第7話 愛の修行(3)
握手会――その名の通り、エイトミリオンのメンバーがファンと直に握手して会話を交わす定例行事。世に言うエイトミリオン商法の真骨頂にして、劇場公演と並んでこのグループの本質を司る二本柱の一つ。メンバー個人個人にとっては、ファンの愛を実感し、ファンの心を掴んで繋ぎ止めることに全霊を尽くす、アイドル人生の命脈……であるらしい。
(凄い会場だな……)
他の若手メンバー達と一緒にマイクロバスに揺られ、千葉
「なぁちゃん、どしたの?」
一緒にバスを降りた林檎嬢が横から尋ねてくる。「いや」と、人前では敬語というのを一瞬忘れて素の男言葉が出かけたほど、それは衝撃的な光景だった。
全体が見通せないほどの広大な敷地。建物の建築面積だけでも七万平米くらいはあるだろうか。
「
「あ、べつに、全部使ってるわけじゃないよ!? 握手会はあの中の一箇所だけー」
「それにしても大きいですよ」
全国の支部からメンバーが集う大握手会といっても、せいぜい公会堂くらいの場所で行われるものと思っていたので、正直これには面食らった。会場があの建物のほんの一部だとしても、ファンの収容人数は数千人を下らないだろう。
同じマイクロバス組のメンバー達が、人目のない裏口からぞろぞろと会場に入っていく中、チームキャプテンの朱雀先輩が俺達の背中を後ろからパンっと叩いてきた。
「さあ、がんばろー。ナナもしっかりよろしくね」
「はっ!」
俺達が参加するのは午前十時半の第二部からだったが、第一部から握手が始まっているメンバーもおり、巨大な会場は既に幾千人のファンの熱気に満ちていた。
控室に荷物を置き、髪型と化粧を林檎嬢に軽く直してもらい、最後に鏡の前に立ってズボンの裾や靴紐の結びを最終確認する。握手会はステージ衣装ではなく私服での参加が原則とのことだった。立ち振舞いや会話の内容のみならず、服装までもがファンの審査の目に晒されるというわけだ。
(……しかし、マキナは今日も来てないのか?)
控室に小西田マキナ嬢の姿が見当たらないことが気がかりだったが、ひとまず今は目の前の戦いに全力集中しなければならない。マキナへの心配は一旦お預けだ。
『三年で
いよいよ始まるのだ。「会いに行けるアイドル」秋葉原エイトミリオンの一員、大和ナナとしての俺の戦いが。
「よし……行くぞ」
他のメンバー達に混ざって会場への廊下を歩く道すがら、俺が小さく呟いた言葉はしっかり林檎嬢の耳に入っていたようで、彼女はくすりと笑って言ってきた。
「張り詰めすぎないでね。楽しくやろっ」
「……はい」
知らぬ内に握り締めていた拳を開き、俺はすうっと小さく深呼吸する。
警備員やスタッフ達の見守る大扉をくぐった先は、無数のファンの
「おぉ……」
視界の果てまで居並ぶ人、人、人。メンバー一人につき一つの握手レーンが整備され、スタッフが開け閉めする簡易柵の向こうでは既にファン達が今か今かと第二部の開始を待っている。
緊張と武者震いを周囲に気取られぬよう、俺は努めて
「林檎さん、私におかしなところがあったら教えてください」
仕切りから顔を出して俺は言ったが、彼女は「多分そんな余裕ないよ」と笑うだけだった。
「こんにちは」
精一杯の愛想を作って会釈し、俺は机越しの彼の手を両手で握った。
「復帰してくれて嬉しいよ。あの、俺、前にも来たけど覚えてる?」
「ええ。いつも応援ありがとうございます」
俺は堂々と言い切った。ナナが覚えていたとしても俺は初対面なので、嘘と言えば嘘なのだが、「軍人要領を本分とすべし」である。
「あの、今日の服――」
「お時間です」
男性は続けて何か言いかけていたが、少しも話さない内にスタッフに肩を叩かれ、あっという間に俺の前から引き離されてしまった。
彼の言葉を最後まで聞けなかったのは残念だが、名残を惜しむ余裕など到底ない。次のファンのための時間がすぐに始まるのだ。
「なぁちゃん、今日の髪型ふわふわしてて可愛いよ」
「ありがとうございます。これは林檎さんに巻いてもらいました」
「へえ、やっぱり二人って仲いいよね」
「お時間です」
「こないだぶり。覚えてる?」
「ええ、先日も来てくれましたね。いつもありがとうございます」
「ていうか何で休んでたの?」
「それはですね……」
「お時間です」
若い人から年配の人まで、様々な男性が入れ替わり立ち替わりやって来ては、二言三言の会話を交わして去ってゆく。その流れは俺が思い描いていたより遥かに速かった。
事前に聞いたところによると、こうした大握手会(あらかじめ日時とメンバー名を指定して握手券を抽選購入する方式)では、握手券一枚あたりの会話時間は僅か十秒程度。特に、各部の最初の三十分間は、握手券を三枚までしか纏め出しできない決まりがあるらしく、必然、交わせる言葉はごく僅かに限られていた。
「ナナちゃん髪切らないの? ショートにしても似合うと思うけどなー」
「そう思いますか。動きやすくて良いかもしれませんね」
「でしょ。まあ俺はナナちゃんがどんな髪型でも――」
「お時間です」
「俺のニックネーム覚えてる? 前にナナちゃんが付けてくれたんだけど」
「えーと。貴方に似合う凛々しい名前だったとは思いますが、頑張って思い出すので七十年ほど待って頂ければ」
「えぇっ」
「お時間です」
時に正直に、時に冗談を交えながら、俺は一人一人のファンへの対応に心血を注いだ。
エイトミリオンの中には「塩対応」と呼ばれるメンバーも居るそうだが、俺がいい加減なことをして大和ナナの評判を落とすわけにはいかない。それに何より、彼らが十秒あたり千円もの金を出してナナとの時間を買いに来てくれていることを思えば、
千円あれば酒でも煙草でも書籍でも買えるだろうに、それでも彼らはナナとの十秒を選んでここに来てくれたのだ。
「やぁ、凄いですね。二十枚出しというと二万円ですか」
最初の三十分が過ぎ、多数出しが解禁されて早々、肥満体の男性が二十枚もの券を出して得意顔で俺の前に現れた。俺が思わず口にした金額に、彼はぐふふと嬉しそうに笑った。
「頑張ってバイト代貯めたからさぁ。今年の選挙では目一杯なぁちゃんに投票するよ」
「ありがとうございます。何票ほど入れてくれますか?」
「ズ、ズバっと聞いてくるね……。まあ、十万は確保してるから、最低でも百票かな」
「ほぉ。それじゃあ、選抜入りを果たした暁には貴方のおかげと思うことにしましょう」
「マジ!? 思って思って。俺らも頑張るからさ、今年は叶えてよ、選抜入り」
二十枚出しともなれば会話時間は三分ほどにも及ぶ。その後も、自分がいかにナナを応援しているかについて熱弁を振るい、男性は満足顔でレーンを後にした。
(指宿閣下は、今の人のようなファンを大量に抱えているのだろうな……)
次の人までの僅かな合間に俺は考える。総選挙というのはつまり、気前良く金を積んでくれるファンをどれだけ多く獲得できるかの勝負という側面もあるのだろう。
人気投票で金に物を言わせるのはどうかという気がしないでもないが、まあ、昔は選挙といえば、金のある者だけが投票するものだったわけだし……。
「こんにちはー」
次に来たのは女性のファンだった。列全体の八割くらいは男性だが、たまに女性や男女連れのファンも混ざっている。握りしめる手の柔らかさは、やはり男性のそれとは全く違っていた。
「あの、あたし、前からナナちゃんに聞きたかったことがあって」
「なんでしょう?」
「ナナちゃんって林檎ちゃんとスゴイ仲いいじゃないですか。あの、女の子
「……私の愛の対象は人類全てであります」
「えーっ、なにそれー」
「お時間です」
女性は口を尖らせ、それでも最後は笑って剥がされていった。際どい質問には適当な冗談を言って誤魔化す――それが握手会におけるひとまずの最適解であるのは間違いなさそうだ。
「ナナちゃん、はじめまして」
「はじめまして。こんにちは」
「あ、引っ掛かった? 俺、はじめましてじゃないんだよね。ダメだよ、ファンの顔はちゃんと覚えないと」
中にはこういうファンもいたが(この「はじめまして」トラップを仕掛けてくる男性が第二部の間だけで四人もいた)、まあ、これはこれで彼らなりの遊び方なのだろう。
「これは失礼。あまりに男前になられたので気付きませんでした」
「へ……? 俺、そんなに変わった?」
「ええ、男子三日会わざれば
「男子三日……え、なに?」
「お時間です」
こんな調子で、次から次へと様々な話題を繰り出してくるファン達を俺なりに
第三部は空き時間である。この間に昼食を済ませよというスケジュールだが、当然、ファンと出くわすかもしれないので外に出ることはできず、控室で
「どう、ナナ、病み上がりだけどしっかりやれてる?」
朱雀先輩や林檎嬢も同じく第三部が休憩時間だった。テーブルの向かいから聞いてくる朱雀先輩に、俺が背筋を伸ばして「はい」と答えるなり、林檎嬢が横から注釈を入れてきた。
「スゴイですよ、なぁちゃん。わたし横に居るからちょっと聞こえるんですけど、お話の転がし方が前以上っていうか」
「へー。なんか退院後のナナって喋り方ヘンなこと多いから、ちょっと心配してたけどー」
「あ、喋り方はヘンです。まあでもお客さん笑ってくれてるんで、いいかなって」
「林檎さん、林檎さん。私の喋り方はまだそんなにヘンですか」
「ヘンだよ! 戦争映画の喋り方がチラチラ出てるもん!」
人前ではそういう話で辻褄を合わせることになっているが、それはつまり俺自身の口調が出ているということである。
「むぅ……。難しいですね」
「まあでも、なぁちゃんはよくやってるよ、ホント」
「そうだねー。わたしも一安心かな」
朱雀先輩がホッとした顔になってくれたところで、俺は声をひそめて聞いてみる。
「ところで先輩、今日もマキナが来ていないようですが……」
結局、初めて顔を合わせたあの日以来、俺はマキナと会えていないままだった。今日の予定表では彼女も第二部から参加となっていた筈だが、会場にも、この控室にも姿を見せる様子がない。
「うん……マネージャーさんにも聞いたんだけどね。ずっと体調不良だって」
「そうですか……」
「ラインは毎晩送ってるんだけどね、返事は『すみません』とかだけ……。あんまり突っ込みすぎるのも悪いかなって思って、それ以上はマネージャーさんに任せてるの」
「……妥当なご判断かと思います」
朱雀先輩は小さく溜息をついた。マキナのサボりに怒っているとかではなく、彼女を心配しているがゆえの憂いの表情に見えた。
「なーにー? ナナが戻ってきたと思ったらマキナが休んじゃったの?」
ふいに背後から甘い声がした。振り返った先にいたのは、写真と動画で目にしたことのある人物。秋葉原エイトミリオンの一期生にしてチーム・クアルトの先代キャプテン――短い髪型に丸っこい顔立ちが特徴の、
「おはようございます!」
音もなく椅子を引いて立ち上がったのは俺だけ。あっと思ったときには、板橋先輩は「どうしたの!?」とびっくり仰天した顔を作り、朱雀先輩や林檎嬢のみならず周囲の他のメンバー達をも笑いの渦に巻き込んでいた。
「ナナ、かしこまりすぎー」
「
「そうそう、わたし如きに……『如き』ってなに!?」
別の先輩が言った軽口にノリツッコミ(この言葉はお笑い番組で覚えた)をしてさらに笑いを取り、それから板橋先輩は、直立不動の姿勢を取ったままだった俺にふっと視線を振ってきた。
「ナナ、マキナの代わりに来週の収録出るんだって?」
「はっ!? すみません、その話は存じ……知らないです」
板橋先輩とは俺は初めて話すが、ナナにとっては二年以上にわたり世話になった元キャプテンである。他人行儀の話し方ではおかしいので、俺は努めて崩した話し方を心がけた。
そういえば、来週はテレビの収録の仕事があると林檎嬢が言っていたが、それのことだろうか。
「あれ? 本人にまだ伝わってなかったんだ。わたしのとこには連絡があったよ。だから来週はヨロシクー」
「はい。よろしくご指導ください」
「なんでそんな話し方なの?」
丸い目をくりくりさせてエイトミリオンの大先輩が尋ねてくる。阿吽の呼吸で林檎嬢がいつもの助け舟を出してくれた。
「なぁちゃん、戦争映画の軍人さんにハマっちゃって。あはは」
「ふーん。あ、そういえば、すっきーがそんなこと言ってたなぁ。ナナ、すっきーになんかオモシロイ歌聴かせたんでしょ?」
「は……面白い歌といいますか、ちょっとばかり大正時代の歌を」
変な汗を背中に感じながら俺は答えた。
すっきーとは
「わたしにも今度聴かせてよ、コロッケ音頭」
「『コロッケの唄』であります」
「そーそー、それそれ。太鼓の名人にあるかな? 収録楽しみだねー。林檎ちゃんもヨロシクね!」
それだけ言って、板橋先輩は俺達に手を振ってどこかへ出ていってしまった。
ふうっと息を吐いて俺が椅子に座り直すなり、林檎嬢が嬉しそうに言ってくる。
「よかったね、なぁちゃん。テレビのお仕事だよ。しかも一緒にー」
「ええ。……今の私に務まりますかね」
降って湧いた代役の話、ナナの経歴にとっては貴重なチャンスだろうが、俺に務まるかは不安だった。何しろテレビである。口調を崩したつもりでも全く崩れていない俺だ、このままだと思わぬ恥を電波に乗せて全国に流してしまうのでは……。
「まあ、なんとかなるでしょ。
林檎嬢は先輩達の名を挙げながら楽観的に声を弾ませていた。その二人に共通することといえば、バラエティ適正というものが高いことだったか。
「収録ってゲームセンターのやつだよね? あとは誰なの?」
朱雀先輩が興味ありげに身を乗り出してきた。林檎嬢が「えーと」とスマホを見る。
「峯波さんと福津さんと
「そのメンツでゲームセンター行くの!? オモシロすぎるでしょ」
朱雀先輩は何やら面白がって笑っていたが、俺の理解は到底追いついていなかった。ゲームセンター……言葉の感じからして遊技場の類だとは思うが、ビリヤードでもするのだろうか。
「林檎さん、太鼓の名人というのは?」
モールスを使うまでもないなと思って俺は小声で尋ねたが、林檎嬢はふふっと笑って「来週わかるよ」と答えただけだった。
その後、第四部、第五部、第六部、そして夕食を挟んで第七部、第八部と握手会は続き、俺はのべ二千人以上ものファンと一日で言葉を交わすことになった。
一人一人の顔や会話の内容を可能な限り覚え込もうとしたが、さすがに限界もある。次回の握手会で、今日話したファンの顔を百パーセント思い出せるかは正直自信がない。
(ここだけでもナナの記憶が蘇ればいいんだがな……)
帰りのマイクロバスに揺られながら、俺はとっぷり日の暮れた空を窓越しに見上げて思った。窓には程よく疲れたナナの顔と、隣ですうすうと夢を結ぶ林檎嬢の寝顔が映っていて、俺などどこにも居ないかのような不思議な感覚がした。
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