第8話 今の仕合せ(5)

 嵐の海を船は進む。黒雲に覆われた空には時折雷鳴が轟き、不吉な物語を演出している。画面内の船体が波に煽られるのに合わせ、俺達の座る筐体きょうたいは前後左右に揺れ、作り物とは思えない臨場感をかもし出していた。


「久々の操船だ。腕が鳴りますね」

「なぁちゃん、カメラカメラ」


 筐体側面の暖簾のれんは取り払われ、カメラが俺達の横顔とゲームの画面を至近距離で撮っていた。おっと、飛羽隼一のつもりで発言するわけにはいかないな、と俺は唇を引き結んだが、口の端から漏れる笑みは隠しようがない。

 俺が船のかじを取るのは、兵学校卒業後、柱島はしらじま艦隊泊地での前期実務実習以来だから、生前の感覚でも一年以上ぶりになる。俺は後期実務実習を受けないまま霞ヶ浦かすみがうらの練習航空隊に放り込まれた三十九期飛行学生組なので、実は乗艦の経験はほとんどないのだが、元々は駆逐艦くちくかんに憧れて海軍に入った身、舵を握って心が躍らぬはずがない。


「敵っ、敵が来てるっ」

「わかってる。砲術は任せますよ」


 髑髏ドクロの海賊旗をマストにはためかせた幽霊船が、青白い鬼火おにびを揺らめかせて嵐の海に現れる。画面に「敵船を撃て!」と指示が出た。面舵おもかじを一杯に切り、俺は叫ぶ。


「対水上戦闘! 目標左舷ひだりげん敵艦、主砲、ちィかた始め!」

「えっ、はっ、はいっ」


 号令に応じて林檎嬢が銃座を敵に向け、射撃を開始する。機関銃のように連続で弾が出るもので、遊びであるからして弾数は無制限らしい。よしよしと左舷砲戦を彼女に任せ、俺は舵を戻しながら画面の右側を注視する。いつ反対側から敵の新手が来るか分からないので、「左警戒、右見張れ」の原則は大事だ。


「ひゃっ、撃ってきたぁ!」

「あの角度は当たらん、構わず撃てっ!」


 敵艦からの砲弾が近くの海面に着水し、画面内に飛沫しぶきが噴き上がった。筐体ふねが大きく横揺れし、林檎嬢がひゃあっと悲鳴を上げて寄り掛かってくる。彼女の身体を片手で支えながら舵輪を取舵とりかじに回し、敵艦の横腹を射線に捉える位置に付ける。


「むっ、何だあれは」

「やだっ、何か出た!」


 敵艦のマストのあたりから、無数の黒い何かが嵐の空に向かって飛び出してきた。艦載機の発艦かと思ったが、そこはそれ、幽霊船のやることなので、出てきたのは蝙蝠コウモリを思わせる空飛ぶ魔物の大群らしい。


「撃ち落とせっ!」

「やだやだやだ、こわいぃぃ!」


 林檎嬢は本気で声を裏返らせながら銃座の把柄トリガーを引き続けていたが、その射撃は明後日の方向に弾をバラ撒くばかりで、俺達の船を襲ってくる魔物は一向に減ることがなかった。船の耐久力を示すらしい「HIT POINT」のゲージが見る見る減っていく。そうこうしている内に敵の砲弾がまた至近に着水し、大きな衝撃が座席を揺さぶった。


「きゃあぁ!」

「えぇい、私が代わる! 君は舵をとれっ!」

「えぇ!?」


 狭い筐体内で林檎嬢と位置を入れ替わり、俺は奪うように銃座の持ち手を握った。飛来する魔物の群れに照準、発砲。無限に吐き出される速射の雨霰あめあられがたちまち魔物を海の藻屑に変えてゆく。


「砲撃来るぞ! おもかぁじ!」

「オモカジってどっちぃぃ!?」

「右だ、右っ!」


 彼女の必死の転舵てんだもむなしく、すぐ目の前の海面に敵弾が着水する。滝のような画面上の飛沫しぶきと現実の揺れの中、俺は残った魔物に射撃を撃ち込み続け、遂には最後の一羽を撃ち落とした。すかさず周囲の見張りをするが、再び蝙蝠コウモリの舞い上がってくる気配はない。


「敵艦を叩く! とぉりかぁじ!」

「右か左で言ってよぉ!」

「お茶碗を持つほうだっ!」


 林檎嬢の白い手がぐるぐると舵を左に回す。敵艦から今度は死神を思わせる骸骨がいこつの魔物がぶわりと宙を舞って襲ってきた。咄嗟に照準を合わせ無限連射を叩き込むが、敵も「HIT POINT」を全て削られるまでは墜ちないらしく、サーベルだか大鎌だか分からない武器を画面一杯に振りかざして襲ってくる。意地の悪いことに敵艦からの砲撃も同時に向かってきていた。回避は間に合わない。


「衝撃に備えぇぇ!」

「ムリぃぃぃっ」


 林檎嬢が悲鳴を上げて俺の腰あたりに抱きついてきた。飛来する敵弾に射撃を向け続け、着弾の寸前でなんとかそれを迎撃した瞬間、死神の大鎌がざくりと俺達を捉える。小刻みな衝撃と共に「HIT POINT」がゼロを示し、「GAME OVER」――。


「くっ……。撃沈か……」


 音楽と動きの止まった筐体ふねの中で俺が肩を落とすと、外から皆のくすくす笑いが聴こえた。


「ナナちゃん、面白すぎ。今日のMVPだよ、これ」

「エイトミリオンの歴史に残るって。あー、お腹痛い」


 板橋先輩に至っては目元に涙まで滲ませて笑っている。しまった、熱中して我を忘れすぎたか……と思ったが、笑いを取れれば成功という鉄則に従えば、悪くない結果だっただろうか?


「……さて、林檎さん。あなたはいつまで私に抱きついてるんですか」

「あ、バレた? なぁちゃんが楽しそうでよかったっ」


 笑って誤魔化す彼女とともに筐体ふねを降り、先輩達と交代する。

 福津先輩が船舶免許所持者の面目躍如だといって舵を握り、木津川先輩が砲手を務めていたが、二人の手腕は正直言って先程の林檎嬢と大差なかった。


「福津さん、さっきのナナちゃんみたいに『おもかじー』とかわないんですか」

「えー、ムリムリ、ウチもどっちがオモカジか覚えてないし」


 そんなことを言いながら二人はマイペースに幽霊船と戦い、先程の俺達よりかなり早く「GAME OVER」になって船を降りてきた。「ダメダメじゃん」と板橋先輩に突っ込まれ、福津先輩はへへへと笑って俺を見てくる。


「ナナちゃんみたいには行かないなー。ていうかオモカジとトリカジってどっちがどっちだっけ?」

「えぇ……。面舵おもかじの『も』の字は右に払って、取舵とりかじの『り』の字は左に払うじゃないですか」


 俺が呆れて言うと、先輩は目をぱちくりとさせて、「あぁ、あーあー」と変な声を出していた。


「あれってそういうこと!? そうやって覚えるの!?」

「イヤ、覚えるというか、語学と同じで身体に染み付くものであって……」

「えー、ムリムリ、染み付くほど乗ってないもん。てかナナちゃんはどこで覚えたの」

「それは秘密です」


 先程までよりは自然に先輩と話せているかな、と俺が思ったところで、板橋先輩が横から身を乗り出してきた。


静家しーちゃん、今度の収録、ナナに代わりに船出してもらったら?」

「いや、マジでウチもその方がいいと思います。ナナちゃん代わってよ」

「え、しかし、私は船舶免許というのを持ってないので……」

「大丈夫大丈夫、確かアレ、免許持ってる人が乗ってれば操縦は誰がしてもいいから」

「おや。そうなんですか」


 先輩の言葉に俺は目を見張った。面舵と取舵を覚えていなくても免許が取れて、しかもその資格者が同乗していれば誰でも操船できるとは、船の価値も随分軽くなったものだな……。


「てか、静家しーちゃんマジ受けるんだけど。船の鍵持って帰った話」

「ちょっと、峯波みーちゃん、それオフレコって言ったじゃないですか、マジ怒られるやつですから」


 俺が船舶免許というものにしばし思いを馳せている傍らで、古参二人はケラケラと笑いながら掛け合いしていた。木津川先輩がのんびりした調子で「なんですか、それ」と掘り下げている。


静家しーちゃん、こないだ船の収録の一回目があったんだけど、船の鍵ポケットに入れて持って帰っちゃったんだって」

「えぇぇ、ダメすぎやないですか。怒られますよ」

「もう怒られたわ! いいよ、次の収録で返すから」


 林檎嬢や黎音も先輩達の話を聞いて笑っていた。カメラがふいにこちらを向いたので、福津先輩が言うところの「マジメな顔したヘンなこと」が求められているのかと察し、俺は敢えて海軍のノリで言ってやった。


「先輩、上陸止めにあたる失態ですよ、それは……」

「あはは。静家しーちゃん、外出禁止!」

「そんなぁ!」


 小気味よい笑いが皆を包んでいる。なんだか俺も気分が良かった。


「さーて、船乗りの静家しーちゃんが見事に形無しぶりを見せてくれたところで」


 板橋先輩が新しい遊技台を指差す。自動車の運転席が剥き出しになったような赤い座席シートが四基、画面と一揃いで横並びになっていた。各々の座席には車のハンドルやペダルが備え付けられ(なぜかペダルが二つしかないのは遊びだからか)、「マルス・カート・グランプリ」と賑やかな文字で書かれている。


「番組の企画で取った免許ならわたしもあるからね、頼りない後輩の尻拭いをしてあげますかねー」

「イヤイヤ、車の免許やないですか」

「大人はみんな持ってるやつ! ていうかウチもあるし! ダブルライセンスだし!」

「でも、ヒヨッコ達は持ってないじゃん?」


 きらりと得意げな目を向けてくる板橋先輩。林檎嬢が「大人げない!」とリアクションする横で、黎音は次こそ自分も活躍すると言って乗り気である。俺は今度こそけんに回り、カーレースは二人に委ねることにした。

 先輩チーム側であぶれた木津川先輩が、黎音の座席を横から覗いて笑っている。


「りーおんはアクセルに足届くん?」

「ひどい! 届きますって!」


『3, 2, 1――Go!』


 画面の中で一斉に車がスタートする。抜きつ抜かれつを繰り返す皆のレースを眺めていると、木津川先輩がふらっと隣にやって来た。


「ナナちゃんは変わったなぁ」


 相変わらずのはんなりした調子で発せられたその声に、俺はどきりとした。


「……わかりますか」

「あ、悪い意味じゃないよ、もちろん。……前のナナちゃんも好きやったけど、わたしは今のナナちゃんも好きやで」

「ありがとうございます。林檎さんもそう言ってくれます」


 俺が言うと、先輩はふっと口元をほころばせた。


「わたし、ナナちゃんには、皆の目標になってほしいなって思ってる」

「……目標、ですか」

「そう。ホラ、りーおんが、ナナちゃんを追い抜かそうとしてすっごい必死やろ? エイトミリオンにはやっぱり、そういう張り合いも必要やからね。競い合って高め合って……なんて、八王子はちみなさんからの受け売りやけど」


 初代総監督、八王子はちおうじ皆観みなみからその重責を引き継いだばかりの彼女は、黎音が小柄な身体を前のめりにして必死にレースに臨む姿を見やりつつ、一言一言を噛みしめるように語るのだった。


「わたしも、いつかはこの役目を誰かに引き継ぐ時が来ると思う。……その時までに、ナナちゃん達が、エイトミリオンを良い方向に変えてくれたらええなって思ってるよ」

「……ええ。指宿いぶすきさんもきっと私にそれを託されたのでしょう」


 閣下の名を出しながら、俺は、板橋先輩や福津先輩と、この木津川先輩とでは、見ている景色が違うのだろうなということを何となく感じ取っていた。

 福津先輩はナナに「自分達の行けない高みに駆け上がれ」と言った。板橋先輩もそう思っていると。対して木津川先輩は、ナナに「エイトミリオンを変えろ」と言う。「本店の顔になれ」とナナに命じた指宿閣下の言葉を思い出させる響きで。

 どちらが上等だとか下等だとかではない。だが、この違いはきっと、グループの屋台骨を下から支える者と、「選抜」の高みにむ者の差なのかもしれないと……そんなことを思った。


「私は……七姉妹セブン・シスターズになります」


 気付けばその言葉が口をついて出ていた。木津川先輩は驚きも茶化しもせず、「いつかなれるよ」と言ってくれた。

 四人のカーレースが終わる。一位でゴールしたのは言い出しっぺの板橋先輩だった。シートを降りた黎音が本気で悔しそうな顔をしているのを見ると、自然に笑みがこぼれた。


「りーおん、ゲームをやめて学力試験で勝負したらどうかな」


 俺は冗談のつもりでそう言ったが、後輩はぴこんと何か思いついた顔になって、奥のエリアへと皆をいざなっていく。


「ラストはこれで決めましょう! わたし、こういうのは得意ですよ」


 じゃあんと黎音が指差したのは、これまでと比べると小振りの遊技台で、その画面には「クイズ・アカデミア」の文字が華々しく踊っていた。


「あー、クイズねー。まあいいんじゃない? 皆疲れてるし」

「これなら負けませんよー」


 筐体は複数並んでおり、チームに別れて同じクイズ問題で対決できるらしい。最後だから総力戦にしようということで、両チームとも、一台を三人全員で囲んでクイズに挑む形になった。


「あれだけ色々やって最後がクイズ勝負って、ねえ」

「まあ、何でもありのエイトミリオンだからね」


 先輩達も遊び疲れた顔に笑いを浮かべて画面を覗き込んでいる。最初の出題ジャンルは「物理・化学」と出た。思った以上に真面目な問題が出るらしい。


【第一問、塩化ナトリウム溶液の電気分解で得られた水酸化ナトリウム溶液に二酸化炭素を反応させて得られる物質は】


「何これ何これ、ムリムリっ!」


 林檎嬢は問題を見た瞬間に頭を抱えていた。向かい側では先輩達が「硫酸でしょ硫酸!」「四択の中にないよ」とか何とか言っている。俺は苦笑して黎音に目を向けた。


「行けっ、りーおん」

「はぁい!」


 画面の四択から、彼女は迷わず炭酸水素ナトリウムを押した。画面の中の女の子が「正解!」と叫び、先輩チームから悲鳴が上がる。


「やるね。ちなみに、何に使うかは知ってるかい」

「えっ。……ちょっとそれは、わかんないです」

「消火剤に使うんだよ。火防ひぶせの神たる秋葉原のアイドルとしては覚えておきたいね」

「へぇぇ……」


 そこからは俺達後輩チームのワンサイド・ゲームだった。流石に進学校の出身だけあって、黎音は理系学問のみならず歴史にも明るく、日本史や世界史の問題をほとんど俺の助けなしで正解していった。唯一、金閣寺の正式名称を答えよという問題だけは、木津川先輩が何やら意地で早押ししていたが。


「これは譲らへんで、金閣寺みたいにキラキラ輝くがモットーやから」


 カメラに向かって「ドヤ顔」をする木津川先輩。……ははあ、この人は金閣寺をその名の通り金箔貼りの寺だとでも思っているんだな?

 先輩の顔を潰すわけにもいかないから訂正はしないが、発想が自由というか何というか。


「あっ! ジャンル『アイドル』だって!」

「これなら勝てる勝てる」


 先輩達がわっと騒ぎ始めたが、黎音も譲る気はないようで、むしろ今までより真剣な目になって画面を睨んでいる。


【第一問、人気アイドルグループ・秋葉原エイトミリオンが結成された日付は】


「えっ、何月だっけ、静家しーちゃんわかる?」

「ちょっと、一期生! そこにいたんでしょ!?」

「確か十二月やったと思いますけどねぇ」


 向かいの三人の戸惑いぶりと対照的に、黎音は微塵の躊躇ためらいもなく「2005年12月8日」の日付を四択から選ぶ。画面からの「正解!」の声と同時にVサインを作る彼女の表情は、今日一番輝いていた。


【第二問、次の秋葉原エイトミリオンのシングルの内、曲名とリリース年月日の組合せが間違っているものは】


 こんな問題にも、やはり黎音は先輩達を差し置いて即答していた。先輩達からもヤバイヤバイと歓声が上がる。


「わたし、エイトミリオンオタクですから」

「なるほど。『TOトップオタ』というわけだ」


 先日の握手会で覚えた言葉(トップと言うからには一人のはずだが、ナナのTOを自認する人が二十人くらい居た)を俺が使ってやると、黎音は得意げに「エイトミリオンの歴史は全部頭に入ってますよ」と胸を張った。

 しかし、次の問題。


【第三問、2013年、男性芸能人とのスキャンダルをスクープされ、坊主頭で謝罪したことが話題になった秋葉原エイトミリオンのメンバーは】


 その文章が画面に出た瞬間、場の空気がさぁっと凍りついた。


「そんな不埒ふらちな人がいるんですか?」


 俺が小さく呟くと、林檎嬢がものすごく気まずそうな目で「しっ」と咎めてくる。

 向かい側で二秒ほど固まっていた板橋先輩が、あははと笑いながら首をひねった。


「誰だったかなー、すっきーかな?」

「アンタだよアンタ」

「あ、わたしかぁ! いやー、まいったね」


 ギリギリのところでバラエティの空気に引き戻し、板橋先輩は自分の名前を押す。俺は直前の失言にハッと口元を手で覆ったが、先輩はわざとヘラヘラした笑いを作って流してくれたようだった。

 結局、金閣寺の問題と坊主頭の問題だけ先輩チームに取られたものの、残りは全て黎音と俺で回答し、クイズ対決は俺達の快勝。累計成績は四対三となり、わがヒヨッコチームは辛くもババアチームを下したのだった。


「はーい、全員入ってー」

「変顔ってわたしもですか? わたし金閣寺答えましたよ」

「連帯責任だよ連帯責任、ねえナナちゃん」

「はい。敗北の責任はチーム全員で取るのが軍隊流ですね」

「いや、いつから軍隊になってん!」


 最後は六人全員でプリクラ機という筐体にすし詰めになって写真を撮った。敗れたババアチームに課された罰ゲームは、上陸止めではなく、アイドルらしからぬ変顔を電波に乗せて全国に流されるというものだった。


「これは丸坊主よりキツい懲罰でしょうね……」


 どこまで踏み込んでよいかの感覚を何となく掴んできた俺が、板橋先輩に向かってボソッと言ってみると、先輩は「呼吸がわかってきたじゃん」と俺の背中を叩いて太鼓判を押してくれた。


「わたしみたいな不埒なヤツにならないで、ナナは王道を行きなよ」

「了解しました」


 そうして全ての収録を終え、俺達が解放されたのは夕方近く。

 僅か数時間の経験ではあったが、先輩達や黎音の思いを間近に知り、ナナとして一つ大きく変われたことを俺は静かに実感していた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「楽しかったねー。あなたがすっごくイキイキしてて、わたしも嬉しかったよ」


 テレビ局の車を降りてマネージャーとも別れ、帰りの電車に揺られながら、林檎嬢はマスクの下で微笑んだ。今は人前なので、互いの名前などの固有名詞は出さない。


「ええ。私も楽しめました」

「何が一番楽しかった? やっぱり船?」

「そうですね。やはり船舶免許というのを取ってみたいなと思いましたよ」


 車窓の夕焼けに目を細めて俺が言うと、彼女は少しニマリとした顔で。


「じゃあじゃあ、取ったらあの場所に行こうよ」

「あの場所?」

「前のあなたと、行きたいねって約束したの。おっぼえってるっかなー」


 今の俺が知らないのを承知の上で、そんなことを言って小さく声を弾ませる。


「教えてくれてもいいじゃないですか」

「んー、どーしよっかなー。自力で思い出してほしいかなー」

「思い出すも何も……ねぇ。船で行ける場所というと、樺太からふととかですか」

「どこそれ!?」


 彼女と二人で笑いながら、俺は思った。

 他人の人生を借りているだけの俺に、仕合しあわせを感じることが許されるなら――この時間がきっと、そういうものなのかもしれないと。


「またゲーセンにも行こうよ。今度はプライベートで」

「ええ。……ゲーセン?」


 彼女に言われ、はて、と俺は首を傾げた。ゲームセンターという言葉はゲーセンと略すのか。それはまあ、司令長官をシチとか、水雷参謀をスサとか言っていたのと同じ類のことだとは思うが。


『……ホラ、あの、ゲセンの話……』


 マキナが俺に言い掛けていた言葉が鮮明に脳裏をよぎる。下船の話やら、下賤の話やら分からなかったが、ひょっとして彼女はゲーセンの話と言っていたのだろうか。


(……マキナはナナとゲームセンターに行きたがっていたのか? だが、それがなぜヘル談になる……?)


「どうしたのー」


 思考の海に沈みかけた俺の目線を、林檎嬢がちらちらと手で遮ってくる。


「いえ……。そうですね、またゲーセンに行きましょう」


 電車が最寄り駅に着いたので、ひとまず俺は思索を打ち切ったが、心に生じた僅かな引っ掛かりはマンションに帰宅してからも消えることがなかった。


 そして、その夜の内に俺は知ることになる。

 アイドルの世界は、決して、仕合せな時間ばかりが続くものではないことを――。


(第9話に続く)

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