第9話 Party is Over(1)

『全部私が悪かったんです。皆さんに沢山心配をかけて、本当にごめんなさい』


 俺の手にした小さなスマホの画面には、涙ながらに頭を下げる丸刈りの女子の姿。紛うことなき板橋峯波みなみ先輩その人である。

 動画の日付は三年前。大きな目から涙を溢れさせたその姿は、つい数時間前にゲームセンターで明るく笑っていた彼女と同じ人とは思えないほど痛々しく、見ているこちらが罪悪感を覚えるほどだった。


『これで許されるとは思いませんが、できることならまだ、わたしは大好きなエイトミリオンでやりたいことが――』


 二度繰り返した再生を止め、俺は林檎嬢のスマホをそっと丸テーブルに戻した。カーペットに座ったまま、片手で目元を押さえて天上を仰ぎ、ふうっと大きく息を吐く。

 

「なぁちゃん、お風呂出たけど……」


 林檎嬢がパジャマを着てそっとリビングに戻ってきた。板橋先輩の動画を見ていることは彼女も知っていたので、おずおずとした調子で俺の心境をおもんばかるような声色だった。


「やっぱり、ショック?」

「……いや、すまない。確かにショックではあるがな……」


 男にとっては坊主頭など珍しくも何ともないが(俺だって兵学校を出るまでは五分刈りだった)、うら若き女子があんな風に頭を丸めることがどれほどの恥辱であるかは想像に難くない。自業自得だと言ってしまえばそれまでかもしれないが、直に話して笑いあった先輩なればこそ、いたたまれない気持ちは拭えなかった。

 ……という方面でのショックが、半分。


「うん……。でも、もう三年も前のことだから……。きっとみんな乗り越えてるよ。峯波さん自身も、わたし達も」


 林檎嬢はそっと俺の隣に腰を下ろした。その穏やかな声色はいつになく真面目で、決して形だけの言葉ではないことがしみじみと伝わってきた。

 そう、だから、その点はいい。板橋先輩が自らの傷を乗り越えて今笑っていることは、その笑顔を間近に見た俺だってわかっている。

 しかし……。


(……あんな面倒見の良い方が、なぜそんな過ちを……)


 俺の胸中を襲っていたもう半分の感情は、先輩が異性交遊の禁忌を犯してしまったという事実そのものへのショックだった。

 アイドルといえど年頃の娘さんだ、男と遊びたい気持ちはわかる。だが、そうした誰にでもある欲求を滅却し、己を厳しく律してこそ、彼女達はシアターの女神たりえるのではなかったか。

 特に板橋先輩は、三年前の時点で既に、エイトミリオンに僅か五人だけ残った一期生の一人だった。王道を行くか横道を極めるかの選択はともかく、精神性や生活態度においては常に後輩の手本となり、後輩を導かねばならない立場だ。自分が男遊びに手を出すことがグループ全体にどう影響するか、考えられなかったわけではあるまいに……。


(それほどまでに抗えない欲求なのか……?)


 男と連れ立って夜の街に消える板橋先輩の姿を一瞬想像しかけ、俺は思わずふるふると頭を振っていた。ナナの長髪が軽く崩れ、視界に不快な影を残す。


「林檎さん……親友と思って聞くが、君は男と遊びたいと思ったことは」

「ないよ、ないない! ……でも、だからって、わたしが峯波さんよりエライってわけじゃないからね」


 林檎嬢は普段のように不必要にナナにくっついて来ようとはせず、沈黙するテレビの真っ黒な画面をぼんやりと眺めたまま、静かな声で続けた。


「峯波さんは……素敵な人で、尊敬できる先輩だよ。わたし達は皆それを知ってる。わたしも、前のなぁちゃんも」

「……そうだろうな」


 板橋先輩のみそぎは既に済んでいると言える。頭を丸めて謝罪した彼女は、その後もくさらずにエイトミリオンで活動を続け、チーム・クアルトの初代キャプテンとなって林檎嬢やナナ達を導いたのだ。

 近代法治国家にあって、ひとたび罪をあがなった人の罪責をいつまでも論じるのは賢明な態度ではない。

 ……しかし、それでも。

 人の心がそう簡単に割り切れるように出来ているなら、誰も苦労はしない。

 罪を償い、皆に許されても、過去が無かったことになるわけではない。こぼれた水は盆には返らないのだ。


(……俺は、何を信じたらいい……?)


 先日の握手会で、何やら説教ごとの好きそうな男性から「ナナちゃんには板橋チルドレンから抜け出してほしい」とか何とか言われたのを、いやに鮮明に思い出す。

 今にして思えば、あれは王道を行けというだけの意味ではなく、醜聞スキャンダルを起こすような先輩とは早めに距離を取れよというニュアンスが多分に含まれた言葉だったのだろう。ナナからすれば余計なお世話だろうが、しかし、朱に交われば何とやらを恐れるファンの心情もまた分からないわけではない。


「林檎さん、七姉妹セブン・シスターズに入るには――」


 表向きだけでも「不埒な」先輩と距離を取らねばならないのだろうか、と、俺が残酷すぎる質問を切り出そうとした、そのとき。

 ぴろりん、と林檎嬢のスマホが鳴った。

 丸テーブルに手を伸ばし、俺がスマホを取って渡した次の瞬間、彼女の目がぱちりとしばたいて固まる。


「えっ――」

「どうした?」


 画面を見る彼女の表情は、敵機の急襲を目にした新兵のように凍りついていた。


「……そんな」


 彼女の震える指がスマホの画面をタップする。無音の世界の中、ちらりと彼女が俺を頼るように顔を向けてくる。一人じゃ見られない、と、その揺れる目が訴えていた。


「一体何を……」


 俺は彼女と身体を寄せ合うようにして、白い手に収まった画面を覗き込んだ。画面の上部には「オンライン・スプリング」と題字が踊り、そのすぐ直下には、夜の街に煌々こうこうと明かりを放つ何かの施設の写真が表示されていた。

 施設の前には数人の人影。不鮮明な画像だが、髪を派手な色に染めた男子が三人ばかりと、あとは――


「マキナか……!?」


 帽子キャップとマスクで顔を隠してはいるが、その線の細いシルエット、くるくるとウェーブした長髪、そして忘れようにも忘れられないその横顔は、あの小西田マキナ嬢に他ならなかった。

 林檎嬢が画面を下にスクロールする。写真の下には記事の見出しが大きな文字で記されていた。「エイトミリオン小西田マキナ、ギャルソン男子とゲーセン深夜徘徊」――。


「林檎さん、これは何だ。何かの冗談ではないんだろうな」

「……わかんない。わかんないよ」


 ナナの心臓が俺の意識を映して早鐘のように打っている。動揺に心を持って行かれそうになりながらも、気付けば俺は林檎嬢の持つスマホに自分も指を伸ばし、食らいつくように記事の本文を追っていた。英文のような横書きと簡略化されすぎた漢字には未だに目が慣れないが、記事の伝える内容はすぐに読み取れた。


「『エイトミリオンの人気若手の一人・小西田マキナの、ファンには見せない裏の顔が明らかになった』……『都内のゲームセンターで撮影されたと思しき一連の深夜徘徊写真は、一般人が当編集部に持ち込んだもので』……」


 記事の途中に挿入する形で、他にも何枚かの写真が貼られていた。いずれも、どこかのゲームセンターの遊技台や看板をバックに、三人の男達とマキナが並んで映っているものだった。


「『映っているギャルソン男子の内の一人は、我々の突撃取材に事実を認めており』……『スプリング編集部では、未成年飲酒やその他の“お遊び”の可能性もあるとみて、引き続き取材、調査を進めていく』――」


 口早に記事の要点を呟く俺の声に、林檎嬢は途中から辛そうに両手で耳を塞いでいた。


「なんで……マキナちゃん、なんで……!」


 震える肩を抱き寄せてやることもできないまま、俺は己の眉間に指を当てて必死に思考を巡らせる。

 あの日、「こないだの話」を続けたいと言ってナナを連れ出したマキナ。彼女がやはり「ゲーセンの話」と言っていたのだとしたら……。


「ナナをゲーセンに誘いたかったのか……? 彼女はそれをヘル談だと言った……。俺が断ると、ナナのことは味方と思っていたのに、とも……」


 マキナはナナを仲間に引き込もうとしていたのか? このギャルソン男子達との遊びの場に?


(……だとすれば、許せる話ではないな……)


 胸の奥から憤りのようなものが沸々ふつふつと喉元まで上がってくるのを、俺は静かに感じていた。

 マキナが勝手に夜遊びするのはまだいい。一期生である板橋先輩ほどの重責も彼女にはなかろう。だが、真面目にエイトミリオンの活動一筋に邁進まいしんしていたのであろうナナを、事もあろうにギャルソン男子との浮ついた遊びの場に連れ出そうとしていたのなら……。


「……なぁちゃん。なに、ヘルダンって……?」

「え?」


 林檎嬢のぽつりと尋ねる声が、俺の意識を目の前の彼女へと引き戻した。


「ヘル談というのは、助平ヘルプな話という意味で、文字通り猥談わいだんのことだが……。この時代にもある言葉じゃないのか?」

「……ううん。少なくともわたしは知らない。マキナちゃんが言ったの?」

「……」


 涙をこらえた彼女の目に見つめられ、はて、と俺はあの日の記憶を辿った。

 あの時の俺はゲーセンという語彙を知らなかった。「下船の話」と捉えて、エイトミリオンを辞める気なのかと言った俺に、マキナは辞めたくないと答えた。そして、「スプリングの写真」とやらが問題なのだと。


「スプリングの写真というのは、俺達が言うところの春画ヘルピク、いかがわしい写真のことだと思ったが……。だから俺は聞いたんだ。下賤げせんの話というのは、助平ヘルプな類の話……つまりヘル談のことか、と」

「それで、マキナちゃんは?」

「……その通り、ヘルプな話だからナナに聞いてほしい、と」


 林檎嬢の顔にさっと激情の赤が差す頃には、俺も自分の間違いを察していた。


「あの子が軍人さんの言葉なんか知ってるわけないじゃん! それはあなたに助けてって言ってたんだよ! この写真がスプリングに出ちゃうかもしれないから、友達のあなたに相談したいって!」


 涙を散らし、声を荒げて彼女は俺に詰め寄ってくる。俺は心を串刺しにされたように何も言えなかった。すぐ眼前に迫った彼女の顔は、怒りとも悲しみともつかない感情に揺れていた。


「……今のあなたがスプリングもゲーセンも知らないのはしょうがないよ。だけど、マキナちゃんは……。あの子は、頼りたかったなぁちゃんに拒絶されたと思って、あれからずっと……」

「……」


 無音の部屋に彼女のすすり泣く声だけが響く。何も言い訳など出来るはずがなかった。男なら、士官なら、見苦しく言い訳などしてはならなかった。


「……まだ、電車は動いてるな」


 言い訳の代わりに俺が言うと、林檎嬢は涙に濡れた目をハッと見開いた。


「マキナの家に行こう。申し訳ないが、君も来てくれないか」

「……うん。行くよ。わたし、あなた達の先輩だもん」


 彼女は指で涙を拭って立ち上がり、服を着替えるために寝室へと消えた。俺は乱れた長髪をきゅっとゴムでくくり、鏡に向かって小さく深呼吸する。

 過ちをあがなっても過去は消えない。それでも、何もしないよりはずっといい。


「……君ならきっと行くだろう、大和ナナ」


 鏡に映るナナの顔が、あたりまえだ、と答えたように見えた。

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