第5話 春風、嫋やかに(4)

 メンバー達と別れ、俺はマネージャーと林檎嬢に挟まれるようにして劇場の関係者席に滑り込んだ。

 直後、「かげアナ」といって、観覧時の注意などを告げるアナウンスがスピーカーから流れ始める。メンバーの声で、椅子の上に立たないようにだの、撮影は禁止だのと諸注意を読み上げるたび、周囲の観客達は「はーい!」と律儀に声を張り上げていた。


「凄い熱気ですね……」


 俺が小声で呟くと、林檎嬢が嬉しそうに「でしょ」と頷いてきた。

 マスクで顔を隠しているので、観客にナナの存在は気付かれないだろうとは思っていたが、そもそもそれ以前の問題だったようだ。観客達は誰も周りの客席になど気を向けていない。まだ幕も開かない内から、彼らは視覚と聴覚の全てをステージに集中させているのだ。


『Everybody! A live act never seen before――』


 公演動画で何度も聞いた通りの序曲オーバーチュアが劇場一杯に溢れ、観客達が一斉に手持ち照明サイリウムを振り始める。タイガーファイヤーなんちゃらかんちゃらと彼らが張り上げる声も、動画と同じ響きをもって俺の鼓膜を叩いてくる。

 小さなスマホの画面で繰り返し見た通りの光景。しかし――


『Are you ready――』


 序曲の終わりとともに爆音が弾け、壇上の光の中に十六人の人影が現れた瞬間、俺の心は動画とは全く違う衝撃に震えた。


「ああ、瞳交わす、それだけで女子は――」

「そう、心躍る、奈落に落ちるの――」


 手を伸ばせば届きそうな至近距離で、の彼女達が歌っている。鹿嶋かしま朱雀すざくが、知立ちりゅう氷月ひづきが、賀集かしゅう我叶わかなが、野付のつけ鞘海さやかが、速見はやみ早穂子さほこが――写真や映像とも、もちろん楽屋裏での姿とも違う、魂の奥底からほとばしるような輝きを纏って。


超絶チョーゼツ可愛いカワイイ、ヒヅキ!」

超絶チョーゼツ可愛いカワイイ、ワカナ!」


 歌詞の区切りに合わせて客達の叫ぶ声が、彼女達の歌声と渾然一体となって劇場を埋め尽くす。ステージ狭しと踏み鳴らす彼女達のステップまでもが、びりびりとしびれる刺激を伴って心臓を直に揺らしてくる。

 気付けば俺は身を乗り出し、彼女達の熱い乱舞に目を釘付けにされていた。


(そうか、これが――)


 離れた場所の映像をいつでも手元で見られる時代にあって、それでもこの小さな劇場に人々の押し寄せる理由がよくわかる。

 己の目で見て、耳で聴いて初めて分かる感動。動画だけでは満足できぬはずだ。理屈を超えて人の心を震わす何かが、この場にはある。


(これが、アイドル――!)


 とうに知っていた筈の事実を、今改めて認識させられる。

 大和ナナは、この輝きの世界の住人――

 人々の祈りを受け止めて歌い踊る偶像、「シアターの女神」だったのだ。


 それからの二時間弱は、本当にあっという間だった。

 一糸乱れぬダンスと歌唱で観客を魅了する全員曲も、等身大の語りで軽妙に笑いを取るMCも、メンバー各々の魅力が光る少人数ユニットの畳み掛けも。一人一人が己の持ち味を知り尽くし、ファンの心の掴み方を知り尽くしたかのようなパフォーマンスの連続に、俺は周囲の観客達に負けず劣らずの感動を禁じ得なかった。


 ただ――

 その中で、なぜか一人だけ。

 壇上の十六人の中でただ一人だけ、妙な違和感を抱かせるメンバーの存在があった。


(何だ……? 彼女はどうかしたのか……?)


 その娘だけ、どうも周りとは空気が違う。皆と同じように踊り、同じように歌ってはいるが、どこか笑顔に精彩を欠く感じなのだ。

 無駄にソワソワしているというか、心ここに有らずというべきか。ダンスも歌唱もさして乱れているわけではないが、他の娘達と比べてパフォーマンスに熱情が乗っていないような気がする。目の動きもそうだ。本来なら客席のファンに振るべきであろう視線レスを、やたらと関係者席のナナに向けてくる。

 まるで、早くこんな公演しごとなど終わらせて、ナナと話したくてたまらない――そんな風情にも見えた。


(まさか……ナナの「違い」に気付いているのか……?)


 くるくるとウェーブした黒髪が特徴的な彼女は、小西田こにしだマキナといって、十四期と十五期の間の特別採用枠でエイトミリオンに入ったメンバーだった。ナナとは同い年で、ほぼ同期生と言っても差し支えない関係と聞いている。研究生時代にはナナと仕事で組むことも多く、今のチーム・クアルトの中でも特にナナをよく知るメンバーの一人であるとのことだった。

 その彼女が壇上からチラチラと向けてくる目線。俺の方こそ見透かされているのだろうか。この身体に入っているのが本物の大和ナナではないことを……。



 アンコールの演出を経て、公演は何事もなく終わった。壇上で手を振るメンバー達の前を観客がぞろぞろと行進していく「お見送り会」を終え、全ての客がけた後、俺は林檎嬢とマネージャーと一緒に楽屋裏の廊下でメンバー達を出迎えた。


「お疲れ様でした」


 俺が小さく頭を下げると、キャプテンの鹿嶋先輩はひたいに汗を滲ませて「うん」と笑顔を向けてきた。


「どうだったー? 久しぶりに客席あっち側から見てみて」

「はい、皆さんの魂の躍動に感激しました。私も早くステージに戻りたいという気持ちです」

かったいなー。マジメか!」


 先輩がびしりと片手を振って突っ込みを入れてくる。他のメンバー達がそれを見て笑うので、俺も自然に笑みが漏れた。

 それから、メンバー達がきゃいきゃいと騒ぎながら楽屋に入っていく中、最後まで廊下に残って俺に声を掛けてきたのは、やはりあの小西田マキナ嬢だった。


「ナナ、ちょっと」


 何やら伏し目がちに俺を見て、マキナは小さく手招きしてくる。林檎嬢が横から心配そうな目で俺を見てきたが、俺は視線で「大丈夫」と返し、マキナの方へと足を踏み出した。相手が二人きりの会話を求めているところで、不自然に林檎嬢に立ち会ってもらっては、逆に怪しさが増してしまう。

 マキナに招かれるがまま、俺は廊下を曲がり、人気ひとけのない非常階段の前まで来た。林檎嬢とマネージャーは皆と一緒に楽屋に入ったらしかった。

 俺は姿勢を正してマキナと向き合った。さあ来い、しらを切る準備はできているぞ。


「あの……さ」


 マキナは慎重に辺りを見回し、誰もいないことを確かめてから、小さな声で切り出してきた。


「こないだの話なんだけど……」


 歯切れの悪い彼女の言葉に、瞬間、しまった、と俺は思った。ナナのプロフィールも、マキナのプロフィールも可能な限り頭に入れてきてはいるが、二人しか知らない話など持ち出されるとお手上げだ。

 まあ、それは林檎嬢がこの場にいてくれてもきっと変わらないので、俺が自力で乗り切るしかない。

 マキナ相手に敬語は使わないはずだな、と考えながら、俺は口を開いた。


「どの話だったかしら?」

「……何その口調」

「……ううん、何でもない」


 マキナに困ったような苦笑を向けられ、「かしら」は無いな、と我ながら反省した。林檎嬢しかり、鹿嶋先輩しかり、この時代の女子は誰もそんな話し方はしていない。

 俺が冷たい汗を背中に感じながら次の言葉を待っていると、マキナは、うつむいて逡巡するそぶりを見せてから、俺の目をまっすぐ見ないまま言ってきた。


「……ホラ、あの、の話……」

「下船の話……?」


 なんだそれは、と俺は考える。比喩的な表現としか思えなかった。船を降りると言えば、一般に、組織を抜けることだろう。


「あなた、エイトミリオンを辞めるの?」


 俺は問うた。今度は女子として自然な口調だったらしく、マキナに怪訝けげんな顔をされることはなかった。

 相変わらずうつむき加減のまま、ナナの胸元あたりに視線を泳がせて、彼女は言う。


「辞めないよ。辞めたくない。……でも、スプリングの写真が出ちゃったら……」

「スプリングの写真?」


 俺は反射的に首を傾げた。知らない表現だった。この時代の言葉か、あるいはエイトミリオン独自の隠語か。

 スプリングとは普通に考えれば春のことだろう。海軍でも、小松という料亭を「パイン」だとか、かえでという旅館を「メープル」だとか、助平すけべのことをヘルプの略で「ヘル」だとか、何でも英語にして呼んでいたものだ。

 春の写真……まさか海軍で言うところの春画ヘルピク、いかがわしい写真のことか?


下賤げせんの話といって、まさか助平ヘルプな類の話じゃないだろうね」


 俺が言うと、彼女は案の定、意を得たりといった感じで勢いよく顔を上げてきた。


「そ、そう! ヘルプな話! ナナ、聞いてくれるよね!?」


 彼女の勢いと逆に、なんだ、と俺は肩を落とした。わざわざ連れ出すから余程重大な話なのかと思いきや、ナナに猥談ヘルだんを聞かせて反応を楽しみたかっただけとみえる。

 この分だと、どうやらナナの正体を怪しんでいるというセンも無さそうだな……。

 小さく溜息をついて、俺は言った。


「私は、そういう話には付き合えない。いかがわしい写真も見たくはない」


 マキナの顔がぴくりと強張こわばる。

 ひょっとしたら、今ここにナナ本人が居たらそういう話に付き合っていたのかもしれないが、それは本人なればこそ許されることであって、俺が勝手にナナの品位を貶めるわけにはいかない。大体、俺自身もヘル談は全く得意ではないのだ。

 ……それにしても、「彼氏」という言葉くらいならともかく、ヘルピクだのヘルダンだのといった下品な隠語まで未来に伝わっていて欲しくはなかったな……。


「ナナ、わたし――」

「そういうことに興味のある年頃なのはわかるが、君だってアイドルだろう。品位を損なうことを自らするものじゃないよ。もっと分別ふんべつを持ってはどうかな」


 俺が言うと、彼女は半秒ほど表情を硬直させてから、しゅんとしたように目を伏せた。

 その肩が小さく震えているのを見て、言い過ぎたか、と俺が思ったとき。


「……ひどい! ナナは味方だと思ってたのに!」


 涙声でそうわめくが早いか、彼女はざっときびすを返して。


「あっ、君っ!」


 俺が思わず手を伸ばすのを振り切って、目の前の階段を駆け下りていってしまった。


「マキナ!」


 咄嗟のことで、俺は全力で追う気にもなれず、階下に遠ざかる彼女の足音を聞きながら立ち尽くすだけ。

 そこへ、今の声を聞きつけたのか、林檎嬢が廊下を走って俺に追いついてきた。


「どうしたの?」


 マキナの去った階段と俺の顔を交互に見て、彼女は不安げに聞いてくる。


「……私は、彼女を傷付けてしまったようです。彼女がヘル談……いかがわしい話をしたがっていたようなので、つい厳しい言い方でとがめてしまいました」


 ばつの悪さを感じながら俺が答えると、彼女は「あー……」と察したように諦観の表情を見せた。


「しょうがないよ、明日謝ろ?」

「そうですね。彼女には申し訳ないことをしました……」


 去り際のマキナが見せたあの涙。友人だと思っていたのに裏切られた、と彼女の目は言っていた。確かに、この時代の女子の価値観に不案内な俺が、己の感覚で彼女をたしなめるようなことを言ったのは良くなかったな……。

 我ながら情けない。初日からこれでは今後が思いやられる。


「大丈夫。なぁちゃんはよくやってるよ」


 俺の心情を察したように林檎嬢はそう言ってくれたが、俺の中では、軽率な叱責でマキナを傷付けてしまったことへの悔恨の念がいつまでも消えないままだった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 その後、林檎嬢らと別れ、俺はひとり電車に乗って病院に戻った。

 明日にはここを退院し、都内にあるという一人暮らしの集合住宅マンションに居を移して、レッスンやその他の活動に復帰する手筈だ。

 ナナが実家を出て東京に部屋を借りたのはつい最近だというが、俺としては今の状況でナナの親兄弟の前に出なくて済むのは有難かった。メンバー相手に記憶喪失を誤魔化すだけでも大変なのだから、肉親の前になど立ったら、俺がナナでないことはたちまち見抜かれてしまうだろう。願わくば、そうなる前に、ナナ本人にこの身体を返したいものだが……。


(しかし……ナナが戻ってきたら、俺の魂はどうなるんだろうな)


 病室の窓から、夕焼けに染まる街を見下ろし、俺はふとそんなことを考える。

 一つの身体に二つの魂が入ることはできないだろう。そうなると、俺自身の肉体は七十二年前に失われているのだから、ナナ本人がこの身体に戻ってくれば、俺はもうこの世に留まることはできまい。

 この時代の技術に驚愕したり、アイドルに心を震わせたり、林檎嬢と笑い合ったりできる時間も、明日には泡沫うたかたの夢の如く消えてしまうかもしれないのだ。


「……まあ、そうなったら、その時こそ靖国やすくにに行くだけか」


 俺はわざと口に出して呟いた。震えるのはナナの声帯、切なく響くのはナナの声だ。

 不思議なものだ。己の死を悔やむ気持ちなど微塵もなかった筈なのに、たった数日この時代で過ごしただけで、もうこの世界に愛着を感じ始めている俺がいる。この身体も、この人生も、俺のものではないのに……。


 夕食と入浴を済ませ(ナナの身体は勿論見ていない)、看護婦と世間話をしたり談話室のテレビジョンを見たりしている内に、消灯の時刻になった。清潔なシーツにもぐり込み、俺は目を閉じて頭の中で五省ごせいを唱えた。


 至誠しせいもとかりしか。言行にづるかりしか。気力にくるかりしか。努力にうらかりしか。不精ぶしょうわたかりしか……。


 兵学校で教え込まれた、己の一日の振舞いをかえりみるための五つの訓戒だ。……今日のマキナ嬢への態度は、至誠でもなければ、士官の名に恥じぬ言行でもなかっただろう。


(マキナには、今日のことを詫びないとな……)


 明日のレッスンには彼女も当然来るだろう。俺が明日もこの世に居られるのなら、顔を合わせて一番に謝らなければならない。

 後悔と誓いを深く噛み締めているうち、俺の意識は次第に、この病室で過ごす最後の眠りへと落ちていった。

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