第6話 アイドルなんて呼ばないで(3)

 駅の近くのカフェ(風俗まがいの特殊喫茶カフェーではなく、軽食喫茶で特に洒落っ気のあるものをそう呼ぶらしい)で適当に昼食を済ませ、俺は林檎嬢の先導でレッスンスタジオへと足を踏み入れた。

 海軍鉄則の五分前行動を心がけてはいるが、それでも一番乗りとはいかなかった。既にスタジオで自主練を始めていたメンバーが何人もいる。この道に本気なのは、何もナナだけではないということだ。


「えっ。マキナは来ないんですか?」


 俺達より早くスタジオに来ていたチームキャプテンの鹿嶋かしま朱雀すざく先輩は、俺の裏返る声をのほほんと受け流すように言った。


「うん、さっきラインが来たの。今日は行けませんー、って」

「そうでしたか……。彼女に詫びねばならないことがあったのですが、残念です」


 昨日のマキナの涙声が、俺の脳裏に去来する。

 今日の俺が何よりもまず果たすべき課題、それはマキナに昨日の冷たい態度を謝ることだった。彼女がどんな助平ヘルプな話をしようとしていたのだとしても、それを辛辣な言葉で咎めてしまったのは俺の失敗に他ならない。

 女子が誰彼構わず聞かせるわけではない類の話。マキナがそういう素顔を見せられる仲間としてナナを信用していたのだとしたら、俺はその信用を裏切ってしまったことになる。

 しかし、そのマキナが今日はチームのレッスンに来ないのだという。ただの体調不良ならまだいいが、昨日の俺の態度が理由だとしたら……。


「先輩は何か聞いておられませんか? 彼女の欠席の理由について」

「ううん。調子良くないのかなーってだけ。ていうか、ナナ、そんなに言葉カタくなかったでしょ? 病み上がりで大変だろうけど、もっと気持ちはリラックスしなよー」


 鹿嶋先輩がぽんぽんとナナの肩を叩いてくる。傍らの林檎嬢が「ほんとに」と調子を合わせてフォローしてくれた。


「ですが……」


 俺がまだ焦燥を隠せずにいるところへ、間延びしたような先輩の声が続く。


「マキナが気になるならラインしてあげたら? あ、ていうか、ナナ、あなた入院から全然キドク付けてないでしょー」

「キドク?」


 言葉の意味を測りかねたところで、林檎嬢が絶妙のタイミングで横入りしてくる。


「すみません、なぁちゃんのスマホ、落として壊れちゃったみたいで。でも大丈夫です、直るまではわたしが連絡伝えます」

「そぉ? まあ、それならいいけど。早く直しなよー」

「申し訳ありません」

「あーもー、大げさに謝らなくていいっていいって。ほら、早く着替えといで」


 先輩に促され、俺は林檎嬢と更衣室へ向かう。

 直後に聞いたところによると、既読というのはラインの文字通信メッセージを受信した旨を相手方に知らせる通知のことだそうだが、そんな通信技術の話より何より、マキナへの心配の念こそが俺の頭には浮かんで離れなかった。



 レッスンウェアへの着替えを終え(誓ってナナの身体も、まして林檎嬢の着替えの様子も見てはいない)、一旦はマキナにまつわる懸念を心の片隅に置いやっておいて、俺はこの身体になってから初めてのダンスレッスンに身を投じることになった。

 肩にかかる長髪をヘアゴムでくくり上げ、鏡の前でほおを叩いて気合を入れる。さあ、皆の前でボロを出さにようにしなければ――。


「大丈夫? なぁちゃん。マキナちゃんのこと引きずってて踊れる?」


 更衣室を出る間際、林檎嬢は心配そうな目で聞いてくれたが、正直その点はさほど問題ではなかった。精神のコントロールの仕方は兵学校と戦場でさんざん学んでいる。軍人とは、目の前で戦友が血を噴いて死んだ半秒後には冷静に気持ちを切り替え、その者抜きでの戦いを続けられる人間のことを言うのだ。


「心配には及びません。それよりも、問題はこの身体の体力ですが……」

「んー、それこそ大丈夫じゃない? なぁちゃんなら」


 林檎嬢はくすりと笑ってスタジオの扉を開けた。壁の一面が鏡張りになった明るいスタジオには、遠方地の兼任組や、他の仕事で来られない者を除き、チーム・クアルトのメンバーがずらりと揃っていた。

 全員でレッスンの先生に挨拶をして、早速、動きの確認に入る。皆にならって散開しながら、俺はじわりと滲む手のひらの汗を思わず指でぜていた。


(この脆弱な身体で、どこまで……)


 ナナの身体の基礎体力は俺からすればまだ全く話にならない。各曲の振り付けの動きは公演の動画で目に焼き付いているが、病み上がりで筋力や持久力が衰えているはずのこの身体で、果たしてどこまでやれるものか。


 ……が、しかし――


「ワン、ツー、スリー、フォー――」


 先生の号令に合わせてものの数分も踊ったところで、俺は、自分が大きな思い違いをしていたことを知る。


(これは――)


 スタジオの床を踏み鳴らすステップ。空気を引き裂く腕の振り。残影を引くような全身の回転ターン

 仲間達の背中の向こう、一面の鏡に映るナナの姿は――


(この場の誰より、ブレがない――!)


 スマホの動画で覚え込み、病室で林檎嬢と何度かさらっただけの振り付けを、俺は見よう見まねで踊っているだけだが――

 俺が脆弱と思っていたナナの身体は。折れそうなほど頼りないと思っていたその手足は。

 誰より鋭く、誰よりしなやかに、風を捉え水をかたどるのだ。


(大和ナナ……君という子は……)


 レッスンに熱が入るにつれ、周りの仲間達の顔からは次第に余裕が消え、その呼吸は少しずつ荒くなっていく。だが、十分、二十分と踊り続けても、ナナの呼吸器官は微塵の息苦しさも訴えてこない。

 ここにきて、俺は初めて悟っていた。

 飛行場の周りをたった数キロ走っただけで息が上がっていた、この脆弱すぎる身体は――


 ――


 振り付けの途中、ターンの瞬間に林檎嬢と目が合った。彼女も息が上がっていたが、その目は誇らしげに笑って俺に伝えてきた。ね、だから言ったでしょ、と――。


「休んで何か吹っ切れたみたいね、ナナ」


 レッスン開始から三十分ほど経つ頃、ダンスの先生はふいに俺を名指しして言った。俺がどきりとする間もなく、彼女は矢継ぎ早に続ける。


「前より動きがぎこちなくなってるけど、でも思い切りが良くなった。あなた体幹は出来てるんだから、力の出し方はそれで正解よ。あとは、その全力を出しながら、前みたいに振りに思いも乗せれるようにして」

「はっ」


 彼女の言葉から逆算すれば、元々のナナの特性がわかった。ナナはダンスの表現力に秀でてはいたが、せっかく鍛えた身体を真に全力では動かせていなかったというところか。

 まあ無理もなかろう、と思う。どれほど熱心にダンスのトレーニングを受けていたところで、兵士でも運動選手でもない娘さんが、どうして人間の身体能力を底の底まで引き出すすべを知り得るだろうか。


(思い切りの良い動き――)


 皆の中で踊りながら俺は考える。兵学校で叩き込まれた海軍流の武道はひたすらに攻勢あるのみ。剣道でも柔道でも相撲でも、全身の力を余さず出し切って戦うことのみを教えられた。それが、先生が褒める今のナナの長所、思い切り良く手足を振り抜くことに繋がっている。

 あとは、そこに、動画の中のナナが見せていた、繊細にして雄弁な表現力が加われば――。


(そうなれば、大和ナナのダンスは……先輩達にも負けないものになる!)


 ぶぉん、と風切り音を響かせんばかりの勢いで、俺は腕の振りに熱情を込めた。




「めっちゃ頑張ってるじゃん、ナナ」


 レッスンが最初の休憩に入った直後、鹿嶋先輩が白いタオルで汗を拭いながら俺に笑いかけてきた。彼女に追随するように他のメンバーも何人か集まってきて、退院したばかりなのに気合が入ってるとか、そんなに飛ばして身体は大丈夫なのかとか、口々に声を掛けてくれる。

 だが、俺からすればまだまだこんなものでは足りないくらいだった。何しろ、指宿いぶすきリノ閣下と約束してしまったのだ。秋葉原本店を盛り上げることに死力を尽くすと。

 傍らの林檎嬢と目を見合わせてから、俺は鹿嶋先輩達に言った。


「指宿リノさんが仰ったんです。三年で七姉妹セブン・シスターズに入れと」

「えっ、マジ。指宿さんが?」


 俺の言葉に皆は微かにざわついた。指宿閣下の名前はもとより、七姉妹セブン・シスターズという単語がエイトミリオンのメンバーにとって相当なおそれをもって受け止められるものであることは俺も勘付いていた。


「はい。それで、鹿嶋先輩にお聞きしたかったのです」

「な、なに、かしこまっちゃって。スザクでいいって」

「……では、朱雀先輩。今の私に……大和ナナにとって、七姉妹セブン・シスターズというのはどれほど高い目標なのでしょうか」


 俺がまっすぐ目を見て問うと、先輩は「えぇぇ」と空気の抜けた風船が飛んでいくような声を出した。


「それ、マジメなやつだよね。……正直、わたしにはハッキリ答えてあげれないよ。わたしだって、十六位圏内選抜の景色もまだ知らないし……」


 それから先輩は、「あー」と人差し指を立てて、「でも、前からずっと思ってることはあるな」と続けた。


「思ってること、ですか」

「うん。七姉妹セブン・シスターズってね、たぶん、わたしじゃ一生かけても届かない雲の上だけど……ナナなら、いつかきっと、そんな壁ひょいって超えていっちゃうんだろうなって」


 気付けば朱雀先輩だけでなく、周りに集まったメンバー達も興味津々な目で俺を見ていた。自ら切り出した話とはいえ、こういう言われ方をされては反応に困ってしまう。


「……仮に私がそうなる時には、先輩はそれよりも上におられるでしょう」

「あはは、ムリムリ。わたしそんなガラじゃないもん。……何か、ここでトップを目指すより、別の道が見つかったらいいなーって、なんとなーく思ってるよ」

「別の道、ですか……」


 俺が芸のないオウム返しをすると、先輩はにまっと人懐こい笑みを見せて頷いた。


「エイトミリオンは、何かになりたい人のための通過点だからね」

「通過点?」

「そう、みんな自分の道を見つけて巣立っていくの。わたしなんかテキトーすぎて、もう五年も居るのに、将来自分が何したいのか全然わかってないんだけどね。……でも、手当たり次第に色んなこと頑張ってたら、その先どこかで、人生を賭けたくなるような何かに出会えるかもしれない」


 実はナナと変わらない歳である朱雀先輩の目には、しかし確かに、林檎嬢やナナより長くエイトミリオンを見てきた者の揺るぎない矜持が宿っているように見えた。


「ナナも、たとえこの先トップになってもならなくても……いつか卒業する時までに、自分だけの何かを見つけれたらいいんじゃない? ……って、朱雀センパイは思いますー」

「……はい」


 俺がこくりと頷いたとき、メンバーの中から「朱雀さんがキャプテンみたいなこと言ってる」と茶化す声が上がった。


「なにそれ、キャプテンみたいっていうかキャプテンだし!」


 等身大の彼女の反応に、皆と一緒に俺も笑った。

 休憩の終わりまであと一分。先輩は「まあ、そういうわけで」と、最後に付け加えるように言った。


「高ぁい目標を見るのも勿論いいけど、まずは一緒に十六位圏内選抜を目指そっ。今週末は握手会だよー」

「はい!」


 俺が拳を握ったところで、先生がぱんぱんと手を叩いてレッスンの再開を告げた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 レッスンを終え、林檎嬢のスマホを借りてナナの母親に電話を掛けることができたのは、夕方の六時を回る頃だった。


『もう、ママ心配したわよ、ラインも全然既読にならないから。マネージャーさんが連絡くれてたからよかったけど……』


 交換手こうかんしゅも無しでいきなり繋がった電話は、恐ろしいほどの鮮明さをもってナナの母親の声をレッスン場の廊下に響かせた。スピーカーモードといって、隣に立つ林檎嬢にも聞こえる音量の設定だ。

 厳密には「電話じゃなくてラインの通話」らしいが、どう違うのかは俺にはイマイチわからない。林檎嬢とナナの母親は既に面識があり、その時にラインのIDとやらを交換したらしいが。


『パパも心配するし、連絡はちゃんとしなさいね。いくらお仕事してるって言っても、まだ子供なんだから』

「はい。今後は定期的に電話で連絡を入れます。そちらは今、深夜でしたか」

『そうよー。さっきまでパパも起きてたんだけどね』


 ナナの両親が仕事の都合で海外に住んでいることは既に知っていたが、海を隔てた異国とも瞬時に電話が繋がるこの時代の技術には感嘆するほかない。こんなものが俺の時代にあれば、我が海軍の作戦が連合国側にあれほど筒抜けになることもなかっただろうに……。


『まあ、林檎ちゃんが付いてくれてるなら安心だけど。いっそのこと一緒に住んでもらったら?』


 冗談なのか何なのかよくわからないことを言い、それから二言三言会話を続けて、ナナの母親は「ちゃんとラインしなさいね」と言い残して通話を終えた。俺は終始敬語で応答していたが、少なくとも不信感を抱かれることはなかったようだ。


「ありがとうございました。おかげで親に……」

「うん、よかったー、ママさんのお墨付きがもらえて」


 珍しく俺の言葉を途中で遮って、林檎嬢はにまにまと笑ってスマホをバッグに仕舞い込んでいる。……お墨付き、とは?


「……ねえ、林檎さん。実は朝から気になっていたんですが」


 俺は彼女の手元のバッグをゆっくりと指さして言った。

 嫌な予感がぐるぐると頭の中で渦巻いている。そう、女性の荷物の中身を尋ねるなど不躾なことだと思って言わずにいたが、実は朝に駅で合流した時からはしていたのだ。


「……なんです、その、明らかに泊まり用にしか見えない荷物の量は」

「んー、マネージャーさんにはもうお許しもらってるもん。元のなぁちゃんに戻るまでは、って。そして今、なぁちゃんのママさんのお言葉も頂きました」


 スタジオを出てゆくメンバー達と次々に別れの挨拶を交わしながら、林檎嬢は俺の反応を楽しむように上目遣いを作ってこちらを見てくる。


「……いけませんよ、嫁入り前の娘さんがそんな」

「とりあえず一泊分の服とかはあるから、他は明日また取りに行くとしてー」

「……あらぬ噂を立てられたらどうするんです」

「あのベッドの広さなら、よゆーで二人寝れるもんねー」


 最後に朱雀先輩が「じゃあね」と手を振って建物を出ていった後、林檎嬢は俺の前でぴこんと指を立てた。


「というわけで、今夜からお世話役としてなぁちゃんのお部屋に住み込みます! けってーい」


 完全に既定事項として告げられた彼女の宣言を突っぱねるのは、七姉妹セブン・シスターズを目指すよりも難しそうだった。

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