第7話 愛の修行(2)
そして、この日からいよいよ、ナナこと俺の本格的なアイドル修行が始まった。
『続いてが、最後の曲になります』
『えぇぇえぇ!』
『ごめんなさいっ。聴いてください、「恋の寝袋」――』
控え室のモニターでステージの様子を見ながら、俺は覚え込んだ振り付けをひとり実演してみる。今はナナの
(ゆったりした曲調こそ、かえって難しい……)
アンコール前の最後の曲はスローテンポの
「……ふぅ」
曲が終わり、俺が画面の前で一息ついたところで、メンバー達がバタバタと慌ただしく控え室になだれ込んできた。客席のアンコールで舞台が再開するまで、僅か数分の
「お疲れ様です」
俺はぺこりと頭を下げて出迎えたが、忙しい彼女達には「ありがとー」などと一言返してくる余裕しかない。衣装の早着替えや水分補給で手一杯であり、とてもゆっくり休めるような時間ではないのだ。
皆の着替えを見ないように、俺が自然に壁に身体を向けていると、とんとんと後ろから肩を叩いてくる者があった。朱雀先輩と林檎嬢なのは声でわかった。
「ナナ、この後せっかくだからお客さん達に挨拶する?」
「した方がいいよー。皆、なぁちゃんに会いたがってるもん」
「はっ。挨拶……ですか」
二人が衣装を脱いでいないのを雰囲気で確認した上で、俺は僅かに振り向いた。
「そーそー。週末の握手会で復帰するでしょ? その前にちょっとだけ元気な姿見せてあげて」
「……了解しました」
いきなりのことに戸惑うが、
「しかし、私は化粧をしていませんが、いいのですか」
「なぁちゃんならすっぴんでも大丈夫だよ」
「うん、問題ない問題ない。じゃー、あとで呼ぶからお願いねっ」
「は、はいっ」
答えた時には、もう観客達がアンコールを叫び始めていた。
着替えを終えたメンバー達が、朱雀先輩の仕切りで気合いを入れ直し、再びステージへと飛び出していく。俺の眺めるモニターに光が飛び交い、色とりどりの衣装を纏った彼女達が、
(ここでターンし……
画面内の彼女達と同じ振りをなぞりつつ、俺はステージ上での
瞬く間にアンコール後の二曲が終わり、ピースサインを目の横で構える決めポーズを俺が画面内の十六人と揃えたとき、客席からわっと拍手と歓声が上がった。
『皆さん、アンコールありがとうございました!』
予定調和のアンコールに朱雀先輩が律儀に礼を述べ、皆が声を揃えてそれに追従する。
『二曲続けて聴いて頂きましたが、皆さん、まだまだ声出せてますかっ!?』
こうした呼び掛けに観客達が
流れ的にいよいよ自分の出番だなと察し、俺は大鏡の前で髪型と服装をぴしりと整え直した。服は例によって林檎嬢がナナの部屋で見立ててくれた、清潔感のあるカットソーとズボン。靴に汚れなし、頭髪に乱れなし、顔の血色よし、
「……準備
俺は小さく呟き、己を奮い立たせた。
『さぁー、今日はここでー、皆さんお待ちかねのー?』
『オオォッ!?』
『あの子にちょっと出てきてもらおうと思いまーす。ナナぁー、カモーン!』
朱雀先輩の声がスピーカーを通じて俺の耳に響く。「はいっ!」と声を張り上げ、俺は全速で控え室を駆け出してステージへと向かった。
「大和ナナ、参りました!」
ざっ、と俺がステージの端に躍り出て、朱雀先輩とメンバー達に向かって姿勢を正すと、客席から割れんばかりの歓声が溢れかえった。
「ナナー!」
「なぁちゃーん!」
数えきれないファンの声と視線が
息のかかりそうな距離にファン達の歓喜の顔がある。定員二百五十名の小さな劇場は今、ナナの名を呼ぶ興奮の
(皆……こんなにもナナを待っていたのか……!)
俺は小さく身震いした。ナナとして客前に出る初めての機会。緊張に滲む手の汗を服の裾で拭い、俺はマイクを握り直す。
「えー……皆様、長らくお待たせしており申し訳ありません。大和ナナであります」
俺がお辞儀をすると客席から一層大きな歓声が上がったが、すかさずそこへ林檎嬢が横から突っ込みを入れてきた。
「なぁちゃん、硬い硬いっ」
「はっ!?」
思わず目をぱちりとさせると、観客達が一斉に笑いに転じる。背中に冷や汗が伝うのを感じながら、俺はこほんと咳払いした。
一度のことなら客席も笑いで済ませてくれようが、そう何度も繰り返してナナに変な印象を付けるわけにはいかない。動画の中のナナ本人の喋り方を懸命に思い出しながら、俺はその再現を試みた。
「はい、改めて、大和ナナです。皆さんには心配をおかけしましたが、身体はもうすっかり元気です」
俺がその場でくるりとターンしてみせると、客席からフゥーと持て囃す声が上がった。前列から後列、後ろの立ち見席まで、なるべく客席の全域に視線を巡らせ、俺は続ける。
「本当は、すぐにでも公演のステージに復帰したいところなんですが、ダンスを鍛え直すのにもう少しだけ時間を下さい。ですが、今週末の握手会には復帰します」
そう宣言した瞬間、「オォォ!」とファン達の歓喜の雄叫びが劇場の空気を揺らした。
「皆さん、奮って私に会いに来て下さいね。私も皆さんとお話するのを楽しみにしています。以上、終わり」
ボロを出す前にと早めに話を切り上げたが、ナナの復帰を歓迎する客席の拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
林檎嬢を主任教官とするアイドル修行は連日連夜にわたり続いた。明日にはこの身体にナナが戻ってくるのではないか、今日こそ戻ってくるのではないか、と思いながら俺は日々を生き続けたが、結局、一晩眠っても二晩眠っても、俺の意識がナナの身体を離れることはなかった。
「化粧水……美容液……乳液……そしてこれがクリーム。なぜクリームだけ英語なんだ……?」
「わかんない。なんでだろうね?」
事前に教わった手順の通り、俺は林檎嬢の見守る前で朝のスキンケアを実践する。なお、洗顔はぬるま湯に洗顔フォームなるものを用いて行ったのだが、冷たい水でゴシゴシと顔を洗えないのはどうにも目が覚めた気がせず心地が悪い。
「スキンケア完了。化粧まで五分待機する」
「せーかい」
スキンケアが肌に定着するのを待つ間に、俺はリビングに出て軽く身体を動かす。腕振り、体前屈、体後屈……。海軍体操といってもナナの身体ではまだまだ真似事にしかならないし、下の階に響くので跳躍運動ができないのが口惜しいところだが……。
「今のなぁちゃんって、ほんと体操好きだよね」
「好きというか、体操をやっておかないと身体の不調に気付けないからな……」
「そう?」
海軍伝統の
ちなみに、入院中にやっていた朝のランニングもぜひ日課にしたかったのだが、アイドルの住処が割れては大変だからということで、本格的な運動はジムという施設に通って行うのが良かろうということになっていた。自由に外で運動もできないのだから、まったくアイドルというのは大変である。
「五分経ったな。化粧始め」
スキンケアと同じく、林檎嬢が手ほどきしてくれた通りに俺は化粧の工程を実施していく。化粧下地を指で顔全体に伸ばし、続いてパフでリキッドファンデーションを塗る。
「なーんか、すごい覚え早いよね。教え方がいいのかな?」
「まあ、
顔面にベタベタと色々なものを塗り込む気持ち悪さは一朝一夕で慣れるものではないが、しかし、化粧の手順自体はそこまで覚えづらいものでもなかった。日本中の娘さんに当たり前に出来ていることが俺に出来ぬはずがない、というちょっとした自尊心もある。
「ねー、こないだも思ったけど、少尉さんって飛行機乗りじゃないの? 設定ブレてない?」
俺より遥かに慣れた手際で自分も化粧を進めながら、林檎嬢は言ってきた。彼女は未だに、俺という人格の存在を記憶喪失のナナが作り上げた妄想だと理解しているらしい。
「……海軍士官は、
「ふぅーん。じゃあ、少尉さんも船の操縦できるの?」
「
「ランチってなに?」
「
「あ、モーターボートみたいな?」
「うん……まあ、似たようなものだろう」
「なぁちゃんも乗れたらいいね」
林檎嬢は、化粧の出来上がったばかりの顔でにこりと笑った。
俺に何かを教えてくれるときも、逆に俺が何か説明するときも、彼女は常にニコニコと楽しそうにしている。そんな彼女が傍に居てくれるからこそ、俺も焦燥や困惑を上回る充実感をもって、日々の修練に励むことができた。
そんなこんなで、数日間。
劇場公演を舞台裏から見学したり、レッスンや自主練に励んだり、林檎嬢が就寝時にくっついてこようとするのを防いだり、マネージャーと打ち合わせをしたり、テレビで現代の文化を学んだり、スマホのフリック入力とやらを覚えたり、林檎嬢と一緒に夕食を料理してみたり、就寝時にくっついてこようとするのを防いだりと、危うくも賑やかな時間は慌ただしく過ぎてゆき――
遂に週末、俺は初めての握手会に臨むことになった。
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