【飛羽隼一の海軍ワンポイント講座 vol.5】


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 本作『NAVY★IDOL』をご覧の皆さん、こんにちは。大和やまとナナこと飛羽ひば隼一じゅんいちです。

 私と仲間達の活躍はいかがでしたでしょうか。第一章完結までお読み下さり、誠にありがとうございます。


 作中の事物や用語に絡めて、帝国海軍や私の時代の豆知識を皆さんにご紹介するこのコーナー。今回は、第一章のクライマックスとなる第9話から第13話までの内容をお送りします。箸休めと思ってお楽しみください。




 ✿ ⚓ 第9話「Party is over」より ⚓ ✿



【海軍軍人の頭髪】


 軍人の頭髪というと丸刈りをイメージされる方も多いかと思います。その通り、私の時代の軍人は陸海軍ともに丸刈りが基本でした。特に陸軍では、将校から新兵に至るまで全ての軍人が原則的に丸刈りとされており、長髪が許されるのは駐在武官や私服憲兵、民間への留学生(当時の軍でいう「留学」とは国内の大学で学ぶことも含みました)など、特殊な立場にある者のみでした。

 対する海軍では、下士官兵や兵学校生徒は全員丸刈りですが、准士官以上は「頭髪はこれをくしけずる(=ちゃんとセットする)べし」と規定されているのみであり、長髪にすることも自由でした。ただ、実際には、衛生面などの理由で丸刈りを選択する者が多かったようです。かの山本五十六長官も、髪の手入れが面倒だといって丸刈りで通しておられたことで有名ですね。

 さて、このように丸刈りが基本だった当時の軍人の中で、例外的に「無法地帯」だったのが、我々海軍の飛行機乗りです。航空要員は下士官兵でも髪を伸ばす者が多くいました。頭髪がクッションになって安全だという理由もありますが、それ以上に、海軍のパイロットには良かれ悪しかれ「自分達は選び抜かれた者であり、実際に他のどの兵科よりも命を張っている」という自尊心があり、他の兵科に対して傍若無人に振る舞う者も多かったのです。「明日には死ぬかもしれない身なのだから頭髪くらい好きにさせろ」という感じでしょうか。

 ちなみに、ここまで述べてきた「長髪」とは、皆さんが言うところのロン毛のことではありません。当時の日本男児はそもそも軍人でなくとも丸刈りが普通であり、丸刈りより少しでも長い髪型は全て「長髪」と言われていました。特に太平洋戦争の頃になると、一般市民にも丸刈りが奨励され、「兵隊さん達が頑張っているのに、お前達はなぜ坊主にせんか!」といった同調圧力も大変強かったと聞きます。このあたり、皆さんは「そういう時代だったのだなあ」と思われるでしょうか、それとも「いつの時代も変わらないなあ」と思われるでしょうか……。



【海軍兵学校の受験】


 私が言うのも気恥ずかしいですが、当時の我が国の知的エリートコースの一つであった海軍兵学校の受験は、倍率30~40倍とも言われ、「兵学校に落ちた者が一高(旧制第一高等学校=現在の東京大学教養学部の前身)に行く」という言葉もあるほどでした。

 以前もお話した通り、海軍には、海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校という三つの士官養成機関がありました。これら三校の入学試験は共通であり、単願・併願は自由でしたが、併願の場合は志望校に優先順位を付けることはできませんでした。

 受験資格は、入学時の年齢16~19歳、未婚で、旧制中学の四年生(皆さんの時代でいう高校一年生)修了程度の学力のある者。ある年の要項には、身体基準は身長5尺(151cm)以上、体重12貫(45kg)以上、視力1.0以上(経理学校は0.4以上)などとあります。ちなみに、当時の成人男性の平均身長は155cm程です。

 入試は年一回、各地の主要都市の会場で行われ、初日の身体検査・運動機能検査で一定数がふるい落とされました。学力試験は数日にわたって行われますが、途中で一科目でも合格点に達さなかった者はその時点で失格となり、以降の科目を受けることなく退場となります。ある年の要項では、一日目に代数学、二日目に英文和訳と歴史(日本史・東洋史・世界史)、三日目に幾何きかと物理、四日目に化学と国語・漢文、五日目に和文英訳・英文法と地理(日本・世界)となっています。これら全てに合格すると、最後は面接・口頭試問がありました。

 ちなみに、この面接では、「お国の為に役立ちたいからです」といった四角四面な志望動機よりも、「陸軍が嫌いだからです」というような動機の方がむしろ好まれたようです。要は「海軍でなければならない理由」があるかどうかが大事なのですね。特攻兵器「回天」の運用に携わったことでも知られる潜水艦長の板倉いたくら光馬みつま少佐は、兵学校の面接で勢い余って軍艦への憧れを熱弁し、てっきり落ちたと思っていたら合格して驚いたという旨を自伝に書かれています。




 ✿ ⚓ 第10話「涙は後回し」より ⚓ ✿



【月月火水木金金】


 この言葉は多くの方がご存知でしょう。文字通り休日を返上して働くという意味であり、戦時中、銃後の市民の間でも盛んに使われたようです。

 本来、平時における海軍の艦隊勤務では、月曜の午前は各種点検や講話、月曜の午後と火曜・水曜・木曜は訓練、金曜と土曜は船体の大掃除や機関の整備、日曜は休みといった具合に、曜日ごとに大まかな日課が決まっていました。この予定を変更し、休日返上で毎日猛訓練に励む状態が「月月火水木金金」です。古くは日露戦争後の明治40(1908)年、「勝って兜の緒を締めよ」とばかりに猛訓練を行う艦隊を見て、奇行で知られた津留つる雄三ゆうぞう大尉(後に大佐)が「これではまるで月月火水木金金じゃないか」と言ったのが初出なのだとか。海軍では、奇行や話術に富む人気者を「大名士」と言ったのですが、中でもこの津留大佐という方は海軍一の大名士と名高かったそうです。

 ちなみに、かの有名な軍歌「艦隊勤務月月火水木金金」(現在は単に「月月火水木金金」というタイトルで知られています)のレコードは1940(昭和15)年に発売されましたが、当初は全く売れなかったそう。というのも、当時はビクター、コロムビア、ポリドール、キングといったレコード会社がこぞって軍歌をリリースしており、似たりよったりの「便乗レコード」を量産しているという批判も多かったのです。「~月月火水木金金」もその中に埋没していたのですが、ある時、放送局員のミスでたまたまこの曲がラジオで流され、瞬く間に国民的流行歌になり、終戦までに累計40万枚を売り上げたという逸話があります。今の言葉で言うと「バズる」というやつですね。




 ✿ ⚓ 第11話「私達の理由」より ⚓ ✿



【台湾かパラオあたりに居を構え……】


 あの後、林檎嬢にキョトンとした顔で「なんで台湾? パラオってどこ?」と尋ねられ、ああそうか、現代の人にとってそれらの地域は遠い外国なのだなと思い至りました。

 二十一世紀を生きる皆さんには想像しづらいかもしれませんが、私の時代、日本の統治が及んでいた領域は今よりずっと広かったのです。北海道から沖縄までの「内地」に加えて、台湾、当時でいう朝鮮、そして樺太からふと(現在はロシア領)の南半分は「外地」と呼ばれる日本領でしたし、パラオをはじめとする西太平洋の南洋諸島も「委任統治区域」といって日本の統治下に置かれ、多くの日本人が移住していました。当時の日本には八紘一宇はっこういちうというスローガンがあって……まあ、可愛いアイドル大和ナナの口からその辺りをあれこれ述べることは避けておきますが、ともあれ、当時の感覚からすると、「南の島にでも住もうかな」となったら「じゃあ足を伸ばしてパラオあたりに……」という発想が出てくるのはそれほどヘンなことではなかったと思います。

 ところで、エイトミリオンの方でも、2011年以降、ジャカルタ、上海、バンコク、台北、マニラなどアジア各地に海外支店の展開を続けているのですよね。民族や文化の異なる各国の少女達が、それぞれの言語で同じ歌を歌っている光景はなかなかに感慨深いものがあります。こうした平和的な海外進出ならどんどん進めてもらいたいですね。




 ✿ ⚓ 第12話「微笑み神隠し」より ⚓ ✿



海軍精神シーマンシップ


 当時の海軍には、シーマンシップの何たるかを示す標語として、「スマートで 目先が利いて 几帳面 負けじ魂 これぞ船乗り」 という有名な言葉がありました。この場合の「スマート」とは動作が機敏であるという意味ですが、刻一刻と状況の変化する海上では常に迅速確実な処置を心がけるべきであり、そして最後は「負けじ魂」……諦めず死力を尽くす精神も忘れてはならないという教えです。兵学校の五省ごせいにある「努力にうらかりしか」という言葉にも通じるものがあります。

 もっとも、わが海軍の軍人、特に士官は、理屈を度外視した精神論を有難がっていたわけではありません。「負けじ魂」も「努力に憾み勿かりしか」も、あくまで理性と知性をもって事態に対処するという前提を支えるものであって、理屈抜きで蛮勇を奮えという意味ではないのです。私の手元に、赤井英之助少佐という方が戦争末期の昭和20年に兵学校生徒に語った訓話の記録がありますが……「俺は特攻隊になるんだ」といきり立って勉強をおろそかにしている生徒達に対し、赤井少佐は、サイン・コサインもインテグラルも英語も、艦船の運用術も、気象や火薬の知識も、特攻を成功させるためには全てが必要なのだと述べ、勉強の重要さを説かれています。

 ともすれば、戦中の日本軍に関しては、竹槍でB29を落とせると思っていたというような荒唐無稽な話の印象ばかりが強くなっているかもしれませんが、海軍士官は本来、理性と知性を重んじる集団だったのだということは、知っておいて頂ければ嬉しく思います。



【海里とノット】


 海里かいり(ノーティカル・マイル)とは、海上で用いられる距離の単位であり、1海里が1852メートルに相当します。一見すると中途半端な数値に見えますが、これは地球上の緯度1分にあたる長さであり、航海ではこの単位が便利なのです。ちなみに、私の時代には「かいり」という字で表記するのが一般的でした。

 そして、1時間で1海里を進む速度を1ノットといいます。つまり1ノット=時速1.852キロメートルということになります。海軍軍人は皆この単位に慣れているので、海軍では航空機の速力もノットで表記されていたのですが、対する陸軍の航空機の速度計はキロメートル表示だったそうですね。この違いを知らずに海軍機に同乗した陸軍パイロットが、速度計を見て「失速してしまう」と慌てたという逸話もあるようです。

 ところで、作中で福津先輩が持っている船舶免許は、「二級小型船舶操縦士」といって、航行区域を海岸から5海里(約9キロメートル)以内に制限されていると聞きました。たった5海里ではどこにも行けないじゃないかと思ってしまいますが、例の第二海堡かいほうへの八景島ハーバーからの距離は、ちょうど直線で4.5海里くらい。ギリギリ法を破らずに突入できたということになります(免許保持者が搭乗していれば操縦は誰がしてもよい)。こうなると、全てのことが運命の導きだったのではないかと思わずにいられません。




 ✿ ⚓ 第13話「強き花々」より ⚓ ✿



【海軍士官と雨】


 作中で林檎嬢に語っているように、海軍士官には雨が降ったら傘を差すというような習慣はありません。士官は外出時の服装や振る舞いを厳しくしつけられており、軍服着用時には傘を差してはならないという決まりもありました。ではどうするかというと、大抵の雨は帽子で防いでしまいますし、大雨の際にも外套がいとう(コート)や雨衣(今でいうレインコート)でしのぐようになっていました。そもそも艦船の上で潮気を浴びるのには慣れっこですから、そのくらいで構わないのです。

 そうそう、帽子といえば……。士官は私用の外出時には背広(あるいは和服)を着用することとなっていましたが、私の時代、男が背広を着る際にはハットを被るのが常識でした。ジブリ映画の『風立ちぬ』でも帽子が印象的な小道具として使われていましたし、『サザエさん』の波平氏も背広を着て帽子を被っていますよね。夏は日よけ、冬は防寒、そして勿論雨をしのぐ用途に便利ですし、今の人ももっと帽子を被ればいいと思うのですが……。

 というわけで、林檎嬢にはヘンな顔をされますが、私はナナになっても帽子キャップを愛用しています。ほら、早くキャップテンになれるように……(大名士には程遠い)。




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 また長くなってしまいましたね……。ここまでお付き合い下さってありがとうございます。

 作中でナナとして駆け回り、また作外でもこうして皆さんの前で度々お話させて頂くにつけ、自分の時代と今の時代の違いや意外な共通点を私も改めて噛み締めています。いつまでこの時代に居られるかは分かりませんが、求めてくれる方がいる限り、この厳しくも誇らしい人生をナナに代わって走り続けたいものですね。


 続く第二章では、新グループ・瀬戸内エイトミリオンの立ち上げや、謎の少女ユミコとの関わり、そして林檎嬢との関係の進展(何だそれは? 手元の資料にそう書いてあるのですが……)等々、まだ見ぬ物語がナナこと私を待ち受けているようです。今後も宜しくお付き合い頂けますと幸いです。それではまた!

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