第7話 愛の修行(1)

 深く冷たい暗闇の中を俺達は飛んでいた。黎明よあけにはまだ遠い暗黒の旅路だ。

 頼りは夜空にまたたく星の明かりと、前方を行く僚機達の排気管から流れる青い炎のみ。僅かでも航法を誤れば命取り――ともすれば底知れない心細さに飲まれそうになる中、俺の正気を繋ぎ止めていたのは、後席に陣取るうるさい仲間ペア達の言葉だった。


「なんだ、少尉は童貞バーなのか? あんたみたいな男前ならさぞMMKエムエムケーだったろうに」


 偵察員の真島まじまがからからと笑う。俺の口元もふっと緩む。


「まさか。この歳まで勉強しか知らん人生だよ」


 余計なお世話だとばかりに俺が言うと、すかさず電信員の御木本みきもとも真島に調子を合わせてきた。


「またまたぁ、実は地元に別嬪べっぴんさんの婚約者エンゲが居るとかじゃないんですかぁ?」

「居らん居らん、そんなの。第一、明日は死ぬかもしれない身で嫁さんなんか貰えるか」

「しっかし、少尉ももう二十歳だろう。馴染みインチウーの一人や二人作らないとキンタマが泣くぜ」

「真島上飛曹じょうひそう、貴様は二言目には急な猥談ヘルダイブだな……」


 彼らと同じノリで猥談ヘルだんする気にはなれないが、しかし、夜間飛行の不安を吹き飛ばしてくれる彼らの賑やかさには悪い気はしなかった。直掩ちょくえん零戦ゼロせん隊の操縦員達がこの暗闇の中を一人で飛んでいることを思えば、艦攻かんこうが三座であることは幸いとしなければなるまい。


「そんなこと言って、実はあんたみたいな男がムッツリ助平ダマヘルだったりするんだ。士官室には卑猥な本ヘルブックがたんまり隠してあるんじゃねえか?」

「貴様、海に叩き落としてやろうか……」

「はっはは、そしたら帰れなくなって困るのはあんただがな!」

「真島さんの巻き添えで俺までフカの餌は御免ですよぉ!」


 俺達三人の笑い声が機上に響く。

 三度出撃して生きて還れる者はいないと言われる雷撃戦。明日をも知れぬ身だが、一緒に逝ける仲間が後ろに居てくれることは心強かった。


「おっと。見えてきたぜ、敵さんが」


 真島の言葉と同時に、俺の目は、遥か前方の洋上に咲く爆炎の花を捉えていた。

 いよいよ敵の艦隊への夜襲が始まったのだ。爆撃隊の一番槍に続き、俺達雷撃隊も指揮官機の先導で見る見る敵陣へと突入していく。

 御木本が電信を打ち、敵機の迎撃に備えて後方機銃の射撃準備に入った。魚雷を撃つのはもちろん操縦員の俺の役目だ。エンジンの轟音がいや増す中、真島の怒鳴るような声が耳を叩く。


「しっかり決めてくれよ、少尉! 夜這よばいでも掛けるつもりでな!」

「何だって!?」

「夜這いだよ、夜這い! 女の布団に潜り込んでだな!」

「貴様はまたそんな話を!」


 敵の対空砲火を遠目に見切り、俺は機体を横に振った。まったく、この戦友は、こんな時にまで――!


「嫌がる振りする女を押さえつけて、ドカーンと一発雷撃を――」


 味方の投下する爆弾と敵の迫撃砲はくげきほうの炎が渾然一体となり、煌々こうこうと夜空を照らす。一瞬、巨大な艦影が闇の中にはっきりと浮かび上がった。今だ!


「照準良し! ぇッ!!」


 投下把柄レバーを引いた瞬間、俺は自分自身が魚雷になって敵に向かって突き進んでいくような不思議な感覚を覚えた。

 ここにきて俺は初めて理解する。ああ、そうか、これは夢だ。俺は夢の中で生前の記憶を辿っているんだ。


 ――女の布団に潜り込んでだな、ドカーンと一発雷撃を――


 闇に染まった洋上に航跡を引き、魚雷おれは全速で敵を目指す。真島の卑猥なたとえ話が脳裏を渦巻いていた。撃沈すべき目標が、今、目の前に――



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 ――ぱちりと目を開けると、


「ウワァァァァ!」


 ナナの声帯が黄色い叫び声を室内に響かせる。飛び跳ねるように身を引いた俺は、そのままベッドから転落し、カーペット敷きの床に半身を打ち付けた。

 痛みに耐え、手をついて上体を起こした俺の視線の先で、リンゴ柄のもこもこしたパジャマに身を包んだ敵艦……もとい女子がもぞもぞと起き上がる。


「おはよー、なぁちゃん。朝から元気だねー」


 眠そうに目をこすり、ふにゃけた顔の林檎嬢がベッドの上から言った。


「……お、おはよう」


 ぎりぎり士官の体面を保って(保てていない)、俺は彼女に挨拶を返す。心臓の動悸がバクバクと高鳴っていた。林檎嬢がくすりと寝起きの笑顔を見せてくる。


「よく眠れた?」

「いや……わからん」


 俺は思わず目を伏せていた。彼女のパジャマは手足の先までを覆っていて、公演の衣装や私服のワンピースなどと比べると肌の露出はないに等しいのだが、そういう物理的な問題ではない。これは、女子の寝間着姿を間近に見るのはいかがなものかという、観念的な問題であって……。


「……やはり、朝からこれは心臓に悪い」

「えー、何を今さらー。夜は一緒にお風呂で背中流しっこしたじゃん」

「さりげなく記憶を改竄かいざんしようとするのはやめてもらおうか!」


 今の林檎嬢の発言が嘘なのは、あのニマニマと笑っている顔からも明らか……だよな?

 俺は片手でひたいを押さえて昨晩の記憶を辿る。ファミリーレストランという食堂で食事をしてこのマンションに帰り着き、林檎嬢がモバメとやら(スマホで多数のファンに向けて一斉送信する郵便メールのことらしい)を打つのを見学し、泊まるや泊まらんやの押し問答をだらだらと繰り返しながら、俺達は別々に風呂に入って眠りに就いた……はずだ。そう、誓って破廉恥なことはしていない、はずなのだが……。

 うぅんと伸びをする林檎嬢の姿を見て、俺はふるふると首を横に振る。

 男女七歳にして席を同じゅうせず、という。嫁入り前の娘さんと一つ屋根の下で寝泊まりするなど、それだけで破廉恥にも程がある。


「世話してくれるのは本当に有難いが、せめて寝る場所は別にしなければ。何かマチガイがあってからでは遅い」

「えぇぇー」


 林檎嬢は、わかりやすく口を尖らせた。


「だって、あなたも女の子の身体なんだから、マチガイなんて起こりようがないじゃん?」

「そういう問題ではなくてだな……!」

「どういう問題なの?」


 きょとんとした顔をわざと作って尋ねられると、俺も二の句を継げなくなる。

 だが、良くない。こういう形は極めて良くない。ナナの母親が「林檎ちゃんに一緒に住んでもらったら」などと言ったのは、今のナナの中身が俺であることを知らないからだ。マネージャーがそれに許しを出したのも、俺という人格の存在を妄想の一言で片付けているからに過ぎない。

 何より当の林檎嬢自身が未だに俺をナナだと思っているのだが、そういう誤解に付け込んで、俺がなし崩し的にこの状況を受け入れるわけには……。


「いかん、いかんぞ。とにかく良くない。やはり、俺は今夜から床で寝よう」


 俺が言うと、林檎嬢は「だからダメだって」と昨夜と同様に反対を示した。


「ちゃんとベッドで身体を休めないと。ていうか、なぁちゃんの部屋なんだから、もし床で寝るならわたしのほうだし」

「君にそんなことをさせられるか」

「じゃあ、わたしもそんなことさせられなーい」


 ぐぬ、と言葉に詰まる俺に、林檎嬢はぴんと人差し指を突きつけて笑ってくる。


「とゆーわけで、今夜からもこのベッドにお邪魔しまーす」

「……いかん、やはり君は自分のウチに帰るべきだ。泊まりはこの身体が本物のナナに戻ってからで……」

「えー。わたし抜きでほんとに生活に支障ない? 女の子の大変さがまだこれから色々あるんだよ?」

「……むぅ」


 そこを突かれては返す言葉もない。実際、俺が女子ナナとして生きるためには、彼女の助けが必要なのは間違いないのだ。

 そう、それは昨夜の時点で一旦自分に言い聞かせて納得していたことであって……。既に決まったことを何度も掘り返そうとするのは我ながら男らしくないとは思うのだが、しかし……。


(ああ、もう……俺などいつ成仏してもいいから、早く戻ってきてくれ、大和ナナ……)


 俺が頭を抱えて逡巡していると、くう、と俺と林檎嬢の腹が同時に鳴いて空腹を訴えてきた。

 彼女はえへへと恥ずかしそうに笑って、「あっ」と思いついたように言う。


「朝ご飯作ってあげよっか。あんまり得意じゃないけど」

「……いや、ナナの家なんだから俺がやるよ。君は休んでいてくれ」


 俺はそう言って立ち上がった。嫁でもない娘さんに女中の真似事などさせられないし、それに、あれこれ考えているより、いっそ作業に没頭した方が気が晴れもするだろう。

 そう、ここには烹炊ほうすい員などという気の利いたものはいないので、食事は自分で作らなければならないのだ。まあ、飯と味噌汁くらいなら俺でも何とかなるだろうが……。


「金はあるんだから、女中メードくらい雇ってもいい気はするがな……」


 手早く洗顔を済ませ、台所に向かいながら俺が独り言を呟くと、後ろから林檎嬢の声が飛んできた。


「メイドさんがほしいなら、わたしがメイド服着てあげるよ」

「いや、服の話をしてるんじゃなくてな」


 そういえば厚木の米兵達がメイドカフェがどうとか言っていたな、などと思い出しながら、俺は適当に台所の戸棚を漁る。

 さすがに金持ちの娘の部屋だけあり、透明樹脂製の容れ物に蓄えられた米は全て銀シャリだった。麦飯を混ぜた方が脚気かっけの予防には良いはずだが、まあ、実際この身体が脚気になっていないところを見ると大丈夫だろう。


「米はあるがかまがないな……。林檎さん、米は鍋で炊くのか?」

「え? スイハンキないの?」


 スリッパを履いた林檎嬢がぱたぱたとやってきて、白い箱状の機械を指差した。


「これ、スイハンキ。これで炊くの」

「ほう。電熱釜でんねつがまの進化形といったところか……」


 炊飯器とやらの使い方を聞き、俺がさっそく朝食の準備に取り掛かると(米の研ぎ汁を床の掃除に使おうと言ったら思いっきり変な顔をされた)、林檎嬢はその間に洗濯をしてあげると言ってきびすを返した。

 少尉任官までは毎日自分達で洗濯をしていたので、本当は料理より洗濯の方が得意なのだが、女子の下着を俺が洗うわけにもいくまい。


「悪いね。手間のかかることをやらせて」

「? 全然手間じゃないよ。洗剤入れてスイッチぽーんって押すだけだもん」

「……なに? 電気洗濯機があるのか!?」


 俺が驚愕に声を上げると、林檎嬢は脱衣所のほうに向かおうとしていた足を止めて振り返り、目をぱちぱちとさせた。


洗濯機センタッキくらいわたしの家にもあるよ……。なかったらどうやって洗濯するの」

「……俺の頃は、洗濯桶オスタップに水を溜めてな、洗濯板に服をゴシゴシやって洗っていたんだ」

「ええぇ、さすがにウソでしょ。そういうのって江戸時代くらいじゃないの!?」

「いや、江戸時代よりはマシだったと思うが……」


 ジョークだか何だか分からない林檎嬢の言葉を軽く流し、冷蔵庫にあった味噌を鍋に溶き入れながら、ふむ、と俺は考える。


(改めて凄い時代だ。全国民が電話機を持っているだけのことはある……)


 捻れば湯の出る蛇口、西洋式のバスルーム、天然色のテレビジョン、挙句の果てに電気洗濯機と来た。技術がどうこうより、そうした設備が当たり前に個人の家にあるという事実こそが俺には驚きだった。

 何しろ、言っては悪いが普通の庶民の育ちであろう林檎嬢が、洗濯機を使わない洗濯の仕方を全く知らないほどなのだから、この七十年余りの間にどれほど社会が豊かになったのかが改めて分かろうというものだ。


(自動車も俺の頃よりずっと普及しているようだし……。そうなると……)


 もう洗濯機の始動を終えたらしい林檎嬢が、とてとてと台所に戻ってきたので、俺はふと思いついたことを聞いてみた。


「まさか、個人が船や飛行機を持ってたりはしないよな?」

「えぇー。それはさすがにないかな」


 林檎嬢は笑って答えた。俺としては割と本気で期待して尋ねただけに、軽く意気消沈である。


「そうか、ないのか。残念だ……」

「あ、でもでも、お仕事の移動で飛行機乗ることもあるし、船も乗りたかったら乗れると思うよ?」

「いや、そういうんじゃなくてな。自分で操縦する機会が持てればいいなと思ったんだが、まあ、一般人の身分では無理があるか……」


 他人の人生を借りている身で高望みなどするべきではないな、と俺が思ったところで、林檎嬢は自分の口元に指を当てて何かを思い出したように言った。


「んー、なんだっけ、船の免許はテレビの企画で福津ふくつさんが取ってたよね。なぁちゃんも取ったら?」

「船の免許? 海技免状のことか?」

「わかんないけど……。あ、でもメチャクチャ勉強大変だったって言ってたよ」

「ふぅむ……」


 この時代にも民間の船舶職員の資格は当然あるようだ。福津先輩というのはエイトミリオンの古参だが、女子がテレビ番組の企画で勉強したくらいで受かるのなら、それほど難しい試験でもないのかもしれない。


「いつか余裕があったらやってみたいものだな。今はアイドル修行でそれどころじゃないが」

「あ、マジメー! じゃあじゃあ、いつか免許取ったら乗せてねっ」

「その時まで俺がこの世に居ればな……」


 ナナの人生にどこまで俺が勝手なものを付け加えていいだろうか、などと考えつつ、俺は味噌汁の鍋をお玉でかき回した。

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