第10話 涙は後回し(1)

 白く淡い光の中に俺は立っていた。賑やかな笑い声に目を凝らすと、かすみがかったような光の向こう、見渡す限りの桜の下に大勢の男達が輪になって座り、楽しそうに酒盛りをしていた。


「ここは靖国やすくにか……?」


 そこには俺と同じ飛行隊の仲間達もいた。俺は彼らに駆け寄ろうとしたが、なぜか鳥居に阻まれて中に入ることができなかった。


「あんたはまだお呼びじゃねえよ、少尉」


 ペアの真島まじまが煙草をくわえたまま立ち上がり、鳥居の向こうから言ってくる。その横では御木本みきもとが未成年のくせにさかずきあおり、「そうそう」と赤ら顔で頷いてきた。


「なぜだ。俺もそっちに入れてくれ」


 俺が言うと、真島は紫煙しえんを吐き出し、ふっと笑って首を横に振った。


「あんたは現世でセブン何とかってカミサマになるんだろ。俺達は逃げやしねえから、せいぜい遠回りして来なよ」


 戦友達の笑顔が歪んで消え、気付けば俺は秋葉原の劇場のステージに居た。満員の観客達の一番奥で、マキナの背中が劇場の扉から出ていこうとしているところだった。


「マキナ!」


 俺の呼びかける声に、彼女はそっと振り向いて、控えめに手を振ってきた。


「お願い、ナナ。わたしの分までエイトミリオンで輝いて――」


 そこで目が覚めた。天井に向かって突き出したナナの手は、現実の世界でマキナと握りあったその感触を覚えていた。


「なぁちゃん、夢……?」


 同じベッドの林檎嬢が、疲れの取れない声で聞いてくる。


「……いや。現実にするんだ」


 俺はベッドから跳ね起き、カーテンを開け放って朝日を浴びた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 マキナの告白を聞いたその翌日から、俺はますます一心不乱にナナとしてのアイドル修行に打ち込むようになった。青く燃え上がる心の炎に突き動かされて。

 チームのレッスンがある日もない日も、欠かさずレッスン場に通い、先生や先輩をつかまえてはダンスの振りを教えてもらった。マネージャーから例のタブレットという機械を借りて、過去の公演の動画を他のチームや地方支店のものまで見漁り、アイドルらしい振る舞いや現代の女子のトーク、そしてナナのパーソナリティを以前にもまして精力的に研究した。もちろん、秋葉原の劇場で公演がある日には必ず足を運び、時には関係者席から、時には舞台裏から、チーム・クアルトや他のチームのメンバー達の動きを徹底的に観察した。

 ユニットの一曲だけでも出させてほしいと朱雀先輩に熱願し、林檎嬢らと四人曲のステージにも立った。「懺悔ざんげ」といういかめしいタイトルのその曲は、セットリストに幅を持たせるため組み込まれている「格好良い系」の曲の一つで、ロック(一九五〇年代以降にアメリカで流行った音楽らしい)調の激しい旋律に乗せて声量を絞り出すパフォーマンスは俺の気性ともよくマッチした。二度三度とユニット曲で場数を踏み、客席からの歓声にも慣れてきた俺は、いよいよフル出演への復帰に向けて全体曲のレッスンに励んだ。

 筋肉が悲鳴を上げれば歌の訓練を、声が枯れれば林檎嬢を相手に会話の訓練を、それも出来ないときは鏡の前で笑顔の訓練に明け暮れた。もとより戦時の海軍しか知らない俺である、「月月火水木金金」は慣れっこだった。



「ナナ、あなた記憶喪失ってホントにホント?」


 ある時、朱雀先輩が二人きりの廊下で声をひそめて尋ねてきた。俺が「秘密はあっても嘘はつきませんよ」と返すと、先輩はレッスンでバテきった顔にふわりと笑みを浮かべて言った。


「ダンス忘れちゃった人の動きじゃないもん。きっと身体が覚えてるんだよ」

「……だとすれば、前の私に感謝しないといけませんね」


 振り付けを覚え直すのは俺の頭だが、動画でのナナのイメージに合わせて手足を振ると、身体が勝手に定位置に吸い寄せられるような感覚を覚えることが何度もあった。この全身に深く刻まれたナナの記憶が、夜空に輝く北極星ポラリスとなって航路を教えてくれるかのように。


「でも、ナナだけに重荷は背負わせないよ。わたしも一緒に十六位圏内選抜目指すからね」

「ええ。マキナのために」


 先輩と俺はこつんと拳を付き合わせる。マキナの秘密を知る朱雀先輩と林檎嬢と俺の間で、「マキナのために」というのは決意を示す合言葉になっていた。


 スプリングの報道が出た数日後、マキナは運営部を通じて正式に活動休止を発表していた。表向きは「体調不良」を理由としていたが、ゴシップ報道を受けての事実上の謹慎措置であることは、世間の誰の目にも明らかであるはずだった。

 昨年の総選挙では、賀集かしゅう我叶わかなと朱雀先輩に次いでチーム・クアルトの序列三番手だったマキナ。六月頭に発売される最新シングル「羽根があるなら」の歌唱メンバーにも、チーム・クアルトから朱雀先輩とともに選ばれていた彼女だが、恐らくはそれも見送りになるだろう。スキャンダル後の活動休止は軍隊で言えば予備役よびえき編入のようなもので、現役の任を実質解かれてあとは卒業のタイミングをうかがうばかり……というのが実情らしい。

 真実を知らない世間の目はマキナに冷たかったし、マキナ自身ももうエイトミリオンに戻らない覚悟を決めているようだった。だからこそ、俺達は彼女のために走らなければならないのだ。



「なぁちゃん、気持ちはわかるけど、ちょっと頑張りすぎじゃない?」


 林檎嬢は時折そう言って心配してくれたが、一期下の黎音りおんが既にシングル表題曲のセンターの座を射止めているのを思えば、俺が休むことなど出来ようはずもなかった。

 エイトミリオンにおいて「選抜」という言葉は二種類の意味を持つ。広義の「選抜入り」とは、都度都度のシングル表題曲の歌唱メンバーに選ばれることを意味し、狭義の「選抜入り」は年に一度の総選挙で十六位圏内にランクインすることを意味する。後者を目指す以前にまず前者に定着しなければお話にならないわけだが、黎音が既にシングル選抜の常連となりつつあるのに対し、ナナはぽつりぽつりと二回ほど入ったことがあるのみ……。全支店を通じて十六名から最大でも二十数名程度の狭き門に食い込むには、残念ながら大和ナナの貫目はまだまだ足りない。


ナナはりーおんに抜かれてるんだ。もっと頑張らないと」

「べつに、シングルの選抜に入ることだけが全てじゃないよ。公演でも、頑張れば見てくれてる人はいるし……」

「そうだな。……問題は、相手にも同じ機会があるってことだよ」


 俺がダンスに手こずっている間にも、黎音は本店の次点主力部隊であるチーム・リーヴスの公演エースとして場数を積み重ねている。総監督の木津川きづがわ先輩は、黎音はナナを追い越したくて頑張っているのだと言っていたが、俺からすれば黎音こそが抜き返すべき目標艦なのだ。


(総選挙選抜への道は、やはり険しい……)


 ナナの部屋にあったコンサートのDVD(レコードの映像版がこのサイズなら、これより小さいスマホの中に大量の映像を蓄えるのは一体どういう仕組みなのだろう)で、「永遠サーキュレーション」冒頭のカウントアップを高らかに歌い上げる黎音の姿を見て、俺は彼女にあってナナに足りないものを考えては頭を抱えた。

 そんな時、落ち込みかける俺の心を奮い立たせてくれるのは、誰あろう指宿いぶすきリノ閣下の、力に満ちた言葉の数々だった。


『多くの人が言いました、わたしがセンターに立ったらエイトミリオンが壊れると。でも約束します。わたしは、先輩達の築いてきたエイトミリオンを絶対に壊しません』


 兵学校校長の訓示を何度も読み返したあの頃のように、俺は、過去の総選挙のDVDに収められた閣下の当選演説を事あるごとに見直し、その一言一言の重みを噛み締めた。

 五期生として加入したばかりの頃、彼女はエイトミリオンの「ヘタレキャラ」と呼ばれ、誰も彼女が将来上に立つことなど予想もしなかったという。しかし、彼女はたゆまぬ努力で頭角を現し、二〇一二年の総選挙では加入五年目にして遂に七姉妹セブン・シスターズにまで上り詰める。そして、地元九州を拠点とする博多エイトミリオンへの移籍をさらなる追い風として、翌二〇一三年には二代目女王壬生町みぶまちユーコを倒し、堂々玉座に就いたのである。

 二〇一四年には羽生はにゅうマユに女王の座を明け渡すものの、翌年には一位を奪還して大いに面目を施した。その際の彼女の訓示は、画面越しでもしびれるような迫力をもって俺の胸に迫ってくる。


『壁にぶつかっている日本中の皆さんに伝えたい。わたしの一位を皆さんの自信に変えてください。そして、皆さんの力も合わせて、これからも天下無敵のエイトミリオンを作り続けていきましょう!』


 優れた将が居ればこそ現場の士気も上がる。二十代そこそこの女性だというのに、彼女の将たる器は歴々の軍神達にも引けを取らないように今の俺には見えた。

 ナナは恐れ多くもその指宿閣下から「本店の顔になれ」と託されたのだ。朱雀先輩でも林檎嬢でも黎音でもなく、閣下はナナを未来のエースと名指ししたのだ。あの方がそう言うのなら出来るに違いない――そう信じることこそが、時に崩れそうになる俺の心を支える最大の柱だった。




 そうして諸々の鍛錬に励むこと約半月。林檎嬢の助けで女子の大変さも何とか乗り越え、公演へのフル出演復帰も間近と思われた頃、俺は劇場支配人の忍野おしの女史に呼び出された。エイトミリオンの衣装デザイナーとしても活躍する、恰幅の良い女性である。


康元やすもとさんからナナちゃんに白羽の矢が立ってね。あの人、ドラマチックな話が好きだからさー」


 手狭な事務室で俺と向かい合い、忍野女史はよく肥えた腕を組んで(康元プロデューサーのモノマネらしい)、ふふんと不敵な笑みを見せて言った。


「復帰に向けて燃えるナナちゃんが、戦友のマキナちゃんの意志を継いで戦うって、いいドラマになるよなって。……『羽根があるなら』選抜のマキナちゃんの空席、ナナちゃん入る気ある?」


 彼女に問われた瞬間、どくんと心臓が脈打つのを感じた。

 稲妻の如く脳裏に思考が駆け巡る。これは貴重なチャンスだ。ナナ自身のためにも、マキナのためにも。

 俺は緊張による渇きも忘れ、即座に声を張り上げていた。


「はい、望むところです!」


 テンションが上がって(この使い方で合っているか?)俺が大声を出しすぎてしまったからか、女史は半秒ほど目を見開いていたが、すぐに腕組みを解いて快活な笑いを見せた。


「おっけー、じゃあ頑張りなさい。初披露までそんなに日はないからね」

「了解しました! 康元先生にも、大和ナナが感謝申し上げておりますとお伝え下さい」

「はいはい。……まあ、何ていうかさ、ナナちゃんの頑張りが康元さんの胸を打ったってことよ」


 からからと笑う忍野女史に頭を下げ、俺は意気揚々と部屋を後にする。

 今年の総選挙が始まる前の最後のシングル選抜。願ってもない機会だ。今のナナの全てをぶつけてやろう――

 劇場の廊下を行く俺の足取りも、自然と軽く弾んでいた。

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