第8話 今の仕合せ(2)

 午前五時マルゴーマルマル。日の出とともに目覚めた俺は、林檎嬢を起こさないようにコッソリとベッドを抜け出し、簡単な洗顔をしてから駅近くのフィットネス・ジムへ出向いた。

 自由に外を走ることもできないアイドルの暮らしは窮屈だが、二十四時間営業の会員制ジムが近所にあるのは救いだった。ここは中も男女別なので、ある程度周囲を気にすることなく運動に励むことができる。


(そろそろ懸垂けんすいの一回くらいは……)


 海軍体操を一通りやって身体の調子を確かめたのち、俺はいつものように横棒バーにぶら下がって懸垂に挑戦してみたが、やはりナナの腕力ではどうやっても身体は持ち上がりきらなかった。無理して筋肉に負担をかけても仕方ないので、潔く諦めて着地する。


「まだまだだな……」


 たった一回の懸垂も出来ないとは我ながら情けないが、これでも女子の中では良い方だと思って我慢しなければなるまい。それに、この身体は男と比べて体重が軽いぶん、挙動に要する筋肉量も少なくて済み、動作の俊敏性自体は悪くないのだ。


(力で勝る男と白兵戦になっても、一対一ならどうとでもなるか……?)


 ナナの身体で刃物を持った敵を組み据える方法をあれこれ脳内に思い描いてから、ふと我に返り、俺はひとり苦笑した。この平和な世で、アイドル大和ナナが一体何と戦うと言うのか。

 その後、俺がランニングマシンで汗を流していると、隣のマシンで同じく走っていた婦人が声を掛けてきた。


「随分頑張って鍛えてるのねえ」

「まだまだ、序の口ですよ。は、こんなものじゃなかった……」

「そうなの。あなた、アスリートさん?」

「いえ。アイドルです」


 俺が答えると、女性は「まあ」と目を丸くした。

 彼女に会釈して俺は走り続ける。そう、この日々がいつまで続くかは分からないが、今の俺はエイトミリオンの大和ナナなのだ。グループと多くのファンのため、ナナとして出来ることを最大限に頑張らなければ。


(大和ナナの興廃こうはい……本日の一戦にあり!)


 この後待ち受けるテレビ収録に向け、俺は戦意の拳を握り締めた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 指定された駅でマネージャーと合流し、俺と林檎嬢はテレビ局の車に乗せられて移動することになった。「エイトミリオンの八百万やおよろずテレビ」と題されたこの番組は、毎回、数名のメンバーが何らかの場所に連れ出され、「無茶振り」と言われる企画に挑むという趣向であるとのことだ。

 三列シートの最後列には、同じく収録参加メンバーである志乃原しのはら黎音りおんが自身のマネージャーと共に乗り込んでおり、小さな背筋をちょこんと伸ばして折り目正しく挨拶をしてきた。


「おはようございます、林檎さん、ナナさん。今日はよろしくお願いしまーす」

「おはよー、りーおん。よろしくねー」


 林檎嬢に続いて俺も「おはよう」と挨拶をする。先輩相手なら敬語で通せるが、十五期生……つまりナナより後輩である彼女にはタメ口で話さねばならず、今の俺にはまだ難儀するところだ。


「ナナさんが元気になられてよかったです」


 俺達が二列目の座席に収まり、車が走り出すやいなや、黎音りおんは小動物を思わせる人懐っこい声で言ってきた。


「こないだの握手会では、挨拶する時間なくてごめんなさい」

「ううん、こちらこそ。今日はお手柔らかに頼むよ」


 後席を振り返って俺は答える。黎音はナナや林檎嬢の一歳下で、身長百五十cmサンチの小柄な少女だが、ぱちっとした双眸そうぼうには次世代エースの二つ名に恥じない意志の力が宿っているように見えた。

 初代「七姉妹セブン・シスターズ」の一柱ひとはしらたる壬生町みぶまちユーコから持ち歌「永遠サーキュレーション」のセンターを承継された逸話を持つ彼女は、現在は板橋峯波みなみ先輩率いるチーム・リーヴスで公演エースを張り、加入三年目にして総選挙順位は四十四位。とどのつまり抜群のエリートである。それを証明するかのように、再来月に発売される最新シングルでは、並み居る先輩達を抑えて表題曲センターに初抜擢されている。

 七姉妹セブン・シスターズを、そして「本店の顔」を目指すナナとしては、意識しない訳にはいかない相手だ。


「お二人は、ゲームセンターって行かれることあるんですか?」


 収録の行われるゲームセンターという場所へ車が向かう最中さなか、黎音は俺達に尋ねてきた。林檎嬢が「んー」と自分の唇に指を当てて首をかしげる。


「なぁちゃんは多分ないでしょ? わたしも子供の頃に行ったっきりかなー。ずっと前になぁちゃんとプリクラ撮ったのは、ゲームセンターっていうよりプリクラコーナーだったし」

「そうですね。私もないかな。ビリヤード場なら兄に連れられて何度か……」


 つい自分自身のことを言いかけて、俺は慌てて口をつぐんだ。まあ、ナナにも兄はいるので致命的な間違いにはならないが、とにかく余計なことは言わないのが吉だ。

 即座に場を繕うように、「りーおんは行くの? あんまり行かなそう」と林檎嬢。


「ですねー、わたしも子供の頃しか行ったことないです。中学の頃は学校も厳しくて、ずっと勉強ばっかりでしたし」

「ほう。君は勉強が得意なんだね」


 数秒前の自制を忘れて俺が思わず反応すると、後輩ははにかんで答えた。


「いやそんな、得意っていうか、進学校だっただけで……」

「私も――じゃない、私のお祖父さんも、府立中で勉強漬けでね、おかげでなんとか海軍兵学校に入ったんだけど……。勉強は良い。人生を逆転する力になる。……そう言っていたよ」


 もちろん、祖父の話というのは建前で、本当は俺自身のことだ。

 あの時代、多くの男子は赤紙で兵隊に取られるしかなかったところ、人より少しばかり勉強を頑張っていたおかげで俺は士官になれた。学校の勉強というのはつまり、望む道に進むためのパスポートなのだと強く思ったものだ。


「りーおんはスゴイんだよ。前の学校にいたらトーダイだって行けたのに、そういうの捨ててエイトミリオンに来てくれたんだから」

「いやいやいや、トーダイは無理ですって、さすがに」


 林檎嬢の差し挟む解説に、黎音はたちまちほおを赤らめ、ぶんぶんと手で顔をあおいでいた。

 そうか、この時代では女子も大学に行けるのだったか。トーダイとは東京帝国大学のことだろうが、今は名称も変わったのだろうな……。


「でもわたし、エイトミリオンに人生捧げるって決めたんで、とりあえず勉強はもういいかなって」

「そうかい。でも、学力は貴重な財産だ。いつか何かの役に立つかもしれないよ」

「……ナナさんって優しいですね。なかなかそんなこと言ってくれる人いなかったです」


 我ながらナナ本人でもないのに先輩風を吹かせすぎてしまったかと思ったが、黎音のぷっくりした唇が嬉しそうにほころんでいたので、ひとまず良かったと俺は安堵した。

 それにしても、進学校で学んでいた身でありながら、勉強が直接役には立たないとわかっている世界に敢えて飛び込んだのか……。それはつまり、彼女にはエイトミリオンに並々ならぬ思い入れがあったということなのだろうな。


「今のなぁちゃんも、負けないように頑張らなきゃね」


 思考を読んだように林檎嬢が言ってくるので、俺も深く頷いた。


「ひとまず今日は負けないよ、りーおん」


 林檎嬢の呼び方を真似て俺が言うと、黎音は「えー」と照れくさそうに笑ってから、芯の通った目線を俺にまっすぐ向けてくる。


「じゃあ、わたしも負けませんよ」


 彼我ひがの間にばちりと火花が散るのを感じたとき、俺は、この後輩こそがナナの好敵手ライバルかもしれないと理屈抜きに思った。



 ややあって、車は都内某所のアミューズメント施設へと到着した。都会にありながら大型の駐車場を備えたここは、ゲームセンターの他、ボウリング場やカラオケ(いずれも戦後普及した遊びらしいが詳細は知らない)も併設された、若者に人気の遊び場であるそうだ。

 もう一台のバンも既に現場に到着しており、同じく収録に参加する先輩メンバー三人が車の外で立ち話をしていた。先輩達の前ではもうカメラが回っており、さらに別のカメラが俺達の降車の様子を捉えようと待機している。

 いよいよ、ナナとしての俺の動作挙動が電波に乗って全国に流れることになる。俗に「村番組」と言われるこうした冠番組は、正味しょうみエイトミリオンのファンくらいしか観ていないとのことだが、逆に言えば、ファンからの評判には大いに影響するということだ。


「ナナさん、めっちゃ緊張してません? なんか収録初めての人みたい」

「ナチュラル、ナチュラル」


 黎音と林檎嬢がそれぞれ励ましの笑顔を向けてくる中、俺は「よし」と呼吸を整えた。

 スタッフが外から車のスライドドアを開ける。――戦闘開始!


「おはようございます!」


 カメラが回っていることを全身で意識しつつ、俺は威勢よく挨拶して車から飛び降りた。そのまま駆け足で先輩達の前に出て、びしりと姿勢を正す。


「本日はよろしくお願いします!」


 十度の敬礼おじぎをして、俺が顔を上げると、先輩達はくすくすと笑って口々に「おはよう」と挨拶を返してきた。


「ナナ、こないだから大げさすぎー。頭打った?」


 最古参の板橋峯波みなみ先輩が笑ったまま言う。あれ、何か間違えたか、と俺が硬直したところで、林檎嬢と黎音が普通に歩いて追いついてきた。


「あはは、すみません。なぁちゃん今、軍人さんにハマってて。おはようございまーす」

「よろしくお願いしまーす」


 二人の挨拶のトーンを横目に聞き、俺は早くも背中に冷汗が伝うのを感じた。そうだ、ここでは先輩への挨拶と言ってもそこまでかしこまらなくていいのだったか……。


「まあでも、ナナちゃんは前からこんな感じだったじゃん」


 そう言うのは、茶色い短髪を頭の横でウェーブさせた、四期生の福津静家しずか先輩。アイドルっぽいアイドルではないが、板橋先輩と並ぶバラエティメンバーとしてグループを支える縁の下の力持ちだというのが世間の評価であるらしい。


「礼儀正しいのは良いことやないですか。ね、ナナちゃん」


 関西訛りのはんなりした声で言ったのは、ナナの五期上であり、昨年からエイトミリオングループの総監督を務めている木津川きづがわ唯葉ゆいは先輩である。大きな口元と長めのおかっぱ髪、おっとりした笑みが特徴的だった。


『――さて、今日のオマエラには、ババアチームとヒヨッコチームに分かれてゲーム対決をしてもらうっ!』


 スタッフが持ったタブレット(スマホの大型版のようなものらしい)の画面の中から、人気芸人の男性が「無茶振り」の指示を飛ばしてくる。


「待って待って、何、ババアチームって」

「お二人はともかく、私までババア側ですか!?」

「こら総監督、さりげなく『お二人はともかく』とか言うな」


 ヒヨッコはともかく、いくらなんでもババアチームは酷いだろうと俺も思ったが、先輩達はカメラの前で上手くそれを笑いに昇華させているようだった。林檎嬢も黎音も笑っているので、とりあえず俺も笑みがこぼれるのを我慢しないでおく。


「負けへんでー、ヒヨッコぉ!」


 ぴしっと俺達を指差してくる木津川先輩に、俺は今度こそ堅苦しくなりすぎないように「お願いしまーす!」と語尾を伸ばして返した。

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