【飛羽隼一の海軍ワンポイント講座 vol.4】


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 本作『NAVY★IDOL』をご覧の皆さん、こんにちは。大和やまとナナこと飛羽ひば隼一じゅんいちです。

 作中の事物や用語に絡めて、帝国海軍や私の時代の豆知識を皆さんにご紹介するこのコーナー。今回は長丁場となった第8話からの内容をお送りします。

 ゲームセンター、落ち着いたらまたプライベートで行きたいですね……。




 ✿ ⚓ 第8話「今の仕合せ」より ⚓ ✿



【海軍士官と恋愛】


 林檎嬢は私に恋バナをさせたくて仕方ないみたいですが、実際、私は中学の頃から石部金吉で通っていましたし、海軍兵学校はアイドルと同じく異性交遊厳禁、卒業後は飛行学生を経てすぐ前線に放り込まれ、戦いばかりの毎日でしたから……恋愛などする隙間はなかったのですよ。

 そもそも、当時、海軍士官の結婚適齢期は大尉だいいの二、三年目くらいが相場とされたもので、私のようなヒヨッコ少尉には縁談など文字通り十年早いのです。少尉の薄給では仮に結婚しても士官の体面が保てないので、軍部の許可もそうそう下りないでしょうしね。

 ……そう、皆さんには驚かれるかもしれませんが、軍人の結婚って許可制なんですよ。下士官兵でも所属の鎮守府ちんじゅふ長官の許可、准士官以上は海軍大臣の許可、将官に至っては勅許ちょっきょ(天皇陛下の許可)が必要とされていました。そして、士官の縁談ともなれば相手のお嬢さんの身辺調査も厳しく行われますから、現代のように誰とでも自由に結婚できるとはいかなかったのです。

 また、結婚以外の自由恋愛のチャンスも、海軍士官には有って無きが如くでして。というのも、士官社会の内輪のルールとして、女性遊びは「玄人さん」限定というのが鉄則だったのですよ。素人の娘さんに遊びで手を出そうものなら、同期の連中から総スカンを食らって、クラス会(同期の卒業生の集まりのこと)を除名になってもおかしくなかったくらいで……。いずれにせよ私には縁のない話でしたが、ともかく、皆さんの感覚でいう恋愛は、我々には皆無だったと思って頂ければ。

 そこへいくと現代は、幹部自衛官の方が誰と恋愛したところで表向き咎められはしないでしょうから、やはり我々の頃と比べるとずっと自由で良い時代といえるでしょうね。



【二階級特進】


 この言葉は皆さんもよくご存知でしょう。公務中に命を落とした軍人や警察官などを「二階級特進」させることで、その名誉を称えるとともに、遺族への補償・年金などを手厚くするという制度ですね。

 しかし、実は私の時代、殉職した軍人は必ずしも「二階級」特進するとは限らなかったのです。そもそも、殉職時の特進の制度は、日露戦争で戦死した広瀬ひろせ武夫たけお海軍少佐、たちばな周太しゅうた陸軍少佐の両氏を軍神として讃えて特進させたことが始まりなのですが、当時は二階級特進という概念はなく、彼らの特進は一階級にとどまっていました(両氏とも「広瀬中佐」「橘中佐」という題名の軍歌に名前が残っています)。後に、第一次上海シャンハイ事変における陸軍の「爆弾三勇士」を一等兵から伍長に二階級特進させて讃え、それ以降、抜群の武功を挙げた戦死者については二階級特進させるのが慣例となりました。

 そう、あくまで功績抜群の戦死者についてのみ二階級特進ということなので、訓練中や、戦闘以外の任務中の事故で殉職した場合、特進は一階級だけだったのです。また、将官には二階級特進は認められておらず、少将が大将に特進する事例はなかったようです。対して、元々の階級がそれほど高くない場合は特進も比較的寛容だったようで、陸軍さんでは航空特攻に殉じた下士官を最大で四階級特進させていた事例もあったと本で読みました。

 私の場合は、ご存知の通り少尉で戦死したわけですが……没後の階級はどうなったんでしょうね。仮に二階級特進していれば、靖國神社の名簿には「飛羽隼一海軍大尉」として掲載されているのでしょうが、私自身は少尉のまま現代に来たつもりなので、なんだか不思議な感覚になりそうです。



【上陸止め】


 海軍において「上陸」という言葉は「休暇」を意味します。もちろん、乗艦勤務している将兵は文字通りふねから港に降りて休むのですが、元から陸上勤務である者についても「上陸」という言い方が使われていました。

 上陸止めとは、その上陸(休暇)をお預けにしてしまうという懲罰であり、艦内の規律を乱したとか、時間に遅れたとかいった事由に対して「上陸止め何回」という形で上官から言い渡されていました。乗艦勤務の下士官兵にとって、むさ苦しい男所帯で、入浴もままならない艦内から一時解放される上陸は切実に待ち遠しいものであったはずで、この上陸止めは相当こたえるムチとして機能していたはずです。

 一方、海軍は上陸をムチだけではなくアメとしても上手く使っていました。つまり、良いことをした者には褒美として上陸の回数を増やしていたわけですが、中でもユニークなものに「ネズミ上陸」というのがありました。艦内にいるネズミを退治して上官に届け出ると、一匹あたり一日の上陸が与えられていたのです。同様に「アブラムシ上陸」というものもあり、こちらは二百匹で一日だったとか。こうして、上手いこと兵達を働かせて、艦内の清潔を保っていたわけですね。



【海軍と陸戦】


 海軍軍人といえば、ふねや飛行機に乗って戦うのが基本というイメージがありますが、陸戦とも全く無縁だったわけではありません。海軍兵といえど、時として陸地の占領や防衛のために陸上戦闘を行う必要はありますから、陸軍兵のように小銃や機銃、大砲などで戦う訓練もちゃんと受けていたのです。

 そして、その陸戦の指揮を執る立場となる我々士官も、兵学校で一通りの陸戦技術を仕込まれていました。江田島のシンボルである古鷹山ふるたかやまの中腹に、距離300メートルの小銃射撃場と、距離50メートルの拳銃射撃場があり、陸軍制式の三八さんぱち式歩兵銃とか、十四年式拳銃とかで射撃の訓練をしていたのです。指揮官先頭の精神を大事にしていた海軍にあって、士官がまともに小銃も撃てないのでは部下に示しが付きませんからね。

 ところで、通常の陸戦隊は、乗艦配置の下士官兵をもって都度編成されるのですが、大東亜戦争に突入すると、次第にそれだけでは心もとないということで、鎮守府の海兵団など陸上部門の人員からなる「特別陸戦隊」も編成されるようになりました。そして、これらの特別陸戦隊が戦時の臨時編成という建前だったのに対し、海軍で唯一の常設陸上部隊に格上げされたのが、映画にもなった「上海シャンハイ海軍特別陸戦隊」――通称「上陸シャンリク」です(休暇のことではありません)。アメリカやイギリスには、海兵隊マリン・コアといって、海軍と陸軍のハーフのような軍種がありますが、戦車まで備えた本格的な陸上部隊であった上陸シャンリクは、比較的それに近い部隊だったと言えるかもしれません。



【飛羽隼一の経歴】


 作中でも少し触れていますが、海軍兵学校を出た者は直ちに前線へ出るわけではなく、まずは「少尉候補生」として各々の配属艦に放り込まれ、艦上勤務のイロハを改めて叩き込まれることになります。これが「実務実習」と呼ばれるもので、前期・後期とありました。

 かつては「遠洋航海」といって、この実務実習の時期に練習艦で世界を回って見聞を広めるという楽しみもあったそうですが、我々の頃には既に戦況が逼迫していてそれどころではなく、前期実務実習は瀬戸内海の柱島はしらじま艦隊泊地で行われていました。我々71期は、昭和17年11月に兵学校を卒業し(この頃は兵学校の在学年数が年々短縮され、期ごとに卒業スケジュールが違うという有様でした)、前期実務実習を終えたのが1月半ば。その後、集団で上京し、天皇陛下への拝謁、海軍大臣の訓示などを経て、各々の任地へと旅立つこととなりました。

 艦隊配属の者は、戦艦、巡洋艦などそれぞれの配属先の艦で引き続き後期実務実習を受け、少尉に任官するわけですが、我々航空要員は少し様子が違っていました。というのも、本来、海軍士官で航空畑へ進む者は、前期・後期の実務実習でまずはふな乗りの素養を徹底的に鍛えられ、少尉に任官した上で初めて飛行学生へ進むことになっていたのですが、私の頃には航空要員の短期育成が急務となっていたため、我々は前期実務実習を終えただけで霞ヶ浦かすみがうらの練習航空隊へ送られ、少尉候補生の身分のまま39期飛行学生となったのです。

 そして、昭和18年6月、飛行学生のまま少尉に任官し、19年1月に飛行学生を卒業。いよいよ戦地へ。私はこの時点で戦死まであと3ヶ月です。……ね、女性と遊ぶ隙間なんてないでしょう。



面舵おもかじ取舵とりかじ宜候ヨーソロ


 艦船の操舵そうだにおいて、右に舵を切ることを面舵おもかじ、左に舵を切ることを取舵とりかじ、そして直進を宜候ヨーソロといいます。騒がしい艦上において聞き間違えることがないように、面舵おもかじは「おーかーじ」、取舵とりかじは「ーりかーじ」とイントネーションを変えて発音することになっています。現代の海上自衛隊でもこれは変わらないようですね。

 これらの用語は、幕府海軍、さらには中世の村上水軍にまで遡ると言われ、面舵おもかじの方向に切るから「うかじ」→「うむかじ」が訛って「おもかじ」、取舵とりかじとりの方向に切るから「とりかじ」が由来なのだとか。宜候ヨーソロはそのまま「よろしくそうろう」、つまり「いいですよ」くらいの意味ですね。

 実際の覚え方としては、作中でも述べているように、面舵おもかじの「も」の字は右に払うから右、取舵とりかじの「り」の字は左に払うから左、というこじつけで覚えるのが一番カンタンだと思います。「水兵リーベ僕の船」みたいなノリですよ。これでもう忘れませんね。



【金閣寺】


 いや、あのあと気になって林檎嬢にスマホで調べてもらったんです、金閣寺について。そうしたら、現在の金閣(鹿苑寺ろくおんじ舎利殿しゃりでん)は本当に金箔貼りになっていると知って驚きました。なんでも、戦後の昭和25(1950)年に放火事件で焼失し、昭和30年に再建されて金ピカの見た目になったそうですね。木津川先輩がキャッチフレーズにしている「金閣寺みたいにキラキラ輝く」とはそういうことだったのか……と、知らず先輩の見識を疑ってしまったことに我ながら恥ずかしくなりました。

 ちなみに、戦後の記録を読んでいると、アメリカ軍は文化財保護のために京都を空襲しなかったと書かれているものが散見されますが、これは明らかな誤りです。実際には昭和20(1945)年1月から6月にかけて京都にも5回にわたりB29が襲来し、太秦うずまさ、京都御所、西陣にしじんなどが爆撃されています。それ以降の爆撃がなかったのは、京都が原爆投下の候補地の一つになっていたからだとか。一方、京都が早々にその候補から外されたのは、戦後の日本国民の対米感情に与える影響を考慮してのことだったとも言われていますから、米軍内に京都を守るべきという意見があったというのもあながち間違いではないかもしれません。

 いずれにせよ、戦禍を免れた街や人も、紙一重の命運の差であったということを我々は改めて噛み締め、今ある平和を大事にしてゆきたいものです。




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 おっと、また重苦しくなってしまったかな……。

 しかし、読者の皆さんの感想を拝見していると、作中での私の語りやこの「ワンポイント講座」を通じて、戦前・戦中の知識を追体験できて楽しいなどと仰って下さる方が多く、光栄に思います。かくいう私自身も、この時代に来てから海軍の諸先輩方の自伝などを読んで初めて知ることも多いので、日々勉強勉強ですね。

 それでは、引き続き本編をお楽しみください。

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