第9話 Party is Over(2)

 マキナのマンションは電車で数駅の距離だった。マスクと揃いの帽子キャップ、度無しの眼鏡で念入りに変装をして、俺と林檎嬢は足早にその場所を目指す。

 夜の街は俺達の焦燥を知らず、嫌味なほど普段と変わらない賑やかさを保っていた。揺れる電車で林檎嬢を守るように立っていると、近くの座席から若い男性達の呑気な声が聞こえた。


「へえ、エイトミリオンにスプリング砲だって」

「ふうん。ユキリン?」

「いや、なんとかマキナって子」

「全然知らねー」


 彼らの会話は、握手券一枚分よりも短い時間ですぐに次の話題に移っていた。俺は努めてそれを聞かない振りしていたが、林檎嬢はマスクの下で一つ小さく嗚咽を漏らしていた。

 マキナの最寄り駅に着き、俺達は人の波に混ざってホームに吐き出される。

 一人のアイドルが芸能人生を閉ざされようとしているというのに、街を行き交う人々は誰一人としてそれを気にすることもなく、いつもと同じ一日を終えようとしていた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



『いやです。ナナになんか会いたくない』


 エントランスのインターホン越しに聞くマキナの声は、静かな嘆きと失望に張り詰めていた。


「なぁちゃんは、今はマキナちゃんに謝って、力になりたいって」

『……わたし、もう誰のことも信じられません』

「そんなこと言わないで……わたし達がいるよ」


 声色を変えないマキナに、林檎嬢は懸命に言葉を掛け続けてくれていた。

 俺は口を挟めない。挟めるはずもない。彼女がせめて部屋の扉を開けることを許してくれるまでは……。


『ごめんなさい、わたし、もうエイトミリオンには……』


 姿の見えないスピーカーからマキナの声がそう言いかけたとき、俺達の後ろで自動扉がすうっと開く。


「! 林檎、ナナ――」


 部屋着同然の格好で息を切らせ、エントランスに駆け込んできたのは、チームキャプテンの朱雀先輩だった。


「先輩!」

「わたしだけかと思った。ほんっとに頼れるチームメイトだなー、あなた達は」


 朱雀先輩が間に入ってくれてから、マキナが俺達を部屋に招き入れるのに、それほど時間はかからなかった。




 ようやく二度目の対面を果たしたマキナは、化粧なしの顔に滲んだ涙のあとを隠しきれていなかった。

 二人と一緒に板張りフローリングの居間に通され、俺は勧められるがままクッションの上に正座する。ナナのマンションほどの広さはないが、掃除の行き届いた綺麗な部屋で、白い壁にはエイトミリオンの黎明期のものと思しきポスターが数枚並んで貼られていた。


「マキナ……まずは君に謝らせてほしい」


 俺達の前で力なくベッドに腰掛けたマキナは、顔をうつむかせたままだったが、俺の言葉にぴくりと身体を反応させるのがはっきりとわかった。


「あの日、君の話を聞きたくないと言ったのは私が悪かった。本当に申し訳ない。この通りだ」


 俺は膝の上に両手を置いて彼女に頭を下げたが、マキナは泣き腫らした目でちらりと俺を見て、「何なの」と言うだけだった。


「マキナ、ナナはずっとあなたのことを気にしてて――」


 先輩が横からフォローしてくれるのを遮って、彼女は小さく首を横に振る。


「……写真も見たくないし、そんな話もしたくないって言ってきたじゃん。前は、わたしのこと信じるって言ってくれたのに。今だって何!? どういう気か知らないけど、そんなヘンな喋り方して、知らない人みたいに……!」

「マキナちゃん、違うの!」


 俺が何か言おうとするより先に、林檎嬢が身を乗り出していた。彼女が何を明かそうとしているのかを察し、俺は「林檎さん」と彼女を止めようとしたが、彼女はそれを優しい目で否定して続けた。


「なぁちゃんは……倒れた時に、今までの記憶を全部なくしちゃってるの。だから、わたし達のこともほんとは知らないんだよ。……それでも頑張って皆に合わせようとするこの子の姿を、わたしはずっと傍で見てきた」


 マキナが初めて顔を上げた。はっと見開かれたその目が、俺と林檎嬢の上を交互に泳いでいた。

 横で朱雀先輩の小さく呟く声が聞こえた。「やっぱり」……と。


「……マキナちゃんに辛い思いをさせちゃったのは、なぁちゃんが悪かったと思うよ。だけど、わざと突き放したんじゃないのは分かってあげて。……なぁちゃんは今、あなたに寄り添ってあげられなかったのをすごく悔やんでる。だから、ネット見て、すぐここに……」


 涙に声を詰まらせた彼女の言葉を、朱雀先輩が自然に引き継ぐ。


「マキナ、わたし達はあなたの味方だから。ナナも林檎も、勿論わたしも。……あなたが何をしちゃったんだとしても、たとえグループを辞めちゃうことになっても、それでキライになったりはしないから」


 先輩の言葉に、マキナは遂に顔を覆って泣き出してしまった。二人がすぐさま彼女の傍に寄って、清潔なハンカチを差し出したり、肩を抱いたりするのを見やり、俺はぐっと膝の上の拳を握って背筋を正した。

 何も出来ない俺に代わって彼女達がここまで話してくれたのだ。ここからは俺の口で話さなければならない。女言葉を取り繕っている余裕など微塵もなかった。


「マキナ、君が前の私に言いたかった話を今こそ聞かせてくれ。君の犯した過ちが何であっても、私はちゃんとそれを受け止める」


 ナナの声帯を震わせ、俺が一言一言をはっきりと述べると――

 今夜一度も俺と合わせることのなかったマキナの視線が、初めてまっすぐに俺の目を捉えた。


「……わたし、何もしたくなかった」


 朱雀先輩と林檎嬢に支えられたまま彼女は言った。胸の奥底から絞り出すような声だった。


「本当のアイドルで居たかった。でも、皆を酷い目には遭わせられないから……」


 俺達の前で何度も首を横に振ってから、彼女はハンカチに涙を染み込ませ、溢れる嗚咽をこらえて、ぽつりとまた口を開いた。


「……わたし、前に『Jの方程式』に出たとき、共演のギャルソンの子達にライン聞かれて。その時は教えなかったんだけど……卒業した子の誰かからIDを聞いたみたいで、しつこく遊びに誘われるようになっちゃって……」


 それから、マキナが涙混じりの声で訥々とつとつと語ったのは、身の毛もよだつような話だった。

 ギャルソン事務所の壮年男性が司会を務めるあの「Jの方程式」という番組は、そのまま、ギャルソンの若い男子達のガールハントの場として機能していた。時には甘言かんげん籠絡ろうらくし、時には卑劣な脅しまで用いて、ギャルソンの男子達は、芸能界での立身出世を夢見る無名な女子達を日常的に食い物にしていた。

 その毒牙は時としてエイトミリオンのメンバーにも及び、実際にギャルソンに食われて卒業に追い込まれた者が何人もいる。だが、彼らの本当の恐ろしさはそれだけに留まらない。

 彼らの中でも特に卑劣な者達は、自分達になびかない女子にはあの手この手で醜聞をでっち上げ、スプリングのようなゴシップ誌に売ることで意趣返しするのだという。そうなるくらいなら遊びに応じた方がましだと折れてしまい、自らのアイドル人生を守るために彼らの意のままになることを選んだ者もいたとか。

 マキナは最後まで折れようとしなかった。そんな彼女に彼らが突き付けたのは、過去に彼らに食われたメンバー達の、「秘蔵の写真」や「人に見せられない動画」を世間に流出させるという脅しだった。マキナが応じないなら、他の現役メンバーに同じ声掛けをするだけだ……とも。


「……そんなこと言われてさ、あはは、断れるわけないじゃん。……わたし一人が我慢すればいいなら。……それで他の子が傷付かなくて済むなら、って……」


 長い長い彼女の述懐を、俺は血が出そうなほどに唇を噛み締めて聞いていた。彼女の言葉に嘘があるなどとは微塵も思えなかった。

 林檎嬢は茫然自失といった表情でただ静かに涙を流していた。ひとり朱雀先輩だけが、気丈にマキナの手を握って言った。


「マキナ、警察に……。警察に相談しよう?」

「ダメです……。アイツら、それもハッキリ言ってきたんです。警察に行ったら、皆の写真や動画をネットに流すって……」


 ネットというのが何かは知らないが、言葉のニュアンスは分かる。テレビやモバメのような不特定多数への送信網を用いて、写真や動画を大衆の手に出回らせると……奴らはそう言っているのだ。


「アイツらの誰かが警察に捕まっても、きっと他の誰かがそれをやる。そうなったらもう……アイツらが刑務所に行こうとどうなろうと、出回った動画は二度と消せない……」


 マキナは肩を震わせ言った。女子ならざる俺にも、そういう画像をばら撒かれることが女子にとって何を意味するかは容易に想像できた。きっと、この時代の技術をもってすれば、画像も動画も個人の手で無限に複製し、数秒の内に地球の裏側までも届けることが出来てしまうのだろうということも。


「そんな脅しがあったのなら、それをちゃんと釈明すれば……」


 言いかけて、俺は途中で口をつぐんでいた。

 そんな弁解をしたところで、世間の何パーセントが彼女達を信じてくれるというのか。

 関東大震災の際には、外国人が放火をしたり井戸に毒を入れて回っているというデマが蔓延し、何百人から何千人とも言われる人々が私刑リンチに遭い死傷した。ことほど左様に、虚報、誤報は容易く真実を駆逐するものなのだ。


「……マキナ、私に何かできることがあったら」


 俺が再び言いかけたのを手で遮って、マキナは涙にうるむ目を上げた。その先には俺の顔でも二人の顔でもなく、紙の端が少し変色しかけたエイトミリオンのポスターがあった。


「ナナ……わたしね、ずっと前にも言ったけど、子供の頃からアイドルになるのが夢だったの。小学生の頃に、劇場で初めてエイトミリオンの公演を見て……わたしもあんなふうにキラキラ輝いてみたいって。……オーディションに受かったときは、もう死んでもいいってくらい嬉しかった」


 俺は深く頷いていた。それに通じる記憶が俺自身にもあったからだ。


「わかるよ。私も、合格の電報を受け取ったときは飛び上がるほど嬉しかった」


 高鳴る胸を押さえ、「カイグンヘイガツコウセイトニサイヨウヨテイ」の文字の並びを目にしたときの感動と興奮。憧れの海軍に、それも併願した機関学校ではなく本命の兵学校の方に入れると決まって、自分の人生が真に始まったような心持ちがしたものだ。

 マキナの気持ちがそれと同じだったことは、実家から持ってきたのであろうあの古いポスターを見るだけでわかる。


「ナナ達と一緒にレディバGyuで頑張って、一緒にチーム・クアルトに上がって、シングルの選抜にも入って……わたし、毎日が楽しかった。総選挙の順位もどんどん上がって、とうとう三十二位圏内アンダーエンジェルズにまでなれて。身の程知らずかもしれないけど、ドキドキしてたの。次の総選挙では、ひょっとしたら、ホントにこのまま十六位圏内選抜入りできるんじゃないかって。いつかは、神田アツコさんや壬生町みぶまちユーコさんみたいになれるんじゃないかって」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、マキナは言った。ナナの顔をその黒い瞳にまっすぐ映して。


「でも、もう夢はおしまい」


 ベッドの上からそっと手を伸ばして、マキナは俺の手を握りしめてくる。何万人ものファンの手を包み込んできたその両手で。


「お願い、ナナ。わたしの分までエイトミリオンで輝いて。ファンの皆が、わたしのことなんて思い出さなくなるくらいに……」


「……わかった」


 その柔らかな手を強く握り返し、俺は彼女と目を合わせたまましっかりと頷いた。


「約束する。君の思いも背負って私が戦う。今年の総選挙で必ず選抜に入る」


 そうしなければならないと俺自身の心が命じていた。ナナ本人がここにいれば、そう言わないはずがないと思った。

 涙に濡れたマキナの口元が、「ありがとう」と言葉を紡ぎ、微かに笑った。

 激しい火花が俺の心にはじけ、烈火の炎が全身に熱くたぎるのを感じた。

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