉に「あ!知ってる!」だのと盛り上がっているが、肝心の俺はその曲名もメロディも聞いたことがない。画面には確かに、「リンゴの唄/
「何ですか、これ」
「えー、昔の有名な歌じゃん。戦争とか好きなんでしょ?」
「一九四五年って書いてあるよ。え、何年前?」
「そんな新しい歌は知りません!」
先輩達と押し問答している間に、曲は歌唱部分に差し掛かってしまったらしく、大画面に表示された白い歌詞が赤く塗り替えられていく。
「えー、ナナ歌えないの?」
「すみません、誰か代わりを……林檎さんが歌ったらいいですよ。リンゴの唄だし」
「えぇー、いいけどー」
「デュエットしてデュエット!」
「だから私知らないんですって」
やいのやいのと皆の言葉が飛び交う中、林檎嬢は俺が手渡したマイクを構え、まんざらでもない様子でサビから歌唱に入っていた。
画面に流れるレトロ調の映像に合わせて、彼女の声が可愛らしくメロディをなぞる。それに聴き入るメンバーが約半分、俺に「じゃあ何か他の歌って」と言い募ってくるメンバーが約半分……。
(俺は無事に今日を乗り切れるのか……?)
思った以上の焦りと混乱に手汗を拭いつつ、俺は差し出されたナビモクとやらいう機械に目を落とした。
✿ ⚓ 歌詞出典 ⚓ ✿
「燃ゆる大空」(1940年)
作詞:佐藤惣之助(1942年没)
1992年著作権保護期間終了
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