第6話 アイドルなんて呼ばないで(1)

 病室で過ごす最後の一夜が明け、俺は朝日とともに目を覚ました。

 清潔なシーツの衣擦れと、視界にかかる長髪、未だ存在に慣れない胸の膨らみ。ひとまず、今日も俺の魂はナナの身体に留まっているらしい。


「……引き続き身体を借りるぞ、大和ナナ」


 冷たい水で顔を洗い、洗面台の鏡に全身を映して、すうっと深呼吸する。生きた肺に空気の流れ込む実感がした。

 それから手早くジャージに着替え、ランニングシューズの靴紐を固く結んで、俺は朝のランニングへと繰り出した。ナナの身体の基礎体力はまだあまりに心もとないが、脆弱な身体なりの運動のペースをこの数日で覚えたので、初日に比べると幾分楽に走れるようになってきた。


「よぉ、ネイビー・ガール。今日も精が出るな!」


 馴染みの米兵達がジープを停めて、陽気なヤンキー英語で声を掛けてくる。俺は立ち止まって姿勢を正し、彼らに答えた。


「おかげさまで、少しは調子を取り戻してきました。しかし、今日で退院なのです」

「なんてこった、そいつは残念だ!」

「まったくだぜ。君に会えないなら、これから何を楽しみにパトロールすりゃいい?」


 米兵達は二人揃って頭を抱えるジェスチャーを見せた。たった数回顔を合わせただけだというのに、まったく楽しい奴らだ。


「私に会いたければ、いつでも秋葉原に来てください」

「アキハバラ? 海軍士官ネイヴァル・オフィサー様がメイドカフェで給仕サーヴィスでもするのかい」

「メイドカフェというのは知りませんが、秋葉原でアイドルの劇場に立ちます。もっとも、ダンスはこれから覚えるのですが」


 俺が笑って言うと、二人は一瞬、ぽかんとした表情を見せた。


「あんた、アイドルだったのか?」

「ええ、実は。何だと思ってました?」

「てっきりクノイチの末裔か何かだと思ってたぜ。女性自衛官W A V Eの姉ちゃん達とも違う、殺し屋の目をしてたからな」

「ははっ。これからは、ファンの心を射止める殺し屋というわけです」


 二人がヒュウと口笛を吹く。

 幸運をグッドラック、と軽く言い合って、米兵達と俺は特に名残を惜しむこともなく敬礼を交わして別れた。平和な同盟国の人間同士、縁があればまたどこかで会う機会もあるだろう。


(……大和ナナの実家が基地の近くだったのも、天の采配かもしれないな)


 今日で最後となる周回ランニングを続けながら、俺は思った。

 病院のすぐそばにアメさんの基地があったからこそ、俺はいち早く己の身に起きたことを理解し、この時代への順応にかじを取ることができた。なぜ俺の魂が大和ナナの身体に入ることになったのかは分からないが、この場所に引き寄せられたのは、神仏の情けだったのかもしれない――。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 世話になった女医や看護婦達に挨拶し、退院の手続きを済ませて、俺はトランクケースに全ての荷物を詰め込んで病院を出た。

 今日も空は青く澄んでいた。例のスイカという券をかざして改札を通り、電車に揺られること一時間余り。ナナのマンションの最寄り駅に俺が降り立ったのは、林檎嬢との約束の時間の十分ばかり前だった。

 改札の外には既に彼女の姿があった。帽子キャップとマスクで顔を隠したナナの姿に遠くから気付き、嬉しそうに手を振ってくる。「五分前精神」の海軍も完敗だな、と一人で苦笑して、俺は足早にトランクを引いた。


「おはようございます」

「おはよー。よかった、迷わず来れたんだ」

「林檎さんの書いてくれた乗換案内のおかげですよ。世話になります」


 例によって、人目のある場所では無難に敬語を使っておく。林檎嬢はマスクをしたままにこりと笑って、「行こっ」と促してきた。

 午後からのレッスンに先立ち、彼女は、俺が初めて自分ナナの部屋に入るのに立ち会ってくれると言ってくれたのだ。この時代の暮らし、女子としての生活、エイトミリオンのメンバーとしての日常のいずれにも不案内な俺には、まさに渡りに軍艦である。


「しかし、悪いですね。何から何まで付き合ってもらって」

「いいよぉ。わたしがそうしたいんだもん。マネージャーさんからも、なぁちゃんの面倒を見てあげてって言われてるしー」

「落ち着いたらお礼をしますよ」

「いいって、いいって! ホラ、わたし、一応先輩だし?」


 隣を歩きながら、そう言って得意げににまりと笑う彼女の声は、本当に楽しそうに弾んでいた。

 だが、俺とて一方的に彼女の厚意に甘えてばかりもいられない。いつか、何かの形で返せればいいのだが……。


「……さて」


 駅の建物を出ると、幸い目の前に地図案内板があった。時刻と太陽の位置から方角を見て、覚えておいたマンションの住所を地図と照らし合わせる。徒歩五分くらいか、と当たりを付けて林檎嬢を振り返ると、彼女はスマホを手にくすりと笑ってきた。


「じゃぁん。ここにグーグルマップがあるんですー」

「ほう?」


 彼女の手元の画面を覗き込むと、そこには恐ろしく高精度の住宅地図が映っていた。建物の一つ一つがその形状までも正確に書き込まれ、商店や交差点の名称、そしてマンションの名称までも細かく印字されている。


「……さすが、準備がいいですね」


 この時代の技術の凄まじさには今さら驚愕もしないが、わざわざ事前にこの辺りの地図をスマホに入れてきてくれた彼女の気配りには、まったく頭が上がらない。

 彼女はふふんと小さく胸を張ってから、俺を先導して歩き始めた。


「なぁちゃんも、スマホ使えるようになったほうがいいよー。とりあえず、おうちに着いたら充電してさ」

「そうですね。初めて行く場所ばかりですし、地図は色々買っておきたいですね」

「? べつに買わなくてもいいけど……。それより、やっぱラインとか電話とかで連絡つかなきゃ皆困っちゃうもん」

「ふむ。ラインというのは?」

「えっと、昔で言うメール? あれ、昔にメールはないか」

郵便メールはわかりますが、スマホで郵便のやりとりができるんですか」

「んー、まあ、郵便のケータイ版みたいな?」


 郵便の携帯版……。逆に携帯しない郵便などというものがあるのか、と色々考えを巡らせてしまうが、考えても分からないものは分からないので、適当なところで思索を打ち切っておく。

 とにかく、スマホを使って電報のようなものをやりとりできる仕組みがあるのだろう。一市民の手元にそこまでの即時通信手段が必要になる状況というのが、どうにも俺には思いつかないが。


「まあ、そこまで急いで連絡を取らねばならない状況もないでしょうし、当面は問題ないでしょう」

「えぇー、問題あるって。お仕事の連絡もあるし、それにホラ、話したいとき話せないじゃん?」

「会って話せばいいじゃないですか」

「会ってないときも話したいことあるもん。現代人はそういうものなのー」


 そんなことを言いながらテクテクと歩いていると、会話に気を取られたのか、林檎嬢の航法は次第に目的地からズレてきていた。元のルートに戻れる最後の分岐を彼女が平気で行き過ぎたところで、おや、と思って俺は声を掛けた。


「林檎さん。今の交差点を左ですよ」

「えっ、そうなの?」

「正確には三つ前を曲がるのが一番近かったんですが……。西に二十メートルほど行き過ぎています」

「やだ、ウソ! 早く言ってよぉ」

「いや、わかって歩いてるものだと」


 林檎嬢は手元のスマホと俺の顔を交互に見てから、恐らくはマスクの下の頬を赤くして、照れ笑いしながら「転進!」と取って返した。


「転進というか、ただの修正です」

「ウルサイなー、もー。なんで地図持ってないなぁちゃんの方が道わかるの?」

「初めての土地で航法ができなければ軍人は務まりません」


 俺がさらりと言ってやると、彼女がマスクの下でむぅっと頬を膨らませるのがわかった。


 少しばかりの遠回りを経て、俺達は今度こそスムーズにマンションへと辿り着いた。戸数は二十室くらいだろうか、新築らしき綺麗な建物だった。

 入口前の操作盤に鍵を挿し(刻みがなく、代わりに多くの窪みが掘られた不思議な形の鍵だ)、管理人室の男性に挨拶してエントランスを入る。エレベーターを待つ間に観察した限りでは、防火や防犯の設備も整っており、金持ちの女子が一人で住んでも安心な環境と言えそうだった。


「林檎さんは、ここに来るのは初めてですよね」

「うん。だって、なぁちゃんが引っ越したの、つい先月だもん。早く来たいなーって思ってたの」


 浮き浮きした様子の林檎嬢と一緒にエレベーターを上がり、俺はいよいよナナの部屋の前に立つ。ドアを開けた瞬間、花のような甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 玄関には綺麗に整えられた何足かの靴。トランクを置き、フローリングの清潔な廊下を進めば、白い壁に同じく白いカーテンが掛かった広めの居間があった。居間の奥には調理場もあり、大型の冷蔵庫やら、綺麗に整頓された食器棚やらが見える。


「……贅沢な部屋だ」


 独り言のつもりで俺が呟くと、「そうだねー」とどこからか林檎嬢の声がした。彼女は俺より先に他の部屋を確認しに行ったらしい。


「あ、こっちが寝室! 入っていいと思うよー」

「じゃあ失礼して」


 女子の寝室に立ち入るのは気が引けるが、自分自身がその女子ナナとして暮らさねばならないのだから、そうも言っていられない。林檎嬢にくいくいと手招きされ、ええい、ままよ、と俺は寝室へと足を踏み入れた。


「見て見て。大きいベッド!」

「ほう……。艦長室どころじゃない贅沢さだな……」


 純白のシーツが掛かったベッドは、女子なら三人ばかり並んで寝られそうなほどの大きさだった。

 その傍らのサイドボードの上には、エイトミリオンの衣装を着た大和ナナや他のメンバー達の写真が、いくつも額に収められて並べられている。クリスタル製の四角いトロフィーも二つ並べて置かれており、一つには51位、一つには29位と順位が刻まれていた。大和ナナの一昨年と昨年の総選挙順位だ。


「大和ナナの栄光の足跡そくせきか……」


 自らの寝室にこれを飾ったナナの心境を思うと、何やら感慨深かった。エイトミリオンでの日々がナナの誇りであったことは、これまでに公演動画などで見た彼女の姿からも間違いなかった。


「あ、この写真っ」


 林檎嬢がぴょこんと横から手を伸ばしてきた。彼女の指差す先には、ひときわ綺麗な模様の額縁に入れられた、ナナと林檎嬢のツーショットの写真があった。

 サイドボードの中心に置かれたその写真の中、ナナと林檎嬢は嬉しそうに身を寄せ合い、カメラに向かってピースサインを突き出している。


「これ、わたし達が昇格したときの。一緒に新しいチームに入れるってなって、すっごく嬉しかったなー」

「そうらしいね。……ナナにとっても、君と昇格できた喜びは格別だったように見える」


 写真の中のナナの笑顔は、少なくとも俺が見てきた中では最も輝いていた。先輩に置いていかれるでもなく、逆に追い越してしまうでもなく、二人揃ってチーム・クアルトの立ち上げメンバーになれたのは彼女にとって至上の喜びだったのだろう。


「……責任重大だな」


 俺は無意識の内に拳を握っていた。大和ナナのアイドル人生を俺が代わって継がなければならない――その使命の重さをこれまでになく実感する。


「まあまあ、そんなにカタくならないで。今のなぁちゃんは今のなぁちゃんでステキだよ?」


 林檎嬢はそう言ってくれるが、それでも適当なことは出来ないと思った。いつかナナがこの身体に戻ってきたとき、飛羽隼一の野郎、いい加減なことをしやがって、などと思われないようにしなければ……。


「あ、そうだ。なぁちゃんのスマホ、使えるようにしなきゃ」


 思い出したように林檎嬢は言うと、ぱたぱたと玄関まで歩いていって、ナナのトランクの中からスマホを引っ張り出して戻ってきた。ナナもスマホを所持していることは入院中から知っていたが、バッテリーが切れていたし、特に使う必要も感じなかったので荷物の奥に仕舞い込んでいたのだ。


「コンセント繋ぎっぱにしてないのが、いかにもマジメのなぁちゃんだよねー」


 そんなことを言いながら、彼女はナナのベッドの枕元から何かのコードを手に取り、慣れた様子でそのプラグをコンセントに差し込んでいた。なるほど、あれがスマホの充電器か……。

 ナナのスマホの差込口にコードを挿し、彼女は何やらボタンを押したりしていたが、すぐに「あーっ」と顔をこちらに向けてきた。


「やっぱり、なぁちゃんのパパやママからいっぱい着信入ってる。ダメだよー、親を心配させたらー」

「チャクシン? そんな記録が見られるのか?」


 俺は林檎嬢のそばに寄って画面を覗き込んだ。現在時刻と日付の表示の下に、「LINE ママ 着信2件 昨日」やら、「電話 パパ 着信3件 2日前」やらといった文字がずらずらと並んでいる。相手からの電話を取らなかった場合はこうして記録が蓄積されていくのだろう。

 林檎嬢の指が画面を下に送ると、マネージャーの女性の名前や、ナナの妹と思しき名前、それにエイトミリオンのメンバーの名前も並んでいた。「新着メッセージ1件」といった文字が出ているものもあり、こちらは電話の着信ではなく電報もどきの方だろう。

 個人が電話機を携帯して使い道があるのかと疑問だったが、思いのほか多くの人物が、入院中のナナに連絡を取ろうとしていたらしい。


「……これは良くないな。電話を掛け直すにはどうしたらいい?」

「えーと……あ、ダメ。ロックかかってる」


 林檎嬢が向けてきた画面には数字盤が並び、「パスコードを入力」と上に書かれていた。


「暗証番号入れるんだけど……覚えてないよね」

「そうだな……」


 どうやら、正しい番号を押さなければスマホの機能が使えない仕組みらしい。個人が使う電話機になぜそこまでの機密保持が要るのか知らないが、まあ、人によっては、他人に見られたくない写真などを入れているのかもしれないな……。


「暗証番号は何桁か分かるか?」

「えー? ……あ、八桁だよ。ホラ、この丸が八個だもん」

「ふむ。番号はナナが自分で決めたのかな」

「うん。あ、わかるの?」

「なに、こんなもの、大抵は自分の誕生日だろう」


 ナナの生年月日は一九九七年十一月七日。俺はぽつぽつとその数字を押してみた、が。


「……開かないな」

「違うじゃないですかー、少尉どのー」

「じゃあ、生年月日を逆順に。70117991……と。……これもダメか」

「……あ、でもでも、そうだ、前になぁちゃん言ってたよ。こういうパスワードは全部、絶対忘れない日付にしてるって」

「そんなの、自分の誕生日じゃなければ恋人か何かの……」


 どちらからともなく林檎嬢と顔を見合わせ、ぱちりと目をしばたいてから、俺はふと思いついたことを言った。


「君の誕生日じゃないだろうね?」

「えー、いくらなぁちゃんでもそれはー」

「まあ物は試しに。19970615と……」


 俺がしっかり誕生日を覚えていることに林檎嬢が嬉しそうにしたのが一瞬(彼女に限らずチームの全員を覚えている)、それが正解であればいいなとばかりに彼女が息を呑んだのが一瞬。

 だが、残念ながら、その数字でもナナのスマホの画面が開くことはなかった。彼女の生年月日を逆順にしてみても、ナナと彼女の誕生日を繋げて入れてみても駄目だった。


「林檎さん、残念だが、ナナにとって君の誕生日は特別な日付ではないらしいよ」


 冗談に聞こえるように俺が言うと、彼女は律儀に「むー」と頬を膨らませていた。


「……まあ、親への電話はまたにしよう。レッスン場にも電話機はあるだろうし、駅に公衆電話もあったしね」

「あ、わたしのスマホ使う?」

「そうさせてもらえるなら有難いが……しかし、レッスンの後でいいよ。もうあまり時間がない」


 スマホの画面に時刻が出ているのを忘れて、俺は壁の時計を見た。そろそろ出かける準備をするべき時間だった。

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