第6話 アイドルなんて呼ばないで(2)

 動きやすい服装を林檎嬢に見繕ってもらい、俺が彼女とともにマンションを出たのは昼前だった。

 レッスンスタジオへは電車で数駅の距離だ。鍛錬がてら吊革を持たずに車内に立ち、扉の上の路線図を改めて見上げると、ナナのマンションの最寄り駅がちょうどスタジオにも秋葉原の劇場にも行きやすい中間地点に位置していることが見て取れた。家賃の多寡など度外視できる立場にある彼女としては、エイトミリオンの活動に最も利便の良い土地に居を構えたということなのだろう。


「路線図がそんなに楽しい?」

「ええ、駅名を見るのも面白いですが、彼女の決意がよくわかるなと思いまして。……寝室の写真といい、このグループの一員であることは彼女の人生の全てだったのですね」


 例によって俺は敬語で話している。二人とも帽子とマスクで顔を隠しているとはいえ、車内の誰が聞き耳を立てているか分からないので、迂闊に固有名詞は出せない。

 林檎嬢はしっかり吊革を握ったまま、ふふっとマスクの下で笑って答えた。


「それ、昔のあなた自身が聞いたらすっごく喜ぶと思う」

「……ええ。聞かせたいものです」


 俺は深く頷いた。

 叶うものなら、大和ナナ本人に伝えてやりたい。エイトミリオンにかける君の本気は、何も知らぬ俺にもしっかり分かっているぞと。

 だが……。


(しかし、一つ気になるのは……)


 ナナの信念は疑う余地もないが、どうにも俺の心に引っ掛かっていることがある。それは、指宿いぶすきリノ閣下が見舞いに来てくれた際の言葉だ。


 ――あなたが苦しんでたのは何となく知ってる。だけど、こんなところで辞めるなんて言わないわよね――。


 閣下は確かにそう言っていた。ナナが苦しんでいたと。そしてナナを引き止めたのだ。「今辞めるなんて無責任な真似は、他の誰が許してもわたしが許さない」――あの恐ろしいほど真剣な目と真剣な言葉は、ナナが脱退を考えている可能性が少しでもあると思わなければ出てこないだろう。


(ナナが一体何に苦しんでいたというんだ。総選挙の順位が思うように上がらないことか……?)


 昨年の総選挙でナナは三十二位圏内アンダーエンジェルズ他校同期コレス賀集かしゅう我叶わかなに負けているとはいえ、既に多くの先輩をゴボウ抜きしており、十分すぎる成績と言えるはずなのだが……。

 それでも、きっと本人にしか分からない何かがあったのだ。心の底からエイトミリオンを愛していた筈の彼女が、それでも脱退を選びかねないと――少なくとも指宿閣下の慧眼けいがんをしてそう思わせるだけの何かが。


「まーた難しい顔してるー。どうしたの?」

「いえ……」


 と、そのとき、駅名のアナウンスに続いて電車がヘタな減速をした。たちまち慣性力がかかり、ひゃっと声を上げて林檎嬢が吊革を持ったまま寄り掛かってくる。俺は片足に軽く力を掛けて踏ん張り、彼女の身体をそっと両手で受け止めた。こういう事態を見越して進行方向の側に立っていたのだ。


「わっ、えっ。なぁちゃん凄いっ」

「名前、名前」


 彼女の声に乗客達がちらちらと振り返ったところで、ちょうど電車は目的の駅に到着した。

 人の波に押し出されるようにして俺達はホームに降りる。歩き出す前にちらりと周囲を見回した、まさにその瞬間、背後から声を掛けてくる者があった。


「あ、あのっ」


 同じ車両の奥から降りてきた、中学生くらいとみえる女子二人だった。一人は何やらもじもじした様子で俺達を見ており、後ろのもう一人が「ほら」とか促している。

 俺は自然な動きで林檎嬢を庇う位置に出つつ、彼女らを瞬時に上から下まで観察した。私服に非武装、持ち物は各々小さなバッグのみ。そして俺の覚えたエイトミリオンのメンバーには思い当たる顔がない。

 この至近距離なら、万一拳銃や刃物で襲われても対処できるか――。俺は二人の動きから目を離さないまま、後ろの林檎嬢の手をさっと握り、親指で信号を送った。「タ・レ・カ・シ・ル・ヤ」?


「えっ、なにっ」


 林檎嬢は戸惑ったようだったが、ややあって、柔らかな握りで応答を返してきた。・-「イ」・-「イ」-・---「エ」だ。

 俺が彼女の手を放して身構えたところで、もじもじ女子が上目遣いに尋ねてくる。


「大和ナナさん……ですよね?」

「!」


 やはり変装を見抜かれている――。じわりと冷たい汗が背に伝うのを感じたとき、林檎嬢が後ろから小声で「なぁちゃん」と呼び掛けてきた。


「この子、ファンの子だと思うよ」

「なに?」


 俺はぱちりと目をしばたかせた。

 眼前の女子が緊張した顔で俺を見たまま、意を決したように一歩近寄ってくる。


「あ、あの。わたし、ナナさんがイチ推しで。いつも応援してます」


 おずおずとした口調に、上ずった声。明らかに他意はなさそうだった。


「……そうでしたか。これは失礼」


 俺は警戒を解いて、彼女の前に片手を差し出した。


「いつもありがとうございます」

「えっ、あっ、握手いいんですかっ」


 彼女はぱぁっと目を輝かせて、俺の手を握り返してくる。その小さな手にはじわりと緊張の汗が滲んでいた。


「あの、わたし、こないだ初めて、ナナさんが出る予定の公演当たって……。でも、ナナさん休業しちゃったから、会えなくて……」


 少女の声は涙に震えそうになっていた。憧れの大和ナナと初めて話せたことが相当嬉しいのだろう。

 しかも、せっかくナナを間近に見られる機会を得ていたのに、突然のナナの入院でそれがオシャカになってしまっていたのか……。俺自身のことではないとはいえ、心が痛む。


「それは申し訳ないことをしました。私はもう大丈夫ですので、ぜひまた会いに来てください」

「は、はいっ……! 絶対行きます!」


 声を裏返らせて少女は答えた。俺はマスクの下で努めて笑顔を作り、「じゃあ」とそっと彼女の手を放した。


「今からレッスンがありますので、これで。また会える日を楽しみにしています」

「あっ、ありがとうございましたっ」


 俺にぺこぺこと頭を下げて、少女は友人の元へ駆け寄っていく。立ち去る俺達の後ろから、「ナナさんに握手してもらっちゃった!」とか何とか彼女が嬉しそうに声を上げるのが聞こえた。

 ナナらしい受け答えが出来たかどうかは自信がないが、ひとまず喜んでもらえたようでよかった――。初めてファンと交わした握手の感触を記憶に仕舞い込むように、俺はぐっと拳を握り締める。


「さすがのかみ対応だねー、なぁちゃん」


 駅の出口を目指して歩きながら、林檎嬢が隣でくすくす笑ってきた。


「でも、ほんとはダメなんだよ。外でファンの人と握手するのは」

「なぜです? アイドルは握手会をするものじゃないんですか」

「だからだよ。だって、みんなわたし達のCDを買って、列に並んで来てくれるのに、外で何もなしに握手してあげたらフェアじゃないでしょ? ……まあ、わたしも、さっきみたいな子だったら握手しちゃうかもしれないけど」

「……なるほど」


 道理に適った話だ。それで金を取っている以上、アイドルの握手はあくまで商品ということか……。


「あと、やっぱり、お仕事以外で誰かと接触しちゃうのは、色々危ないじゃない?」

「危ない?」


 俺が聞き返すと、彼女は「うん」と頷いた。


「しかし、あの子達なら、仮に武器を持って襲ってきたとして、この身体でも十分制圧できます。相手が屈強な男なら難しいかもしれませんが……」

「そういうことじゃなくてね……? ホラ、女の子ならまだ大丈夫だけど、男の人と外で仲良くしてるところを週刊誌に撮られちゃったりしたらダメでしょ?」

「そういうことですか……」


 俺は納得した。芸能人にゴシップ騒ぎが付き物なのは昔と変わらないらしい。ムーラン・ルージュ新宿座の高輪たかなわ芳子よしこがガス心中しんじゅうで死んでしまったのは、当時小学生だった俺もよく知っていたし、古くは浅草オペラでさわモリノと人気を二分した河合かわい澄子すみこなど、頻繁にゴシップを書かれすぎて「問題の女」の異名を取る程だったという。

 たとえ男遊びをしていなくとも、新聞屋に痛くない腹を探られるような真似をするべきではない。そして、男のファンと仕事外で話さないなら、女のファンとも同じようにしなければ公平ではないということか。


「……何やら、初めてあなたが先輩に見えましたよ」

「あ、ひどい。わたし、ちゃんと先輩だもん」


 俺の軽口に、マスクの下で律儀にぷくうと頬を膨らませてから、林檎嬢は「でもでも」と俺の片手を掴もうとしてきた。

 その動きを見切って俺がさっと手を引っ込めると、彼女は楽しそうに笑って言う。


「わたしとだったら、いつでも手繋いでいいよ?」

「懲りない先輩ですね。そういうことはよくないと言ってるでしょう」

「さっきは握ってくれたじゃん」

「あれは必要があったからです」

「ふぅーん……。そういえば、さっきのモールス、何て言ってたの?」

「え?」


 彼女の言葉に、俺は一瞬ぽかんとした。「誰か知るや」に「いいえ」で、通信はちゃんと成立したように思ったのだが。


「わかった上で応答したんじゃないんですか」

「ううん。タレかシル、とかって言われて、なんか食べ物の話かなって思ったけど……シチュエーション的にヘンだから、あ、たぶん、この子達知ってる?って聞きたいんだなって」

「……いや、それはそれで凄いが……。君は文語が読めないのか……」


 俺は思わず片手でひたいを押さえていた。よく気が回るわりに、学校の勉強は決して得意ではないのは、もう大体わかっていたが……。


「ブンゴってなに?」

「……いや、いい。今後は口語に合わせよう」


 この短期間で和文モールスを覚えただけでも、彼女はナナのために十分すぎる努力をしてくれていると言えるだろう。ただでさえ何から何まで世話になっているのだ、逆に合わせられるところは俺が合わせていかなければ申し訳が立たない。

 並んで改札を出た直後、彼女は「あ、じゃあ」と悪戯っぽい目をして言ってきた。


「歩いてる間、通信の練習しよ。はい、手握ってー」

「その手は食いませんよ。それに今は、ファンの子との握手の感触を拭いたくない」

「えっ、なにそれ、今のカッコいい。好きかも」

「だからそういう冗談はやめなさいって。ゴシップ屋に撮られますよ」

「なぁちゃんとだったら撮られてもいいもーん」


 やれやれ、と小さく息を吐いて、俺は胸の前でしっかりと腕を組み、歩調を早めた。

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